第1話 青天の霹靂
春の柔らかな陽射しが、大きなアーチ型の窓から侯爵家の応接間へと静かに降り注いでいた。光の粒が空気中の埃をキラキラと輝かせ、穏やかな午後の訪れを告げている。
リリー・アシュフォードは、白磁のカップに注がれた湯気の立つ紅茶を見つめながら、小さく息をついた。ベルガモットの華やかな香りが微かに鼻腔をくすぐる。
今日は王宮から使者が訪れる予定の日だった。
婚約者である第一王子・アダムと、正式な婚礼の日取りについて最終的な話し合いが行われると聞いている。
もっとも——。
(殿下も私も、この結婚を心から望んでいるわけではないけれど)
リリーは唇の端に、どこか自嘲気味な笑みを浮かべた。
幼い頃に両家の思惑によって結ばれた、典型的な政略結婚。
お互い、そこに甘い恋心など存在しないことは痛いほど理解していた。だからこそ二人は、社交辞令の仮面を脱ぎ捨て、誰もいない庭園で一度だけ本音を明かし合ったことがある。
『リリー……不躾なことを聞くが、君には想い人がいるのだろう?』
『……ええ。殿下、貴方もでしょう?』
それは、もう何年も前の出来事だった。
殿下には、幼い頃からずっと側に寄り添い、密かに想いを寄せ続けている一人の侍女がいた。
そしてリリーにもまた、幼い頃より想いを寄せる一人の男がいた。
どちらの相手も、身分があまりにも違いすぎる。
貴族社会の厳格な掟の前では、決して結ばれることのない初恋だった。
だからこそ二人は納得していたのだ。自分の気持ちには蓋をし、諦め、この国の第一王子と侯爵家の令嬢として与えられた高貴な義務を果たそう、と。
『私たちには無理だな。身分を捨てて、愛する人を選ぶなんてことは』
『ええ。だからせめて、お互いに与えられた場所で善処しましょう』
そう誓い合ったあの日から、二人は秘密を共有する"同志"となった。恋人ではないが、互いの傷を知る良き友人。
そんな割り切った、けれどどこか心地よい関係を築いてきたはずだった。
その穏やかな静寂が打ち破られたのは、まさに次の瞬間だった。
バンッ! と、重厚な扉が悲鳴を上げて勢いよく開く。
「リ、リリー様っ……!」
息を激しく切らせ、肩を上下させているのは長年リリーに仕えているメイドのアンナだった。普段の冷静さは跡形もなく、その顔は血の気が完全に引き、紙のように真っ白になっている。
「どうしたの? そんなに慌てて……」
ただ事ではない雰囲気に、リリーは思わず立ち上がった。
アンナは震える唇を必死に動かし、掠れた声で叫ぶように告げる。
「で、殿下が……殿下が……っ!」
「殿下がどうなさったの? 急病でも……?」
「侍女と……駆け落ちされました……っ!」
「…………え?」
思考が瞬時に凍りついた。
手から滑り落ちた白磁のティーカップが、足元で甲高い音を立てて砕け散る。
温かい紅茶が純白の絨毯へと広がり、無惨なシミを作っていく。けれど、リリーの目にはその光景すら入らなかった。
「駆け落ち……?」
思わず呟いた瞬間、頭の中に一人の人物が鮮明に浮かび上がった。
いつも殿下の数歩後ろで、静かに、けれど愛おしそうに殿下を見守っていた、あのつつましい侍女の姿が。
「……まさか。」
思い当たる人物は、彼女しか居ない。
リリーは衝撃に目を見開いたあと、ふっと肩の力を抜き、小さく長い息を吐き出した。
「殿下……」
彼は、選んだのだ。
次期国王という絶対的な地位も、溢れるほどの富も、約束された輝かしい未来も、すべてを投げ打って、彼女を選んだ。
ただ一人、愛する彼女の手を取って逃げ出したのだ。
昔、陽の当たる庭園で交わした切ない会話が、鮮やかに脳裏によみがえる。
『私たちには無理だな。愛する人を選ぶことなんて』
あの時、諦めたように笑っていた殿下。
けれど殿下は、二人で交わした"諦める"という約束を破った。
(……いいえ。破ったのではないわ)
己の愛を、最後まで貫き通したのだ。
リリーは胸の奥が、熱く灼けるような感覚に襲われるのを覚えた。
(羨ましい……)
喉の奥まで出かかったその一言を、必死で呑み込む。
地位を捨て、世間体を捨て、すべてを敵に回してでも想い人の手を取ったアダム。そのあまりにも無謀で、けれど美しい決断が、リリーの心を激しく揺さぶっていた。
けれど——次の瞬間、リリーの表情はふっと陰りを帯びた。
殿下は自由を手に入れた。己の愛を貫き、どこか遠い空の下で愛する人と生きていくのだろう。
では、残された自分は?
王太子に捨てられた哀れな令嬢。社交界の格好の噂の種。
殿下が逃げ出したことで生じた歪みと代償は、すべて取り残されたリリーの肩に重くのしかかってくる。
自分には、殿下のようにすべてを投げ打って初恋の人の元へ走る自由など、最初から残されてはいなかったのだ。
◇◇◇
その日の午後。
王宮から訪れた使者は、深々と頭を下げて謝罪の言葉を繰り返した。
「……この度の件につきまして、国王陛下より深重なるお詫びを申し上げます。アルフレッド殿下とリリー様との婚約は……本日をもって解消となります」
応接間には父であるアッシュベルト侯爵と母、そしてリリーが座っていた。
父は怒りで拳を固く握りしめ、母はショックのあまりハンカチで口元を押さえて泣いている。
だが、当事者であるリリーだけは、静かにその宣告を受け止めていた。
「また、陛下はリリー様の名誉が著しく傷付くことを大変憂慮されております」
使者は恭しく一枚の書状を差し出した。王家の紋章が押された、重々しい縁談書だ。
「そこで、新たな縁談をご用意されました。お相手は……辺境伯、ヴィンセント・クロフォード閣下です」
その名を聞いた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
ヴィンセント・クロフォード。
王国最強と讃えられる不敗の英雄。冷徹無比な戦術家であり、北方の過酷な戦場を守り抜く名将。
そして——社交界で最も有名な噂を持つ男。
「……あの、三年前に若くして奥方を亡くされた方か」
父が苦々しい声で呟く。
「はい。閣下は亡きご令室を深く愛しておられ、一度は後妻を迎えられのですが、上手くいかず……以来、あらゆる再婚の話を固辞されていました。……今回は陛下の強い強いご意向があり、お受けになられたと…」
リリーは静かにその言葉を聞いていた。
亡き妻を今なお想い続け、心を閉ざした英雄。
そして、初恋の人を今なお想い続け、心に鍵をかけた自分。
(私と同じ……決して届かない人を想い続けている人)
王子に捨てられた傷物の令嬢を引き取るという政略結婚。
そこに愛など存在するはずもない。けれど、自分にとってもそれは都合が良いのかもしれない。
「リリー」
父が心配そうに娘の顔を覗き込む。
「無理にとは言わん。断りたければ、私が陛下に直訴してでもこの縁談を蹴ってやる」
優しい父の言葉に、リリーは静かに微笑んだ。
「……いいえ、お父様」
リリーはすっと背筋を伸ばし、迷いのない瞳で使者を見つめた。
「私に、このお話を断る理由はありません。喜んでお受けいたします」
逃げ出した殿下を責める気はなかった。
ならば自分は、侯爵家の娘として与えられた次の役目を果たすまで。
自分の心にある"忘れられないあの人"への想いだけは、誰にも奪われないように、胸の奥深くにそっと隠して。
こうして、リリーの新たな運命が決まった。
しかし、この時のリリーはまだ知る由もなかった。
北の冷たい風が吹く館で、初めて出会った夫が冷ややかな瞳でこう言い放つことを。
『勘違いするな。私は、亡くなった妻以外を愛する気は毛頭ない』




