第8話 飲め
森に来て、一ヶ月が過ぎた。
木の幹に刻んだ線は三十本を超えて、数えるのが面倒になった。ルナが「……三十四」と横から教えてくれるので、最近は任せている。
生活は、驚くほど形になっていた。
洞穴の入口には風除けの柵を組んだ。奥には枯れ草を厚く敷いて、その上に牙猪の毛皮を張った。水は近くの流れから汲み置きし、肉は薄く切って干す。
道具も増えた。骨の刃。石の斧。蔓を編んだ縄。
「レン」
「んー」
「……これ、どうするの」
ルナが、両手で掲げているのは細い木の枝の束だった。
「それは束ねて、こう縛る」
「……こう?」
「逆。逆から回す」
「……こう」
「そう」
ルナは真剣な顔で縄を回していた。
この一ヶ月で、こいつはずいぶん喋るようになった。
最初は一日に十語も言わなかったのが、今は普通に会話が続く。とはいえ一文が短いのは変わらないし、相変わらず「……」から始まる。
あと、やたらと近い。
今も、肩が触れる距離に座っている。
「……できた」
「上出来だ」
「……」
ルナが、じっと俺を見た。
「なんだよ」
「……もっと」
「もっと?」
「……もっと、言って」
……ああ、そういうことか。
こいつは褒められると分かりやすく機嫌が良くなる。しかも、自分から催促してくる。
「上手いな。俺より綺麗に縛れてる」
「…………ふふ」
小さく笑った。
その顔が、なんというか。
……いや、なんでもない。
※
夜。
火を挟んで、俺たちは肉を焼いていた。
「なあ、ルナ」
「……なに」
「お前、この森から出たことないのか」
「……ある」
「へえ。どこまで」
「……ずっと、遠く」
ルナは炎を見つめたまま言った。
「昔は、いろんなところに行った」
「一人で?」
「……ううん」
それきり黙ってしまった。
仲間の話なんだろう。触れないほうがいい。
俺は串を回して、話題を変えた。
「俺のいたとこはさ、ここと全然違うんだよ」
「……そう」
「建物がでかくてな。三十階建てとか普通にある。あと、夜でも明るい。街灯ってのがあって、火を使わなくても道が見えるんだ」
「……火を使わないで?」
「電気っつうの。まあ、魔法みたいなもんだ」
ルナは首を傾げた。
俺は喋り続けた。
学校のこと。教室の窓から見える桜のこと。大我がノートを写させろとうるさいこと。購買のパンが十分で売り切れること。母親の作る唐揚げが世界で一番うまいこと。
ルナは何も言わずに聞いていた。
ときどき、意味の分からない単語のところで首を傾げて、俺がそれを説明して、また続ける。
……こんなに喋ったのは、久しぶりだった。
三十四日。
思い出すことすら、少し避けていた気がする。
「……レン」
俺が話し終えた頃、ルナが言った。
「なんだ」
「……帰りたい?」
串を持つ手が、止まった。
当たり前だ、と言おうとして、なぜか少し詰まった。
「……そりゃ、帰りたいよ」
俺は火を見た。
「母親には心配かけてるし。大我にも、また会いたいしな」
「……そう」
「あと、言ってやりたい奴もいるしな」
「……そう」
ルナは、それだけ言った。
膝を抱えて、火を見ている。
髪が顔にかかって、表情が見えなかった。
「……ルナ?」
「……なんでもない」
しばらく、火の爆ぜる音だけがしていた。
※
異変に気づいたのは、それから数日後だった。
最初は、口数だった。
せっかく喋るようになっていたのに、また減った。俺が話しかけても「……うん」しか返ってこない。
次に、動きだった。
いつも三歩後ろをついてくるのが、五歩になった。歩くのが遅い。
「ルナ」
「……なに」
「体調悪いのか」
「……ううん」
嘘だ、と思った。
その日の夜、俺は確信した。
寝るとき、ルナはいつも俺のすぐ隣で丸くなる。その手が、たまたま俺の手に触れた。
冷たい。
いつも冷たいが、今日のは違った。
氷みたいだった。
「……おい」
「……」
返事はなかった。呼吸だけが聞こえる。
浅くて、短い呼吸だった。
何かを堪えているときの呼吸だ。俺はあばらを折ったとき、自分がそういう呼吸をしていたのを覚えている。
俺は身体を起こして、火を近づけた。
ルナの顔が照らされる。
肌は元から白い。だが今は、その白さから色が抜けていた。紙みたいだった。
そして——目。
「……お前、目」
薄く開いた赤い瞳は、濁っていた。
あの、宝石みたいに透き通った赤が、灰色を混ぜたみたいに沈んでいる。
「……見ないで」
ルナが顔を背けた。
「なんでだよ」
「……見ないで」
「ルナ」
「……お願い」
俺は火を置いて、その肩を掴んだ。
振り払われなかった。振り払う力もなかったのかもしれない。
「腹、減ってんだろ」
ルナの身体が、びくりと震えた。
「……ちがう」
「一ヶ月以上飲んでねえよな」
「……平気」
「平気な奴の顔じゃねえよ」
「……平気」
同じ言葉を繰り返した。
俺はため息をついた。
この一ヶ月とちょっと、こいつは一度も血を飲んでいない。俺の血も、獣の血も。
飲めば俺が減る。だから飲まない。
……そうか。
俺が「痛かった」って言ったのを、こいつはずっと覚えてるのか。
※
「飲め」
俺は言った。
ルナが、目を見開いた。
「……だめ」
「なんでだよ」
「……レン、死ぬ」
「死ななかっただろ」
「……あのときは」
「あのときは、なんだよ」
「…………」
ルナは首を振った。何度も。
「だめ。……だめ」
「じゃあお前、どうする気だよ」
「……我慢する」
「何十年も我慢して、その結果が俺だろうが」
言った瞬間、ルナの顔が歪んだ。
……しまった。
言い方が悪かった。責めるつもりじゃなかった。
俺は座り直して、もう一度言った。
「なあ。俺は怒ってない」
「……」
「あんときのことは、もう終わった話だ。俺は生きてるし、お前は謝った。それで終わり」
「……でも」
「でも、じゃねえよ」
俺は自分の首を指した。
「痛かったよ。めちゃくちゃ痛かった。二度とごめんだって思った」
「……だから」
「だから、次はちゃんとやれって話だ」
ルナが、俺を見た。
「……次?」
「加減しろって言ってんだよ。全部飲むな。腹が膨れたら止まれ」
「…………」
「できるか」
「……分からない」
「じゃあ俺が言う。止まれって言ったら止まれ」
「…………」
「できるか」
長い沈黙だった。
やがて、ルナは小さく頷いた。
※
俺は座って、首を傾けた。
ルナが近づいてくる。
膝立ちで、俺の前に。
冷たい手が、俺の肩に置かれた。
その手が、震えていた。
「……レン」
「なんだ」
「……本当に、いいの」
「いいって言ってるだろ」
「……途中で、止まれなかったら」
「そんときは殴る」
ルナが、少しだけ笑った気がした。
顔が近づく。
髪が、俺の首筋に落ちてくる。
冷たい息がかかった。
「……ごめんなさい」
やっぱり言うのか、それ。
そう思った瞬間、首に牙が沈んだ。
※
痛い。
やっぱり痛い。
だが、前とは違った。
あのときのは、噛み千切られるような乱暴さだった。今度は違う。
静かで、丁寧で——ゆっくりだった。
熱が、首から胸に流れていく。
力が抜けていく。だが、意識は保っていた。前みたいに一気に持っていかれる感じじゃない。
ルナの手が、俺の肩を掴んでいる。
その指先が、少しずつ温かくなっていくのが分かった。
……ああ。
届いてるんだな。
俺は目を閉じた。
喉が鳴る音を、今度はちゃんと聞いていた。
※
どれくらい経ったのか。
視界が白くなり始めたところで、俺は口を開いた。
「……止まれ」
反応が、一瞬遅れた。
「ルナ」
その肩を、軽く押す。
——離れた。
勢いよく、自分から飛び退くように。
ルナは口元を押さえて、床に座り込んでいた。
肩で息をしている。
「……はぁ、……はぁ」
「おい、大丈夫か」
「……止まれた」
「え?」
ルナが顔を上げた。
濁っていた赤が、澄んでいた。
白かった肌に、うっすらと血の色が戻っている。
そして、その目から涙が落ちていた。
「……止まれた」
「そりゃ、そうだろ」
俺は壁にもたれて笑った。目の前がぐらぐらする。
「言ったろ。できるって」
「……ごめんなさい」
「うるせえ。もう謝んな」
「……ありがとう」
「……」
俺は答えなかった。
答える前に、意識が落ちた。
※
翌朝、俺は最悪の気分で目を覚ました。
身体が重い。頭が痛い。立ち上がると視界が回る。
まるで、徹夜明けに全力疾走して、さらに殴られたような気分だった。
しかも――昨夜の記憶が、妙に曖昧だった。
「……うっ」
「……動かないで」
押し戻された。
驚くほど優しい力で。
ルナが、俺の顔を覗き込んでいた。
「水」
「……ん」
葉の器を渡される。
「肉」
「……焼いた」
「お前が?」
「……うん」
差し出された串を見て、俺は黙った。
真っ黒だった。炭だ。
「……焦げてんぞ」
「……焼くと、美味しいって言った」
「限度があるだろ」
「…………」
ルナがしゅんとした。
俺は炭を一口かじった。
苦い。ひどい味だ。
「うまい」
「……嘘」
「嘘だな」
「…………」
ルナは、また少しだけ笑った。
昨日までの死にそうな顔が嘘みたいだった。
……まあ、いいか。
俺は炭をもう一口かじった。
※
——ルナ Side——
私は、飲んだ。
彼の血を、彼の許しをもらって、飲んだ。
温かかった。
一ヶ月ぶりの温度は、身体の芯まで届いて、焼けていた場所を全部鎮めていった。
でも、私が驚いたのは、そこじゃない。
血には、味がある。
私はそれを知っていた。人間の血は、鉄と塩の味がする。それだけだと思っていた。
違った。
彼の血には、感情が入っていた。
※
流れ込んできたのは、心配だった。
こいつ、大丈夫か。 ちゃんと戻るのか。 顔色が悪い。 早く元に戻れ。
言葉ではない。もっと生ぐさい、輪郭のない塊。
それが全部、私に向いていた。
……私に。
私を、心配している。
私は真祖で、この世界の誰よりも硬くて、どんな傷も塞がって、死ぬことすらできない。
心配される理由が、一つもない。
なのに、この人の中は、私のことでいっぱいだった。
私は思わず、口を離しそうになった。
こんなものを飲んでいいのか、分からなかった。
※
それから、もう一つ。
名前の分からないものが混じっていた。
心配とは違う。守りたいとも違う。
もっと落ち着かない、そわそわした、熱いもの。
髪が首筋に触れたとき、それが少し強くなった。
……なに、これ。
私はそれを、飲んでしまった。
飲んで、身体の中に入れてしまった。
そのせいかもしれない。
止まれ、と言われたとき、私はほんの一瞬、止まりたくないと思った。
血が欲しかったからじゃない。
もっと近くにいたかったからだ。
※
彼は、私に「次はちゃんとやれ」と言った。
次がある、と言った。
私を、まだ許してくれるつもりでいる。
……この人は、私が何者か知らない。
知ったら、きっとこんなふうには言わない。
私は、五百年生きてきて、一度も謝る必要がなかった存在だ。奪って、壊して、それでも誰にも咎められなかった存在だ。
あなたが心配しているものは、あなたが一番会ってはいけないものだった。
……それでも。
私は今朝、生まれて初めて肉を焼いた。
真っ黒になった。何度やっても真っ黒になった。三回失敗して、四回目でようやく形になったのに、それも黒かった。
彼は「うまい」と言って、それから「嘘だな」と言った。
その顔を見たとき、胸のあたりが、また変になった。
痛いのとは違う。苦しいのとも違う。
温かいものが下から上がってきて、喉で詰まる。
私は、その感じに名前をつけられない。
誰にも聞けない。
だから、まだ「分からない」と呼んでいる。
※
その頃。
死海の森の外れに、銀色の髪の少女が立っていた。
少女は空を仰ぎ、目を細めて、鼻を鳴らした。
「……いる」
誰にともなく、そう呟いた。
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