第6話 当然だろ
三日目の朝、俺はようやくまともに立てるようになった。
まだふらつく。全力で走れば十歩でひっくり返るだろう。それでも歩けるなら、上等だ。
「じゃあ、俺そろそろ——」
「待って」
洞穴を出ようとした俺の背中に、ルナの声がかかった。
「なんだ」
「……水。まだ、汲んでない」
「いや、もう平気だって」
「……ふらついてる」
「ふらついてねえよ」
言った瞬間、壁に手をついた。
「……」
「……何も言うな」
結局、俺はその日も出発できなかった。
※
変な三日間だった。
ルナはずっと、俺の三歩後ろにいた。
水を汲みに行けば付いてくる。木の実を探しに行けば付いてくる。用を足しに行こうとしたときは、さすがに怒鳴って止めた。
喋るわけでもない。ただ、いる。
こっちが振り返ると、慌てて視線を逸らす。
「なあ」
「……なに」
「なんでついてくるんだ」
「……」
答えない。
「暇なのか」
「……たぶん」
適当だな、おい。
でも、なんとなく分かる気もした。
こいつは何十年も、あの結界の中で一人だった。人と一緒にいるってことが、たぶん物珍しいんだろう。
……あるいは。
俺が勝手に死んだりしないか、見張ってるのかもしれない。
自分のせいで人が死ぬのを、もう見たくないんだろう。
そう考えると、三歩後ろの気配も悪くなかった。
※
それが起きたのは、三日目の昼過ぎだった。
俺は例の細い流れで水を汲んでいた。ルナはいつも通り、少し離れた岩の上に座っている。
最初に気づいたのは、音だった。
いや、音がなくなったことだった。
風が止まった。木がざわめかなくなった。この森はもともと静かだが、そういう静けさじゃない。
生き物が全部、息を止めたような静けさだった。
「……ルナ」
「……うん」
彼女も気づいている。
俺は水の器を置いて、折れた剣を握った。
——影が、落ちた。
空が、消えた。
頭上を覆ったそれは、雲じゃなかった。
「……は」
木々の上を、何かが滑るように通過していく。
長い。とにかく長い。首から尾までが、体育館より長い。
黒い鱗。膜を張った巨大な翼。その一枚一枚が、森の木を軽く超えている。
旋回した。
こちらを見ている。
金色の目が、二つ。
「……ドラゴン、かよ」
膝が笑った。
もう笑うしかない。狼が可愛く見える。
あれは、格が違う。
この十二日間で、俺は何度か「勝てない」を経験した。最初の狼。六体の群れ。
だが、これは違った。
勝てないとか、そういう次元じゃない。
あれは、俺という存在を認識していない。
通り道に虫がいたな、くらいの目で、こっちを見ている。
ドラゴンの喉が、赤く光った。
「——ルナ!」
俺は考えるより先に動いていた。
岩の上のルナに飛びついて、その身体を突き飛ばすように地面へ転がす。
直後、さっきまでルナがいた岩が、消えた。
消えた、としか言いようがなかった。
熱風が遅れて来る。目を開けていられない。俺は腕で顔を庇いながら、身体でルナを覆っていた。
風が収まって、目を開ける。
岩があった場所には、赤く溶けた地面があった。
「……あ、あぶねえ」
腕の下でルナが目を見開いていた。
その顔を見て、俺は少しほっとした。無事だ。
「立てるか」
「……」
「おい、ルナ」
「……なんで」
「あ?」
彼女は、俺を見上げたまま言った。
「……なんで、庇ったの」
「そんなの後だ! 走れ!」
俺はルナの腕を引いて立たせた。
ドラゴンが、旋回して戻ってくる。
速い。逃げ切れる速さじゃない。二人とも走ったところで、次の一吹きで終わりだ。
……なら。
「ルナ」
「……なに」
「森の奥に走れ。木の密集してるとこなら、あいつは入ってこられない」
「……あなたは」
「俺が時間を稼ぐ」
言った瞬間、自分でも笑いそうになった。
時間を稼ぐ。
何を言ってるんだ、俺は。
《狂熱》を全開にしたところで、狼六体が限界だ。しかも今は血が足りていない。火力は普段の半分も出ない。
三秒。もって三秒だろう。
……三秒だ。
三秒あれば、こいつは走れる。
「早く行けって!」
「でも」
「行けよ!」
ルナは動かなかった。
赤い目が、俺を見ている。
何かをものすごく必死に理解しようとしている顔だった。
「……どうして」
その声は、震えていた。
「どうして、私を——」
俺は叫んだ。
「女子を守るのは当然だろ!」
※
ドラゴンが、来た。
俺は《狂熱》に火を点けた。
腹の底が燃える。視界が赤く滲む。足りない血が、それでも無理やり全身に押し出されていく。
地面を蹴った。
自分から、あれに向かって。
降下してきた顎を、真横に転がって避けた。
風圧だけで身体が浮いて、木に叩きつけられる。あばらが二本くらい持っていかれた感触。
立て。
立て、俺。
まだ二秒しか経ってない。
俺は折れた剣を握り直して、ドラゴンの前脚に走った。
鱗に刃を叩きつける。
——弾かれた。
傷一つない。剣の方が欠けた。
尾が来た。
見えなかった。
気がついたら宙を飛んでいて、次の瞬間、背中から地面に叩きつけられていた。
息ができない。
口の中が鉄の味でいっぱいになる。
視界が明滅する。
……三秒。
稼げたか?
顔を上げる。
ルナが、まだそこにいた。
動いていなかった。ただ、こっちを見ていた。
「…………逃げろよ」
声にならなかった。
ドラゴンの影が、俺の上に落ちる。
顎が開く。喉の奥が赤い。
ああ、これは。
今度こそ、死ぬな。
……悪いな、ルナ。
三秒も、稼げなかった。
※
その瞬間、空気が変わった。
説明が難しい。
寒くなった、とも違う。重くなった、とも違う。
世界が、静かに息を呑んだような感じだった。
俺の上を、何かが通り過ぎていった。
目には見えない。音もしない。
ただ、背筋の産毛が全部逆立った。
そして——ドラゴンが、止まった。
俺を噛み砕く寸前で。
顎が開いたまま、金色の目が、俺の後ろの何かを見ていた。
瞳孔が、針みたいに細くなっていた。
「……あ?」
次の瞬間、ドラゴンは翼を打った。
俺を無視して。地面に転がった獲物を放置して。
全速力で。
逃げた。
黒い巨体が森の上を飛び去っていく。翼の音が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。
あとには、静けさだけが残った。
「…………は?」
俺は、地面に転がったまま呆然としていた。
何が起きた。
なんで逃げた。
俺が怖かったわけがない。剣は弾かれたし、一撃ももらってない。
じゃあ何だ。
もっと強い魔物でも近くにいたのか?
「……レン」
声がした。
顔だけ動かすと、ルナがすぐ横に膝をついていた。
いつの間に。
「……大丈夫?」
「……お前こそ、逃げろって言っただろ」
「……」
ルナは答えなかった。
代わりに、俺の頬に手を伸ばして——そこで止まった。
触れていいのか分からない、という手の止め方だった。
「……血」
「あー、まあ。口ん中切ったな」
俺は身体を起こそうとして、あばらの痛みに呻いた。
《狂熱》が引いていく。引いていくと、痛みが全部戻ってくる。
「……無理しないで」
「無理してねえよ」
「してる」
ルナが、俺の肩を支えた。
その手が、震えていた。
「……ねえ」
「なんだよ」
「……さっきの」
ルナは、俺の顔を覗き込んだ。
赤い目が、すぐ近くにあった。
「……もう一回、言って」
「……はあ?」
「さっき、言ったこと」
なんだそれ。
俺はしばらく考えて、思い出した。
あの状況で、俺は何か叫んだ気がする。
「……女子を守るのは当然だろ、ってやつか」
「……うん」
「……」
言ってから死ぬほど恥ずかしくなってきたので、俺は目を逸らした。
「……当然だろ」
小さい声で、もう一度だけ言った。
ルナは何も言わなかった。
ただ、俺の肩を支える手に、少しだけ力がこもった。
※
「……なあ、ルナ」
洞穴に戻る道すがら、俺は言った。
「お前さ、こんなとこに一人でいて、大丈夫なのかよ」
「……え」
「ドラゴンとか出るんだぞ、ここ。今日みたいなのがまた来たら、どうすんだ」
ルナが立ち止まった。
俺も立ち止まって、振り返る。
彼女は、変な顔をしていた。
驚いているような、困っているような、それでいて、何か別のものが混ざったような。
「……分からない」
「分からないって、お前」
俺はため息をついた。
こいつは吸血鬼らしいが、どう見ても弱そうに見える。さっきだって、逃げることすらできずに立ち尽くしていた。
何十年もこんな森に一人でいて、よく生きていたもんだ。
……いや。
死ねないから、生きているのか。
そう考えると、笑えない。
「……仕方ねえな」
「……なに?」
「もうちょっとだけ、いてやる」
俺は頭を掻いた。
「怪我も治ってねえし。あと、ここの魔物のこと、俺の方がちょっとは詳しいと思うんだよな」
我ながら苦しい言い訳だった。
ルナは何も言わなかった。
しばらく黙って、それから、こくりと頷いた。
「……うん」
それだけだった。
それだけだったが、なぜかその声は、これまでで一番はっきりしていた。
※
——ルナ Side——
あのドラゴンは、弱い。
私が本気で払えば、翼を広げる前に消える。かつて、もっと大きいものを何体も消したことがある。
だから、私は何もしなくてよかった。
彼が突き飛ばしてきたとき、意味が分からなかった。
熱線が来るのは知っていた。当たっても、私は死なない。焼かれても、また元に戻る。何度もそうしてきた。
なのに彼は、私の上に覆いかぶさった。
自分の背中で、私を隠した。
彼の身体は、あんなに小さいのに。
「……なんで、庇ったの」
答えは返ってこなかった。「そんなの後だ」と言われた。
それから彼は、私に「逃げろ」と言った。
自分が時間を稼ぐと言った。
三秒だと思っていたのだと思う。あの人の力なら、三秒がいいところだ。私にはそれが分かっていた。
三秒。
私を逃がすための、三秒。
私は動けなかった。
逃げるべきだったのだと思う。そうすれば、彼の言った通りになった。
でも、動けなかった。
彼が吹き飛ばされて、地面に叩きつけられて、それでも立ち上がろうとして、口から血を流しながらこっちを見て——
「逃げろよ」
と、声にならない声で言った。
そのとき、私の中で何かが壊れた。
気がついたら、力を出していた。
殺してはいない。ほんの少し、外に漏らしただけだ。それでもドラゴンは逃げた。当然だ。
……見られていない。彼は倒れていて、後ろを向いていた。
よかった。
なぜ「よかった」と思ったのか、自分でも分からない。
※
私は、ずっと守る側だった。
誰かに背中を庇われたことなど、一度もない。
私より弱いものしかいなかったから。私が守らなければ、みんな死んだから。
守られる、という言葉は知っていた。
でも、それがどういう感触なのかは、知らなかった。
——女子を守るのは当然だろ!
彼はそう叫んだ。
当然。
当然、って何。
私は真祖で、この世界の誰よりも強くて、あの人よりも何千倍も硬くて、何万倍も速い。
守られる理由なんて、一つもない。
あの人は、何も知らないだけだ。
私が弱いと思っているから、守ろうとしただけだ。
……そう。
それだけのこと。
なのに。
もう一度言ってほしくて、私は聞いてしまった。
彼は恥ずかしそうに目を逸らして、小さい声で「当然だろ」と言った。
胸の奥が、変だった。
痛いのとは違う。苦しいのとも違う。
温かいものが下から上がってきて、喉のあたりで詰まって、どうしていいか分からなくなる感じ。
病気かもしれない、と思った。
でも、私は病気にならない。
「……分からない」
私は、彼の三歩後ろを歩きながら考えていた。
この気持ちに、名前があるのだろうか。
あるとしたら、誰か教えてほしい。
——もうちょっとだけ、いてやる。
彼はそう言った。
怪我が治っていないから。森のことは自分の方が詳しいから。
全部、嘘だと思う。
あの人は、私が心配なだけだ。
世界で一番心配のいらない存在を、あの人は本気で心配している。
それがおかしくて、それが——。
「…………」
私は、口元を押さえた。
何十年ぶりかに、私は笑っていた。




