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第5話 仕方ないな

目が覚めて最初に思ったのは、天井が低いな、ということだった。


 いや、天井じゃない。


 岩だ。ごつごつした岩肌が、すぐ上にある。洞穴か何かの中らしい。


 身体が動かない。指は動く。腕も、たぶん動く。ただ、力の入れ方を忘れたみたいに重い。


 首に手をやると、二つの小さな盛り上がりがあった。傷はもう塞がっている。


 ……ああ。


 思い出した。


「————っ」


 俺は反射的に跳ね起きようとして、そのまま床に転がった。


「あ」


 声がした。


 顔を上げる。


 洞穴の入口、一番遠い壁際に、あいつが座っていた。


 膝を抱えて。こっちを見ないようにしながら、明らかにこっちを気にしている姿勢で。


 黒い髪。赤い目。裸足。


 夢じゃなかったらしい。


「……何しやがんだ」


 声がひどく掠れていた。


 彼女の肩が、びくりと跳ねた。


「ご、ごめんなさい……」


「ごめんで済むか! いきなり襲ってきやがって!」


 怒鳴った瞬間、頭がぐらついた。目の前に黒い点が広がって、俺はまた床に倒れる。


 血が足りていない。当たり前だ。あれだけ飲まれたんだから。


「あ、あの」


 彼女が動く気配がした。


「来るな!」


 止まった。


 俺は肘をついて、なんとか上体を起こした。


「……ったく。何なんだよ、お前」


「……」


「吸血鬼か。牙が生えてただろ」


「……うん」


「人を襲うのか」


「……襲わない」


「襲ったろ、今!」


「…………うん」


 消え入りそうな声だった。


 俺はため息をついた。ため息をつくのにも体力がいるらしく、そのまま少し咳き込んだ。


 ……冷静になれ、俺。


 こいつは俺を一瞬で捕まえて、《狂熱》の乗った蹴りも肘も無効化した。今この瞬間だって、殺そうと思えば一秒もかからない。


 怒鳴ったところで、何にもならない。


「……はあ」


 俺は壁にもたれた。


「で?」


「……で?」


「なんで俺を助けた」


 彼女が顔を上げた。


「……助けて、ない」


「じゃあこれは何だ」


 俺は洞穴を指差した。俺の下には枯れ草が敷かれている。丁寧に、たっぷりと。


 彼女はしばらく黙っていた。


 それから、小さく言った。


「……地面、冷たいから」


  ※


 「……名前は」


 しばらくして、俺は聞いた。


 彼女は答えなかった。


「おい」


「……」


「名前くらいあるだろ」


「…………ルナ」


 やっと聞こえるくらいの声だった。


「ルナ、ね。……俺は黒崎蓮。蓮でいい」


「……レン」


 彼女——ルナが、口の中で転がすように繰り返した。


 まるで初めて言葉を喋る子供みたいな言い方だった。


「なあ、ルナ」


「……なに」


「なんで襲った」


 ルナの身体が、また強張った。


「言えないなら別にいい。でも、俺は今日ここで死にかけた。理由くらい聞く権利はあるだろ」


「…………」


 長い沈黙だった。


 洞穴の外で、風が鳴っていた。


 やがて、ルナが口を開いた。


「……ずっと、飲んでなかったから」


「飲んでない? 血を?」


「うん」


「どれくらい」


「……分からない」


「分からないって」


「途中から、数えるのをやめたから」


 俺は言葉に詰まった。


 数えるのをやめるほど、ということか。


「……なんで飲まなかったんだ」


 ルナは膝を抱え直した。


 顔が、髪に隠れて見えなくなる。


「……私、悪いことをしたの」


「悪いこと」


「みんなから、たくさん、奪ってた」


「……」


「気づいてなかった。誰も何も言わなかったから。……ううん、言えなかったんだと思う。私が、そういう相手だったから」


 声は淡々としていた。感情がないんじゃなくて、感情の出し方を忘れているみたいな喋り方だった。


「ある日、みんなが怒った。……怒ってたことに、そのとき初めて気づいた」


 ルナは膝に額を押しつけた。


「だから、受け入れようと思ったの。何をされても、いいって」


 俺は何も言わなかった。


 言えなかった。


「でも」


 顔を上げないまま、ルナは続けた。


「……死ねなかった」


 空気が、止まった気がした。


「私、死ねないの。何をされても。だから、みんなを余計に苦しめた。……最後、あの子たち、泣いてた」


「…………」


「殺せないことに、泣いてたの」


 風の音だけが聞こえていた。


「だから、決めた。もう誰にも会わない。血も飲まない。そうすれば、いつか終わると思った」


 ルナはようやく顔を上げた。


 赤い目が、まっすぐ俺を見ていた。


「……でも、終わらなかった。ずっと、終わらなかった」


 そして、消え入るように言った。


「そこに、あなたが来た」


  ※


 俺は、天井の岩を見上げた。


 頭の中で、いろんなものが繋がっていく。


 結界を叩いても返事がなかったこと。


「うるさい」と言われたこと。


 最初に見たとき、目に涙が浮かんでいたこと。


 三回も「ごめんなさい」と言ってから、噛みついたこと。


 ……なるほどな。


 こいつは、俺を殺そうとしたんじゃない。


 自分が死ぬのに失敗して、その巻き添えを食らったのが俺だった。


 それだけの話だ。


「……そうか」


「……?」


「じゃあ、仕方ないな」


 ルナが、固まった。


 瞬きを一つして、それから、もう一つした。


「……え?」


「いや、だから。仕方ないだろ、そういうことなら」


「……仕方、ない?」


「何十年も飯食ってない奴の前に、血まみれで現れた俺も悪い」


 俺は自分の首に触れた。


 塞がった穴の跡が、指先に当たる。


「怒らないの……?」


「そりゃ怒ったけど」


 俺は肩をすくめた。


「死んでないしな」


 ルナが、俺を見ていた。


 瞬きもせずに。今度は珍しい石を見る目じゃなかった。


 もっと分からないものを見る目だった。自分が何を見ているのか、本人にも分かっていない顔。


「……変」


「あ?」


「あなた、変」


「お前に言われたくねえよ」


  ※


 ……一つ、引っかかっていることがあった。


 あのとき。


 剣を持った腕を掴まれて、俺は全力で振りほどこうとした。《狂熱》を全開にして、木の幹なら折れる力で。


 びくともしなかった。


 蹴りも肘も、石を殴っているのと変わらなかった。三メートル以上あった距離を、俺は動く姿すら見ないうちに詰められた。


「なあ、ルナ」


「……なに」


「お前、あんとき、めちゃくちゃ強かったよな」


 ルナの肩が、わずかに動いた。


「……飢えてたから」


「飢えると強くなるのか」


「……たぶん」


「たぶんて」


「……分からない。あんなに飢えたこと、なかったから」


 ……なるほどな。


 俺は納得した。


 というより、俺にはそれがやけによく分かる話だった。


 俺だって普段は、狼一匹にびびる高校生だ。だが《狂熱》が点けば、その狼の顎を素手で砕く。


 感情が振り切れると、身体の枷が外れる。


 俺の場合はそれが職業の力で、こいつの場合は飢えなんだろう。吸血鬼の身体のことなんて知らないが、そういう仕組みなら理屈は通る。


「じゃあ、腹が減ってなけりゃ普通なのか」


「……うん」


「そりゃそうか」


 現に今、こいつは葉っぱの器を運ぶのに両手を使っていた。

 見た目だって、細くて華奢だ。とてもじゃないが、あのとき俺の腕を鉄骨みたいに掴んだ奴と同じには見えない。


 ……《狂熱》が、うまく発動してなかった可能性もある。

いまいち、あのときのことをよく思い出せない。


……まあ、いいか。


 俺はそれで納得することにした。


 ……ただ。


 納得したのに、胸の奥に小さな引っかかりだけが残った。


 あのとき掴まれた腕の感触。


 あれは、飢えた獣の馬鹿力とは、少し違う気がしたのだ。


 もっと静かで、力んでもいなくて、それでいて——底が見えない感じだった。


 ……いや、やめよう。


 助けてもらった相手を疑ってどうする。


 俺はその考えを、頭の隅に押しやった。


  ※


 それから俺は、丸一日ほど動けなかった。


 血ってのは、そう簡単には戻らないらしい。立とうとすると視界が白くなって、そのたびに床に転がった。


 その間、ルナはずっと洞穴にいた。


 何をするでもなく、壁際に座って、ときどきこっちを見ている。


 目が合うと、慌てて逸らす。


「……なあ」


「……なに」


「水」


「みず」


「飲みたい。水」


 ルナはしばらく、その単語の意味を考えているみたいな顔をしていた。


 それから、無言で出ていった。


 十分ほどして戻ってきた彼女の両手には、大きな葉っぱが乗っていた。器の形に丸めて、そこに水を張ってある。


 ……器用だな。


「ありがとう」


 受け取って飲んだ。鉄の味がしたが、贅沢は言えない。


「……あの」


「ん?」


「人間って」


 ルナは、真剣な顔で言った。


「何を食べるの?」


 俺は水を吹き出しかけた。


「……お前、人間と暮らしたことないのか」


「ない」


「あー……」


 考えてみれば、こいつは吸血鬼だ。血しか飲まないなら、飯なんて知るわけがない。


「肉とか、木の実とか。あと、火を通す」


「火」


「そう、火。焼くんだよ。焼くと美味い」


「……焼くと、美味しい」


 ルナは真面目な顔で頷いた。


 覚える気らしい。


「……ふっ」


「なに?」


「いや」


 俺は笑いをこらえた。


 こいつ、さっきまで人を殺しかけた化け物のはずなんだけどな。


  ※


 二日目の夜。


 ようやく壁伝いに立てるようになった俺は、洞穴の入口まで歩いて、外を見た。


 相変わらず黒い森が広がっている。空も見えない。


「……歩けるようになったら、出てくわ」


 俺は言った。


 背中でルナの気配が動いたのが分かった。


「……どこに行くの」


「分かんね。とりあえず、森の外を目指す」


「外」


「王都に戻る。あいつら、俺のこと殺す気で捨てたからな」


 自分で言って、腹の底が熱くなった。


 《狂熱》じゃない。もっと単純な、ただの怒りだ。


「生きて帰って、面と向かって言ってやるんだよ。ハズレじゃなかったってな」


 しばらく、返事はなかった。


 それから。


「……そう」


 それだけだった。


 俺は振り返らなかった。だから、そのときのルナがどんな顔をしていたのか、知らない。


  ※


——ルナ Side——


 この人は、変だ。


 私は、この人を殺しかけた。それは事実で、言い訳のしようもない。


 なのに、怒ったのは最初だけだった。


 私が全部話したら、「仕方ないな」と言った。


 仕方ない。


 ……仕方ない、って何。


 私はその言葉を、何度も頭の中で繰り返した。意味は分かる。でも、意味が分からない。


 私がしたことは、仕方なくない。


 あのとき、みんなは許してくれなかった。当たり前だ。許されるようなことをしていなかったから。


 私は謝った。何度も謝った。


 でも、謝るというのは相手のためじゃなくて、自分が楽になるための言葉なんだと、あのとき知った。


 だから、もう言わないことにした。


 ……なのに、この人には三回も言ってしまった。


 彼は水を飲んで、私に「ありがとう」と言った。


 ありがとう。


 誰かにそう言われたのは、いつ以来だろう。


 思い出せない。たぶん、一度もない。


 私は真祖で、みんなの上に立っていて、何もかも与えられる側だった。奪う側でもあった。


 私は、誰かに何かをしてあげたことがなかった。


 葉っぱに水を入れて運ぶだけで、あんな顔をするなんて知らなかった。


 ——歩けるようになったら、出てくわ。


 彼はそう言った。


 当然だ。ここにいる理由がない。


 彼には帰る場所があって、言ってやりたい相手がいて、だから外へ行く。


 私にはそのどれもない。


「……そう」


 私は、そう答えた。


 他に何を言えばいいのか、分からなかった。


 行かないで、と言えばよかったのだろうか。


 ……いや。


 私にそんなことを言う資格はない。私は、この人の血を勝手に飲んだ。


 だから、いい。


 彼が歩けるようになったら、私はまた一人になって、また座って、また終わりを待つ。


 何十年もそうしてきた。あと何十年でも同じことだ。


 ……同じ、はずなのに。


 枯れ草の上で眠っている彼の顔を、私はずっと見ていた。


 胸が上下している。息をしている。生きている。


 この洞穴に、私以外の呼吸の音がある。


 たったそれだけのことが。


 どうして、こんなに——。


「……分からない」


 私は膝を抱えて、その音を数えた。


 数えるのは、やめたはずだったのに。

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