第4話 牙
三回叩いて、返事はなかった。
十回叩いて、まだなかった。
「おーい! 誰かいるんだろ!」
拳が痛い。結界は硬いくせに、叩くと妙に鈍い音がする。壁を殴っているというより、水面の下の何かを殴っているような感触だった。
「開けろって!」
返事はない。
当たり前だ。こんなものを張れる相手が、ハズレ職の高校生に律儀に応対する義理はない。
それでも俺は叩き続けた。
十二日。
この森に来て、十二日だ。
声は出していた。木の実に文句を言ったし、狼に説教もしたし、自分を励ましもした。
でも、誰かに向けて喋ったのは、十二日ぶりだった。
俺は結界に額をつけた。
「……頼むよ」
声が、みっともなく掠れた。
——ふっ、と。
目の前が、開けた。
音はしなかった。割れる音も、消える音も。ただ、さっきまで確かに触れていた硬い何かが、最初から存在しなかったみたいになくなった。
支えを失った身体が、前につんのめる。
俺は膝をついて、顔を上げた。
※
そこに、女の子が立っていた。
黒い髪。腰まである。手入れなんてしていないはずなのに、不思議と乱れていない。
白い肌。暗い森の中で、そこだけが明るく見えた。
そして——赤い目。
薄暗いのに、はっきりと色が分かった。
裸足だった。着ているものは、たぶん昔は上等だったんだろうと分かる何かの、残骸だった。
年は、俺と同じくらいに見える。
……綺麗だ、と思った。
それが、最初だった。
こんな森の奥で、裸足で、髪も梳かしていないのに。
汚れが、どこにもなかった。
次に思ったのは、こうだ。
——こんなところに、一人でいるのか。
そのあとで、
——変な奴だな。
だった。
「……うるさい」
それが、彼女の第一声だった。
「え」
「うるさい。……帰って」
声が掠れていた。喉が錆びついているみたいな、聞き取りづらい声。
長いこと使っていない声だ、と分かった。俺も、三日目に自分の声を聞いてぎょっとしたから。
「……いや、待った。待ってくれ」
俺は慌てて立ち上がった。
「あんた、こんなとこに住んでんのか? 一人で?」
「……」
「あ、俺は怪しい奴じゃない。いや怪しいか。こんな格好だし」
泥と血で汚れた制服を見下ろして、俺は苦笑した。
「捨てられたんだよ。この森に。もう十二日になる」
彼女は何も言わなかった。
ただ、じっとこっちを見ている。瞬きもせずに。
その視線が、なんというか——人を見る目じゃなかった。
珍しい石を見つけた子供みたいな。あるいは、遠くの景色を見ているような。
「……あなた、人間?」
「……そう見えないか?」
「……」
答えない。
代わりに、彼女は一歩、近づいた。
俺は反射的に半歩下がった。
「……血の匂い」
「え?」
「……あなた、血の匂いがする」
言われて、思い出した。
俺は今日、狼を六体殺している。
返り血を浴びたまま、拭いてもいない。自分の背中の傷からも血が出ていた。塞がってはいるが、匂いまでは消えていないだろう。
「ああ、悪い。着替えとかなくてさ。井戸でもあれば——」
その言葉は、最後まで言えなかった。
彼女の様子が、変わったからだ。
※
最初に変わったのは、呼吸だった。
それまでほとんど息をしていなかった彼女が、急に、深く吸った。
次に、赤い目の瞳孔が、縦に細くなった。
最後に——口が、わずかに開いた。
白い歯の中に、二本だけ、長いものが見えた。
「……あ」
俺の喉が、勝手に音を出した。
牙だ。
ヴァンパイア。吸血鬼。ゲームでも漫画でも散々見た。異世界なら普通にいるだろう。いるだろうけど。
「……ごめんなさい」
彼女が、そう言った。
俺に向かってじゃない。もっと遠くの、誰かに向かって謝るみたいな声だった。
「え?」
「……ごめん、なさい」
その目には、涙みたいなものが浮かんでいた。
なのに、身体だけが前に出ていた。
俺は《狂熱》に火を点けた。
考えるより早かった。十二日間で身体が覚えている。恐怖が引き金なら、今のこれは十分すぎる。
腹の底で炎が立ち上がる。視界の端が赤く滲む。折れた剣を掴んで、構えた。
狼六体を潰した力だ。
通用しないはずが——
消えた。
「——は?」
彼女が、いない。
いや、違う。
目の前にいた。
三メートル以上あった距離が、ゼロになっていた。動く姿を、俺は一つも見ていない。
剣を持った腕を掴まれる。
力を込めた。《狂熱》の乗った腕だ。木の幹を折れるだけの力を、思いきり。
——びくとも、しなかった。
冷たい指。細い。折れそうなくらい細い。
その手が、鉄骨みたいに動かない。
「……嘘だろ」
あ、これ。
勝てないやつだ。
いや、違う。狼のときとは、種類が違う。
あのときは「勝てない」だった。
これは——戦いにすらならない。
彼女が、俺の肩を掴んだ。
そのまま、引き寄せられる。
抵抗した。膝を蹴り込んだ。肘を叩き込んだ。全部、《狂熱》を乗せて。
石を殴っているのと、同じだった。
顔が、俺の首筋に寄せられる。
冷たい息がかかった。
「……ごめんなさい」
三度目の、その言葉。
次の瞬間、首に牙が沈んだ。
※
痛みは、遅れて来た。
最初に来たのは熱だ。
首から胸へ、心臓へ。何かが逆流していくような感覚。
次に、力が抜けた。
電源を切られたみたいに、いっぺんに。腕が落ちる。膝が崩れる。それでも倒れないのは、彼女が抱えているからだった。
喉が鳴る音が聞こえる。
自分の血が飲まれている音を、俺は聞いていた。
やめろ、と言おうとした。声が出なかった。
彼女の背中を叩いた。何度も。だんだん弱くなって、そのうち、手が届かなくなった。
視界が、暗くなっていく。
……冗談じゃない。
ここまで来たのに。
水を探して、火を起こして、狼を殺して、暴走しかけて、それでも歩いて。
ここで終わりか。
誰にも知られないまま。
大我の顔が浮かんだ。ノートを写させろと言っていた顔。
母親の顔が浮かんだ。夕飯の匂い。
教室の窓。
白石が泣きながら何か叫んでいた。傘が、どうとか。
……返してもらわないとな。
——ハ、ズ、レ。
あの唇の動き。
……ふざけんな。
絶対に、生きて——
そこで、力尽きた。
沈んでいく意識の、最後の最後で。
首筋に触れているものが、血だけじゃないことに気づいた。
もっと熱くて、もっと軽いものが、頬を伝って落ちてきていた。
……なんだよ。
泣いてんのか、こいつ。
※
——ルナ Side——
喉が、鳴っていた。
私の喉だった。
温かい。
何十年ぶりだろう。世界に温度があったことを、忘れていた。
美味しい、と思ってしまった。
その瞬間に、私は正気に戻った。
「————っ」
突き飛ばすように、口を離す。
腕の中で、その人の身体が力なく落ちた。慌てて支えた。首筋に二つの穴があって、そこから赤が流れ続けている。
顔が、白い。
私の肌と、同じくらい。
「……あ」
私は。
「……あ、あ」
私は、何をした。
膝から力が抜けて、その場に座り込む。腕の中の身体を、抱えたまま。
誰も傷つけないために、ここにいたのに。
誰にも会わないために、結界を張ったのに。
血を飲まないために、何十年も座っていたのに。
最初に会った人を、私は殺した。
うるさかっただけなのに。追い返そうと思っただけなのに。
「……また」
また、だ。
悪気なんてなかった。今度も、前も。
悪気がないから、何も気づかないまま、私は奪い続けたのだ。
「……ごめんなさい」
その人は答えない。
「ごめんなさい。ごめんなさい。……ごめんなさい」
何度言っても足りない。
言葉に意味がないことは、知っていた。あのとき、みんなの前で言ったときも、何も変わらなかったから。
私は待った。
この人の胸が動かなくなるのを。身体が冷たくなるのを。
これまで、ずっとそうだった。
私が血を吸った相手は、必ず死んだ。一人残らず。強い者も、若い者も、逃げようとした者も。
私は加減を知らない。知る必要がなかったから。
だから待った。
顔を伏せて、その瞬間が来るのを待った。
……。
……あれ。
顔を上げる。
胸が、動いていた。
浅く、不規則に。だが、確かに上下している。
「……え」
首の傷を見た。
流れていた血が、止まっている。
それどころか、二つの穴の縁が、ゆっくりと寄っていた。塞がろうとしている。私の目の前で。
こんなことは、ありえない。
私は真祖だ。私が飲めば、相手は死ぬ。それは事実で、法則で、私が一度も覆せなかったものだ。
なのに。
この人は、生きている。
「……どうして」
私が触れたものは、いつも壊れるのに。
この人は、壊れなかった。
気がつくと、私はその肩を揺すっていた。
「……ねえ」
返事はない。
「起きて」
もっと強く揺する。加減が分からなくて、慌てて力を抜く。
「お願い、起きて」
自分の声が震えているのが、他人の声みたいに聞こえた。
何十年ぶりかに——いや。
たぶん、生まれて初めて。
私は誰かに、生きていてほしいと思っていた。




