第3話 結界
十二日目。
俺は木の幹に、ナイフ代わりの牙で傷をつけた。十二本目の線。
最初の三日を越えてから、生活には形ができてきた。
朝、水を汲む。日中は森を歩いて食える物を探す。夕方までに寝床を作って、火を起こす。夜は火を絶やさない。
武器は狼の牙を削って作った。柄の部分は制服のネクタイを巻いた。学校指定の紺色は、もう泥で何色か分からない。
肉は何度か手に入れた。狼型は三体倒した。二体目からは、こちらが先に見つけられるようになった。
驚いたのは、身体の変化だった。
《狂熱》は、使うたびに立ち上がりが早くなる。最初は死ぬ直前まで追い詰められないと点かなかったものが、今は「来る」と思った瞬間に点く。
そして、点いていない間も——身体が軽い。
十二日で、俺は明らかに強くなっていた。
「……ゲームみたいだな」
佐伯なら喜びそうな話だ。あいつは「レベルアップってやつだよ!」とか言って眼鏡を押し上げるんだろう。
だが実際には、何も出ない。
数字も、窓も、光る文字も。
自分がどれだけ強くなったのかを教えてくれるものは、何一つない。ただ、三日目に死にかけた相手を、今は殺せる。それだけだ。
証拠は、いつも死体の方にある。
そう考えて、俺は少しだけ笑って、それからやめた。
あいつらは今ごろ、王都で立派な訓練を受けているはずだ。
※
その日、俺は森の奥へ向かうことにした。
理由は単純で、この辺りの食料を採り尽くしたからだ。
北へ——というのは俺の勝手な呼び方で、太陽の位置から適当に決めた方角だ——半日ほど歩いた頃、それを見つけた。
最初は、白い枝が落ちているのかと思った。
違った。
骨だった。
人間の。
俺は足を止めた。
落ち葉に半分埋もれて、それは横向きに転がっていた。腐食した金属の板が、あばら骨の上に載っている。
鎧だ。
泥と錆に覆われていたが、胸の部分に紋章が浮き彫りにされていた。
剣と、翼の生えた盾。
王城の広間で、何度も見た紋章だった。
「……アルディア王国」
俺はしゃがみ込んだ。
周囲を見回すと、少し離れた場所にもう二つ、似たようなものが転がっていた。三人。全員が同じ紋章の鎧を着ている。
調査に入った騎士たち。
生きて戻った者は、記録上ゼロ。
宰相の言葉は本当だった。むしろ丁寧に本当のことを言っていた。あの男は俺に、生きて帰った人間はいない場所へ行けと、はっきり教えてくれたのだ。
骨の傍らに、朽ちた革の袋があった。
開けると、中から紙が出てきた。湿気でぼろぼろになっていたが、かろうじて形は残っている。
文字が並んでいた。
……読めない。
召喚のとき、言葉は勝手に通じるようになった。だが文字は駄目だった。誰かが喋れば意味が分かるのに、書かれたものはただの模様にしか見えない。
俺はしばらく、その紙を見つめていた。
誰かに宛てた手紙なのかもしれない。あるいは報告書か、遺書か。
この人にも、帰りを待っている誰かがいたんだろうか。
「……悪いな」
俺は紙を袋に戻して、袋を骨の隣に置いた。
そして、その傍らに落ちていた剣を拾った。
刃はぼろぼろで、半分ほどの長さで折れている。だが、牙のナイフよりはずっとマシだ。
「借りるぞ」
骨は何も言わなかった。
※
異変に気づいたのは、その一時間後だった。
匂いだ。
森全体を覆う腐った水の匂いに、別のものが混ざっている。獣の匂い。それも、一体や二体じゃない。
俺は木の陰に身を伏せた。
——いた。
狼型。
六体。
「……多すぎる」
これまでは全部単独だった。群れで動いているのを見るのは初めてだ。
まずい。一体でも死にかけたのに、六体は無理だ。
俺は息を殺して、後退しようとした。
足元で、枝が鳴った。
六つの頭が、一斉にこちらを向いた。
「————」
一瞬で、腹の底に火が点いた。
考えるより先に、身体が動いていた。
最初の一体が飛びかかってくる。俺は折れた剣を横に振った。《狂熱》の乗った腕は、鈍らの刃でも十分な凶器になる。狼の首から上が、飛んだ。
二体目が横から来る。振り向きざまに蹴り上げた。肋骨の砕ける感触。
三体目が背中に噛みついた。
痛い。だが——熱い。痛みが、そのまま燃料に変わっていく。
俺は身をよじって、そいつを地面に叩きつけた。喉に剣を突き立てる。
視界が、赤い。
四体目。五体目。
なんだ、これは。
身体が、思った通りに動く。いや、思うより速く動く。
狼たちの動きが、遅く見えた。
六体目が逃げようとした。
逃がすわけがない。
俺は地面を蹴って、そいつの背に飛び乗った。剣を振り下ろす。
一度。
二度。
三度。
——
※
気がついたとき。
俺は、まだ振り下ろしていた。
「……あ」
剣の先には、もう形のあるものが何もなかった。
肉と、骨と、泥が混ざった何かがそこにあるだけだった。
周囲の地面が、赤黒く濡れていた。
俺は、ゆっくりと自分の手を見た。
剣を握った指が、開かない。
力を抜こうとしても、抜けない。
喉から、変な音が漏れていた。
息を吸う音じゃない。もっと荒くて、もっと——楽しそうな音。
「……は」
俺は、笑っていた。
三日目のときと同じだ。いや、あのときよりずっとひどい。
どれくらい振り下ろしていたのか、分からない。二十回か。五十回か。
覚えていない。
覚えていない、ということが、何より恐ろしかった。
俺はようやく指をこじ開けて、剣を落とした。
地面に座り込む。手が震えていた。
そのとき、頭の中で、宰相の声が再生された。
——彼が最も多く殺したのは、魔族ではなく、味方の兵でした。
「…………」
喉の奥が、冷たくなった。
考えていなかった。ずっと。
生きるために戦って、勝てるようになって、少しずつ強くなって。それが嬉しくて、それだけを見ていた。
だけど。
もし、今ここに。
誰か、いたら。
大我でも、白石でも、誰でもいい。あのとき、俺の隣に立っていたら。
俺は。
——止まれたのか?
「……っ」
俺は口を押さえた。
胃が逆流しかけて、必死に飲み下した。
覚えていない、ということは。
止まる止まらないの話ですらない。
俺は、選んですらいなかった。
王国は正しかった。
あいつらは、俺を危険物だと判断した。それは差別でも偏見でもなく、単なる事実だったのかもしれない。
神崎の言葉が、初めて別の重さで蘇る。
——いつ暴走するか分かんない奴と一緒に戦うとか、無理じゃん。
「…………ああ、そうかよ」
俺は膝に額を押しつけた。
そのまま、しばらく動けなかった。
※
空が暗くなり始めたころ、俺はようやく立ち上がった。
剣を拾って、汚れを拭った。手はまだ少し震えている。
結局、答えは出なかった。
だが一つだけ、はっきりしたことがある。
——この森に、俺以外の誰もいなくてよかった。
情けない結論だ。捨てられたことに感謝するような話だ。
それでも、今はそれでいい。
俺はゆっくりと歩き出した。
※
それから半日。
森はさらに暗く、木々はさらに黒くなっていった。
地面から生えている草の色が変わった。緑ではなく、灰色になった。
やがて草も消えて、地面はただの黒い土になった。
この奥に何かある。
根拠はない。だが、そう感じた。
そして——俺は、それにぶつかった。
「——ぐっ」
鼻を押さえて、後ろによろめく。
目の前には、何もない。
空気がある。森が続いている。木々が見える。
なのに、進めない。
俺は恐る恐る手を伸ばした。
指先が、何かに触れた。
冷たい。硬い。ガラスに似ているが、ガラスじゃない。触れている場所を中心に、薄い紫色の波紋が広がって、すぐに消えた。
「……結界」
佐伯がいたら大喜びしただろう。俺だって、ゲームで見たことくらいはある。
俺は横に歩いて、端を探した。
十分歩いた。ない。
反対側に二十分歩いた。ない。
見上げると、それは木々の高さを越えて、視界の限界まで続いていた。
巨大だ。
こんなものを張れる存在が、この奥にいる。
俺は一歩下がった。
まともな判断力があるなら、引き返すべきだ。狼六体で暴走するような人間が、こんなものを張れる何かに近づいて、無事で済むはずがない。
だが。
俺の頭にあったのは、別のことだった。
この森に来て十二日。
俺は一度も、人の声を聞いていない。
骨は見た。手紙も見た。だが、生きた誰かの声は、一度も。
……もし。
この中に、誰かいるなら。
俺は結界の前に立った。
拳を握る。
まだ、少し震えていた。
それでも俺は、思いきり叩いた。
「——おーい!」
鈍い音が、森に響いた。
※
——ルナ Side——
どれくらい、こうしているだろう。
数えるのはやめた。数えていた頃は、まだ何かを期待していたのだと思う。
結界の中には何もない。木も、水も、光もない。私は膝を抱えて、ただ座っている。
お腹が空いた、という感覚は、とっくに壊れている。
最初の数日は苦しかった。次の数週間は、頭がおかしくなりそうだった。
今は、痛い。
身体の内側が、ずっと焼けている。血が足りないと、こうなるらしい。知らなかった。今まで、足りなくなったことがなかったから。
それでも死ねない。
傷は塞がる。焼かれても再生する。首を落とされても、胸を貫かれても。
あのとき、みんなが私を殺そうとしてくれた。
私が悪かったから。私が全部、奪っていたから。
だから受け入れた。防御をやめて、抵抗もやめて、ただ立っていた。
なのに、死ねなかった。
みんなの顔を、今でも覚えている。
途中から、あの子たちは泣いていた。私を殺したくて泣いていたんじゃない。殺せないことに泣いていた。
私は、あの子たちに最後まで何もあげられなかった。
……ごめんなさい。
だから、ここにいる。
誰にも会わない。誰の血も飲まない。何もしない。
そうしていれば、いつか終わると思った。
——ゴン。
……。
ゴン。ゴン。
「……うるさい」
鳥だろうか。獣だろうか。
この森の生き物は、私の結界に近づかない。近づけない。だから、こんな音がするはずがない。
ゴン、ゴン、ゴン。
乱暴な音だった。何度も、何度も。諦める気配がない。
「——おーい!」
……声。
人の、声。
私は顔を上げた。
何年ぶりだろう。何十年ぶりだろう。
「誰かいるのか!?」
いない。
誰もいない。ここには誰もいない。だから帰って。
そう思うのに。
私は、いつの間にか耳を澄ませていた。
次の音を、待っていた。
……その事実に気づいて、私は自分に腹が立った。
「……もう、いいのに」
立ち上がる。
膝が笑った。何十年も座っていた身体は、自分のものじゃないみたいだった。
追い返そう。
一言だけ言って、追い返そう。それだけ。
——今から思えば。
あのとき立ち上がらなければ、私はきっと、まだあの暗い場所に座っていた。




