第7話 私、弱いから
翌朝、俺は自分の身体の頑丈さに感心していた。
あばらは、まだ痛む。だが折れていたはずのそれが、一晩でくっつきかけている。
背中の打撲も、口の中の傷も消えていた。
《狂熱》が引いたあと、身体が勝手に修復してくれるらしい。便利な職業だ。味方を殺す危険がなければ、だが。
「……起きた」
声がして、顔を向ける。
ルナが、すぐ横に座っていた。
……近い。
昨日までは壁際にいたはずだ。洞穴の一番遠い場所に。
「お前、そこで何してんだ」
「……見てた」
「見てた」
「うん」
「ずっと?」
「うん」
俺は起き上がりながら、頭を掻いた。
「暇か」
「……たぶん」
また適当なやつだ。
でも、赤い目はまっすぐ俺を見ていた。逸らさなかった。
昨日までは、目が合うたびに慌てて逸らしていたのに。
※
「なあ、ルナ。この森の外って、どっちだ」
朝飯——といっても、昨日の残りの干した肉だ——をかじりながら、俺は聞いた。
ルナは干し肉を不思議そうに眺めていたが、俺の質問には答えなかった。
「おい」
「……」
「知らないのか?」
「…………分からない」
まあ、そうか。
こいつは結界の中に何十年も座っていたんだ。森の地理なんて知るわけがない。
「そうだよな。悪い、変なこと聞いた」
「……ううん」
ルナは膝を抱えて、俺から目を逸らした。
髪が顔を隠して、表情が見えなくなる。
……何だ?
まあ、いいか。
俺はそう思って、干し肉の続きをかじった。
※
三日ほどで、俺はほぼ完全に動けるようになった。
問題は食料だ。
干し肉が尽きかけている。木の実だけでは足りない。この身体は、《狂熱》を使うたびに恐ろしい勢いで腹が減る。
「狩りに行く」
俺が立ち上がると、ルナも立ち上がった。
「……行く」
「危ないぞ」
「……行く」
譲る気がないらしい。
俺はため息をついた。
「離れるなよ。俺の後ろにいろ」
「……うん」
その返事が、妙に嬉しそうに聞こえたのは気のせいだろうか。
※
森の南側で、それは出た。
牙猪。俺が勝手にそう呼んでいる魔物だ。体長は俺の背丈ほど。下顎から生えた二本の牙が、湾曲して天を向いている。
狼型より力は強いが、動きは直線的だ。三体までなら捌ける。
今日は一体。
「後ろ行ってろ」
俺は剣を——といっても骨を削って作った新しい代物だが——構えた。
そのときだった。
「……ひっ」
小さな悲鳴が背後で上がった。
振り返ると、ルナが俺の背中に隠れていた。
制服の裾を掴んで、身体を縮めて。
「ど、どうした」
「……怖い」
「……は?」
「……あれ、怖い」
俺はもう一度、牙猪を見た。
次にルナを見た。
……いや。
昨日、こいつはドラゴンの前で微動だにしなかったよな?
「お前、ドラゴンのときは平然としてなかったか」
「……し、してない」
「してたぞ」
「……固まってただけ」
……まあ、そうかもしれない。
考えてみれば、そりゃそうだ。腰が抜けて動けなかっただけで、あれを平気で見ていられる人間なんかいない。
そう考えると、むしろ今のほうが正常な反応だ。
「分かった。下がってろ」
俺は牙猪に向き直った。
背中の裾が、ぎゅっと引かれた。
「……レン」
「なんだ」
「……気をつけて」
……。
なんだこれ。
妙に、腹の底が熱くなった。
これは《狂熱》じゃない。もっと別の、単純な熱だ。
「——おう」
俺は地面を蹴った。
※
三十秒で終わった。
牙猪は突進しか能がない。横に跳んで、首の付け根に刃を入れる。《狂熱》を軽く点けるだけで十分だった。
血抜きをして振り返ると、ルナが木の陰から顔を出していた。
「終わったぞ」
「……」
ルナは、そろそろと出てきた。
倒れた牙猪と、俺の顔を、交互に見る。
「……すごい」
「あ?」
「……レン、すごい」
俺は思わず視線を逸らした。
「そんな、大したもんじゃねえよ。こいつはただ突っ込んでくるだけだから」
「……でも、私にはできない」
「まあ、そりゃ……そうだろうけど」
「……すごい」
ルナは真剣な顔で、もう一度言った。
褒められ慣れていない。
クラスでは目立たない方だったし、テストで一番になったこともないし、部活のエースでもなかった。
誰かに、こんな正面から「すごい」と言われたのはいつぶりだろう。
……いや、初めてかもしれない。
「……行くぞ。運ぶの手伝え」
「……うん」
俺は牙猪の後ろ脚を掴んだ。
ルナも前脚を掴んだ。
そして、明らかに全力で引っ張っているのに、まったく動かせていなかった。
「……重い」
「……お前、非力だな」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃねえよ」
結局、俺が一人で引きずった。
ルナは三歩後ろから、申し訳なさそうについてきた。
※
その夜、俺は肉を焼いた。
串に刺して、火にかざす。脂が落ちて、火が跳ねる。
ルナは火の反対側に座って、じっとそれを見ていた。
「食うか?」
「……え」
「食えるだろ、たぶん。血しか飲めないってわけじゃないんだろ」
「……食べられる。でも」
「でも?」
「……意味が、ない」
「意味」
「私の身体には、必要ない」
ふうん。
まあ、そうだろうな。俺の血だけで何日も動いてるわけだし。
「じゃあ食わなくていい——」
「……食べる」
ルナが手を伸ばした。
俺は焼けた串を渡した。
彼女はそれをしばらく眺めて、恐る恐る、小さく齧った。
もぐもぐと動く。
止まる。
もう一度動く。
やがてルナは、串を見つめたまま言った。
「……あつい」
「そりゃ焼きたてだからな」
「……あと」
「うん」
「…………おいしい」
その顔を見て、俺は笑った。
「そりゃよかった」
ルナは黙って、二口目を齧った。
三口目からは、少し早くなった。
※
焚き火が小さくなってきた頃。
ルナが、ぽつりと言った。
「……ねえ」
「んー」
「私、弱いから」
「まあ、そうだな」
「…………」
「あ、悪い。否定するとこだったか」
「……ううん、いい」
ルナは膝を抱えた。
火の光で、赤い目が余計に赤く見えた。
「……守ってくれる?」
俺は、串を火から下ろした。
変な質問だ。
こいつは、俺が守らなかったら死ぬような場所に何十年もいた。俺がいなくても生きてきたし、俺がいなくなっても生きるんだろう。
……いや。
「生きる」んじゃない。
死ねないから、残るだけだ。
あの結界の中に、また一人で。
「当たり前だろ」
俺は言った。
考えるより先に、口が動いていた。
「……本当?」
「本当だよ」
「……どうして」
「どうしてって」
俺は少し考えた。
考えて、結局、答えは一つしかなかった。
「言っただろ。女子を守るのは当然だろ」
ルナは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと膝に顔を埋めた。
「おい、どうした」
「……なんでもない」
「泣いてんのか」
「……泣いてない」
「泣いてるだろ」
「……泣いてない」
声が、明らかに湿っていた。
俺は何も言わずに、串をもう一本、火にかざした。
※
その夜、ルナは俺のすぐ隣で丸くなった。
「おい」
「……なに」
「近い」
「……寒いから」
「お前、寒いとか感じるのか」
「……感じる」
絶対に嘘だ。
こいつの手はいつも氷みたいに冷たいし、裸足で歩き回っても平気な顔をしている。
でも、追い払う理由も特にない。
「……勝手にしろ」
「……うん」
ルナが、もぞもぞと動いた。
肩が触れた。
髪が、俺の腕にかかった。
——その瞬間。
腹の底が、点いた。
「————っ!?」
俺は跳ね起きた。
《狂熱》だ。間違いない。あの感覚だ。心臓が跳ねて、血が沸いて、全身に力が満ちる。
剣を掴んで、洞穴の入口を睨む。
何が来た。ドラゴンか。もっとやばいのか。
……。
何もいなかった。
風の音すらしない。
「……あれ?」
「……どうしたの」
ルナが、寝転がったまま俺を見上げていた。
髪が乱れて、白い首筋が見えていた。
……ばくん、と心臓が跳ねた。
《狂熱》が、また少し強くなった。
「……いや」
俺は剣を置いた。
置いて、ルナから思いきり離れた場所に座り直した。
「なんでもない。……なんでもない」
「……変」
「うるせえ」
なんだ今の。
《狂熱》は、強い感情で発動する。怒り、恐怖、戦闘の高揚。
それは分かる。分かるんだが。
……今のは、何だ?
俺は膝を抱えて、しばらく寝られなかった。
※
——ルナ Side——
私は、嘘をついた。
森の外がどっちか、私は知っている。
この森は、私が結界を張るより前からある。地形も、獣の通り道も、外へ抜ける道も、全部覚えている。
彼が「どっちだ」と聞いたとき、私は「分からない」と答えた。
教えれば、彼は出ていく。
だから、言わなかった。
……これは、奪うことと同じだ。
私は昔、そうやってみんなから奪った。欲しいから、手に入れた。それだけで、誰かが泣いていることに気づかなかった。
今回は、気づいている。
気づいていて、それでも言わなかった。
前より、ずっと悪い。
※
牙猪が出たとき、私は演技をした。
あんなものは、指で払えば潰れる。私が本気で息を吐けば、この森の生き物は半分死ぬ。
でも、私は彼の背中に隠れた。
服の裾を掴んで、「怖い」と言った。
言った瞬間、心臓のあたりが変になった。恥ずかしいのと、怖いのと、それから——嬉しいのが、混ざっていた。
彼は「下がってろ」と言った。
私の前に立った。
あの小さな背中が、私と魔物の間にあった。
……知らなかった。
誰かの背中って、あんなに大きく見えるんだ。
私はずっと、他の誰かの前に立つ側だった。
六人の娘たちが生まれたとき、私は当たり前のように前に立った。危険なものは全部、私が消した。誰も傷つかないようにした。
それが母親のすることだと思っていた。
だから、あの子たちの気持ちなんて、考えたこともなかった。
守られるって、こんな感じなんだ。
温かくて、安心して、それで——もっとしてほしくなる。
……ああ。
だから、あの子たちは私に何も言えなかったのかもしれない。
守ってもらっている相手に、文句なんて言えるはずがない。
私は、そんなことも知らずに、五百年生きていた。
※
彼は、私を弱いと思っている。
当たり前だ。私がそう見せているのだから。
本当のことを言えば、彼は驚くだろう。そして——たぶん、怖がる。
みんなそうだった。私が何者か知った瞬間、目の色が変わった。頭を下げるか、逃げるか、そのどちらかだった。
あの人にそんな顔をされるのは、嫌だ。
だから、言わない。
弱いふりを続ける。
……ずるい。
自分でも分かっている。とてもずるいことをしている。
でも。
「……守ってくれる?」
「当たり前だろ」
あの一言をもらえるなら、私はいくらでもずるくなれる。
彼が焼いた肉は、私の身体には何の意味もない。栄養にも、力にもならない。
それでも、美味しかった。
どうして美味しいのか、分からない。
分からないことばかりだ。
最近、分からないことが増えた。
昔は、全部分かっていたのに。分からないことなんて、何もなかったのに。
……たぶん、あの頃の私は。
何も、見ていなかっただけなんだと思う。




