幕間① 王都にて
王城の訓練場は、高校の校庭より広かった。
石畳が敷き詰められ、周囲を回廊が囲んでいる。武具棚には、見たこともない形の剣や槍が整然と並んでいた。
「うわ、すご……」
佐伯陽一が、眼鏡を押し上げながら周囲を見回している。
三十三人の高校生が、支給された装備を身につけて立っていた。
名工が打ったという剣。魔力を通す軽鎧。手に馴染むよう調整された籠手。専属の職人が一人ずつ採寸して、たった三日で仕上げたものだった。
「これ、いくらすんのかな」
姫川莉奈が、剣の柄をつつきながら言う。
「値段のつくものではありませんわ」
九条麗華が、背筋を伸ばしたまま答えた。
「王家の宝物庫から出されたものも混じっているそうです。……相応の期待をされている、ということでしょう」
「うわ、重っ」
鬼塚大我が、支給された大盾を持ち上げようとして、よろめいた。
誰も、教室にいた頃の話はしなかった。
三日で、みんな切り替えていた。切り替えなければやっていけないことを、全員がなんとなく理解していた。
※
「——揃ったな」
声が、回廊の側から響いた。
背の高い男が歩いてくる。四十代半ば。灰色の混じった短髪。左の頬から顎にかけて、古い傷が走っている。
鎧は装飾のない実用一辺倒のもので、王城の中では明らかに浮いていた。
「騎士団長、ガレス・ヴァンダールだ。今日から、諸君の訓練を担当する」
ざわめきが起きた。
騎士団長。この国で最も強い男。しかも、魔王の《無明魔域》の中心まで到達した唯一の人物だと聞いている。
「先に断っておく」
ガレスは、拍手も歓声も求めなかった。
「私は諸君を英雄と呼ばない。まだ、何もしていないからだ」
ざわめきが止まった。
「もう一つ。私は諸君を強くすることはできない。それは諸君が勝手にやることだ。私が教えられるのは、死なない方法だけだ」
誰も口を開かなかった。
「今、前線を支えているのは《縁隊》という部隊だ。《無明魔域》の外縁で戦える、耐魔力の高い者だけで編成されている」
ガレスは淡々と続けた。
「定員は百名。だが、この二十年間、一度も定員が埋まったことはない」
「……どうしてですか」
白石美咲が、小さく聞いた。
「補充が追いつかんからだ」
ガレスは、彼女の方を見た。
「平均在籍期間は、二年を切っている」
誰かが息を呑む音がした。
「諸君はその百人よりも希少で、その百人より脆い。だから、まず走れ。話はそれからだ」
※
「あの、団長さん」
手が挙がった。
神崎蓮司だった。
「はい、勇者殿」
「俺、聖剣使えるんですよ」
神崎は、爽やかに笑ってみせた。
「基礎訓練って、必要ですか? 時間が惜しいっていうか。早く魔王のとこ行ったほうがよくないですか」
周囲の何人かが、小さく笑った。神崎の物言いは、いつもそうやって場を和ませてきた。
ガレスは笑わなかった。
「では、伺いますが」
彼は、神崎の目をまっすぐ見た。
「その剣は、何時間握っていられますか」
「……え?」
「三日間。寝ずに。雨の中で。飯も水もなく。握り続けられますか」
「いや、それは……」
「戦場では、技で死ぬ者より、握力で死ぬ者のほうが多い」
ガレスは視線を外し、全員に向き直った。
「剣が落ちる。拾う。拾おうとして屈む。そこを刺される。私が見送った部下の三割はそれです」
訓練場が、静まり返っていた。
「走ってください。今日は、それだけです」
※
夕方には、半分が動けなくなっていた。
佐伯は最初の一周でリタイアし、姫川は途中で吐いた。九条は最後まで走ったが、終わった瞬間に石畳に座り込んで「はしたないですわ」と呟いた。
鬼塚大我は、遅かった。
誰よりも遅く、誰よりも長く走っていた。何度も転んで、そのたびに立ち上がって、最後の一人になってもまだ走っていた。
「もういい」
ガレスが止めても、大我は止まらなかった。
「……あと、一周」
「明日がある」
「あと、一周だけ」
ガレスは何も言わず、それを見ていた。
※
東雲千尋は、走り終えたあと、一人で基本稽古を始めた。
支給された籠手を外し、素手で。
突き。引き手。突き。引き手。
同じ動作を、同じ速度で、崩さずに繰り返す。二百回を超えても、一回目とまったく同じ形だった。
「——誰に習った」
背後からの声に、千尋は動きを止め、振り返って一礼した。
「父です。実家が道場をしています」
「その突きは、人を殺すためのものではないな」
「はい。競技用です」
「なら、変えねばならん」
「はい。教えてください」
千尋は即答した。
ガレスは、少しだけ目を細めた。
「……素直だな」
「私は、まだ何も知らないので」
彼女は、汗も拭かずにそう言った。
ガレスはしばらく彼女を見て、それから短く言った。
「続けろ」
「はい」
千尋はまた、突きを繰り返し始めた。
その背中を見ながら、ガレスは思っていた。
——あれは、本物だ。
勇者の剣は確かに輝いていた。だが、輝くだけの剣なら見たことがある。
あの娘の突きには、光はないが・・・
その一撃には決して折れぬ不動の軸がある。
※
訓練場の隅で、水城葵が宰相に話しかけていた。
「質問があります」
「なんなりと」
「クラスメイトが一人足りません」
宰相バルドの表情は、まったく変わらなかった。
「黒崎蓮殿ですね。隔離施設で保護しております」
「場所を教えてください」
「保安上、お答えできません」
「……手紙は」
「取り次ぎましょう」
葵は少し黙ってから、頷いた。
「分かりました。書きます」
「承知いたしました」
宰相は丁寧に一礼して、去っていった。
葵はその背中を見送りながら、手の中の小石を弄んでいた。
保安上お答えできない。
結構だ。
だが——取り次ぐ、と言った。
場所を教えられない施設に、どうやって手紙を届けるのだろう。
葵は小石をポケットに入れた。
まだ何も分からない。分からないことを、分かったふりで騒ぐつもりはない。
ただ、覚えておくだけだ。
※
夜。
訓練場に、まだ一人残っていた。
東雲千尋は、月明かりの下で突きを繰り返していた。昼間ガレスに直された形で、まだぎこちない。
「……おい」
鬼塚大我が、足を引きずりながら現れた。
「鬼塚くん。歩けるの」
「歩けねえ。だから来た」
「意味が分からない」
「寝てると余計なこと考えるんだよ」
大我は、壁にもたれて座り込んだ。
しばらく、千尋の拳が空気を裂く音だけが響いていた。
「……なあ、東雲」
「はい」
「黒崎、ほんとに隔離施設にいんのかな」
千尋の手が、止まった。
「宰相は、そう言っていた」
「そういうことじゃねえよ」
大我は、月を見上げたまま言った。
「お前がどう思ってるか聞いてんだ」
千尋は、しばらく答えなかった。
彼女は嘘をつかない。つけない。だから、答えるまでに時間がかかった。
「……確かめる方法がない」
「そうかよ」
「はい」
「じゃあ、確かめられるようになるまでやるしかねえな」
大我は立ち上がろうとして、足がもつれ、また座り込んだ。
「……くそ」
千尋は歩み寄って、手を差し出した。
「肩を貸す」
「いらねえ」
「では、私がここにいる。歩けるようになるまで」
「……お前、そういうとこあるよな」
「そうですか」
「褒めてねえよ」
千尋は、大我の隣に座った。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
※
大我が眠ってしまったあと、千尋はもう一度立ち上がった。
構える。突く。引き手を取る。
あの日、彼女は前に出た。自分が監督すると申し出た。柊隼人が「死ぬなら死ね」と言ったときも、鋭い声で名を呼んだ。
だが、王が「隔離せよ」と命じたとき——彼女は一秒、迷った。
その一秒で、騎士が黒崎蓮の腕を掴んだ。
あのとき何を言えばよかったのか、千尋には今も分からない。三十四人の命を預かる王の判断に、根拠もなく反対することは、正しさではないと思った。
今でも、そう思っている。
思っているのに、あの一秒だけが、ずっと胸に刺さっている。
——必ず迎えに行くから。
自分が言った言葉を、千尋は覚えていた。
あれを嘘にしないためには、方法は一つしかない。
突く。引く。突く。引く。
同じ動作を、何度でも。それしか知らないから。
「……黒崎くんは、今ごろどうしているでしょうか」
誰にも聞こえない声だった。
※
同じ夜。
死海の森で、黒崎蓮は初めて狼の肉を焼いていた。
火を起こすのに、三時間かかっていた。




