第5話 冷ややかな宣告
北方の空は、王都の青空に比べて驚くほど低く感じられた。
数日間に及んだ険しく長い道のりを経て、豪奢な馬車はようやくクロフォード辺境伯家の屋敷へと到着した。
目の前に聳え立つ石造りの館は、貴族の邸宅というよりも、武骨で無機質な城塞そのものだった。
装飾らしい装飾は一切削ぎ落とされ、機能性と堅牢さのみを極限まで追求した造り。過酷な戦場で幾多の修羅場を潜り抜けてきた英雄――ヴィンセント・クロフォードという男の性質を、そのまま象徴しているかのようだと、リリーは思った。
馬車の車輪が止まり、重厚な扉が開く。
だがヴィンセントは、エスコートのためにリリーへ手を差し伸べることすらしない。彼女の存在など端から頭にないかのように、無言で一人、馬車から降り立っていった。
「旦那様、おかえりなさいませ」
玄関前に並んだ使用人たちが、冷たい風の中で一斉に頭を下げる。
ヴィンセントは足を止めることもなく、ただ一瞬だけ顎を引いて軽く応えると、一瞥もくれずにそのまま屋敷の奥へと足早に入っていった。
「あ……」
車内に一人取り残されたリリーは、小さく息を呑みながらも、慌てて重いドレスの裾を持ち上げて馬車を降りた。
冷気を含んだ風が容赦なく洗練された花嫁衣装を揺らし、肌を刺す。急いで彼の後を追うが、誰一人としてリリーを気遣うような言葉をかける者はいない。
歓待の気配など微塵もない、ただただ重苦しい静寂だけが館を満たしていた。
◇◇◇
冷気漂う玄関ホールに足を踏み入れると、白髪混じりの執事を筆頭に、整列した使用人たちが改めてリリーへと向き直った。
「奥様、本日よりお仕えいたします。執事のエドガーでございます」
「リリーと申します。今日からどうぞよろしくお願いいたします」
リリーはヴェールを少し整えると、ゆっくりと深く頭を下げた。
そして姿勢を正すと、緊張に強張る使用人たち一人ひとりの目を見つめ、どこまでも柔らかく優しげな微笑みを浮かべてみせた。
そのあたたかな笑みに触れた瞬間、使用人たちは思わず目を丸くした。
王子に一方的に婚約を破棄された哀れな侯爵令嬢。
王命の不祥事処理として、この果ての地に追いやられてきた新しい奥様。
きっと打ちひしがれ、暗く引きこもってしまうような女性なのだろう――誰もがそう決めつけていたからだ。
だが、目の前に立つリリーの笑顔は、周囲の冷え切った空気をそっと和らげるほどに、どこまでも穏やかで、誇り高かった。
ヴィンセントはその光景を、階段の手前から無表情なまま一瞥する。
亡き妻への誓いを守るため、そして余計な情を抱いて自分を鈍らせないため、その眼光には意図的な冷たさが宿っていた。
「エドガー」
「はい、旦那様」
「荷解きが済み次第、彼女を執務室へお連れしろ」
「かしこまりました」
冷ややかな指示だけを残し、ヴィンセントは背を向けて奥の執務室へと姿を消した。
◇◇◇
夕刻。薄暗い影が館を支配し始めた頃。
与えられた客間での最低限の荷整理を終えたリリーは、執務室の重厚な扉の前に立っていた。
トントン、と控えめなノックを打つ。
「……リリーです」
「入れ」
扉の向こうから聞こえたのは、地響きのように短く冷たい声だった。
静かに扉を開けると、ヴィンセントは広い部屋の奥にある巨大な執務机に向かい、積み上がった書類に黙々と目を通していた。
リリーが入ってきても、視線すら動かそうとしない。
「失礼いたします」
リリーは一礼し、足音を立てないよう静かに室内へ進み、背後の扉をそっと閉めた。
部屋の中には、ただカリカリと羊皮紙にペンを走らせる音と、書類をめくる無機質な音だけがしばらく響き渡る。リリーは背筋を伸ばしたまま、彼が顔を上げるのを じっと待った。
やがて、ヴィンセントは書類を一度閉じると、不機嫌そうにようやく顔を上げた。その灰色の鋭い瞳には、一切の温もりも宿っていない。
「座ってくれ」
「はい」
示された対面の椅子にリリーは静かに腰を下ろした。
まるで罪人を問い詰める取り調べか、あるいは冷徹な商談の場のような殺伐とした空間。
ヴィンセントは挨拶も、前置きすらも省き、凍りついた声で直球を投げつける。
「最初にはっきり言っておく」
その低く掠れた声は、あまりにも冷え切っていた。
「この結婚は、陛下の不条理な命によるものだ」
「……はい」
「私は自らの意思で君を妻に望んだわけではない。ただの義務だ」
リリーは一切反論せず、静かに頷いた。その美しい瞳の奥にどんな感情が渦巻いているのか、表情からは読み取れない。
「だから、絶対に勘違いだけはするな」
ヴィンセントの冷酷な灰色の瞳が、刃のように真っ直ぐリリーを貫く。
亡き妻以外の女性を心に入れることなど、己の誇りと誓いが絶対に許さない。自分に冷徹になることで、自ら壁を築いているのだ。
「私は、亡くなった妻以外を愛する気は毛頭ない」
一瞬で、部屋の中の空気が凍りついたような錯覚に陥る。
その言葉は一筋の慈悲もなく、容赦なくリリーの胸へと鋭く突き刺さった。
ヴィンセントはさらに言葉を重ねる。情を挟む隙間を微塵も与えないための、拒絶の壁を完璧に築き上げるために。
「公の場では、辺境伯夫人としての体裁を守るため相応に振る舞うつもりだ。この屋敷の運営や切り盛りに君が口を出すことも拒まない。好きにするがいい」
「……」
「だが、私個人に対してそれ以上を望むな。私たちが心を通わせることはない」
淡々と、淡々と告げられる宣告。
己の心を防衛し、決して一線を越えさせないために言い放たれる拒絶の言葉。
「私が君を妻として愛することはない」
リリーはすっと静かに視線を落とした。
膝の上で重ねていた細い指先が、ぎゅっと上質なドレスの布地を握り締める。爪が手のひらに食い込むほどに力が込められ、白い皮膚から血の気が引いていた。
王都での婚約破棄、見知らぬ地への嫁ぎ、そして初日に突きつけられる決定的な拒絶。
その胸を裂くような痛みに、一瞬だけ呼吸が止まる。
けれど、どんな形だとしても、辺境伯夫人として生きていくのだと決めたのだから。
「……承知いたしました」
拍子抜けするほど静かで、透明な声だった。
取り乱して泣き叫ぶこともない。
理不尽な冷遇に抗議することも、恨み言を口にすることもない。
ただ、与えられた酷薄な現実をそのまま受け入れる言葉。
あまりにも取り乱さないその姿に、思わずヴィンセントの眉が不快そうにひそめられた。
「……それでいいのか」
自分を冷徹に保つはずだったのに、予期せぬ言葉に思わず問いが漏れていた。
リリーはそっと顔を上げると、小さく、儚げに微笑んだ。その笑みは月光のように淡く、今にも消えてしまいそうだった。
「はい」
「……」
「旦那様のお気持ちは、王都にいた頃からお噂で存じ上げておりました」
彼女はひと息つくと、力強さを秘めた瞳でヴィンセントを真っ直ぐに見つめ返した。
「先立たれた大切な方を、今もなお深く愛していらっしゃるのでしょう」
「……」
「でしたら……その尊いお気持ちを、私のために無理に変えていただく必要などございません。どうか、奥様への気持ちを大切になさってください」
ヴィンセントは一言も返せなかった。
冷酷に突き放して傷つけるつもりだった。期待を抱かせないことが、お互いのためだと思っていた。
だが、目の前の女性は傷ついた素振りを見せるどころか、自分の亡き妻への愛情すらも肯定し、受け入れようとしている。
リリーは静かに立ち上がり、ドレスの裾を優雅に整えた。
「私は、クロフォード辺境伯夫人として任された務めを、精一杯果たしてまいります」
美しい所作で、深く、深く一礼する。
「それでは、本日はこれで失礼いたします」
振り返り、迷いのない足取りで去っていく彼女の背中を、ヴィンセントは言葉を失ったまま見送ることしかできなかった。
扉が静かに閉まり、カチャリと小さな金具の音が部屋に響いた。
◇◇◇
執務室を出て重い木製扉を閉めた瞬間、リリーの足がピタリと止まった。
廊下の壁に背を預けそうになるのをギリギリで踏みとどまる。胸の奥が、焼け付くように痛む。
頭では最初から理解していたはずだった。
彼が亡き妻を愛し続けているという噂も、自分との結婚が望まれたものではないことも。
それでも――面と向かって「愛することはない」と鋭い言葉で告げられることが、これほどまでに胸を刺し、息を詰まらせるものだとは思いもしなかった。
震える手をそっと胸元に当て、冷えた空気を深く吸い込む。
(……大丈夫)
何度も、何度も心の中で繰り返す。
(最初から、期待なんてしていなかったでしょう?)
そう自分自身に言い聞かせる。
期待しなければ、傷つくことなんてないはずだった。
恋焦がれた初恋を過去に置き去りにして、覚悟を決めてここへ来たはずだった。
それなのに、どうしてこんなにも胸が痛み、涙が溢れそうになるのだろう。
リリーはゆっくりと瞼を閉じた。
立ち止まりそうになる自分を奮い立たせるように、誰も見ていない冷たい廊下で、自分自身へと静かに微笑みかける。
「……頑張らなくちゃ」
その決意に満ちた、けれど哀しいほど小さな呟きだけが、誰の耳にも届くことなく、薄暗い館の廊下に寂しく溶けて消えていった。




