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第2話 狂熱

森に入って三時間で、俺は自分の決意がいかに薄っぺらいものだったかを理解した。


 絶対に生きて帰ってやる。


 立派な台詞だ。だが、その次の行動を何も考えていなかった。


 水がない。  食料がない。  武器がない。  方角も分からない。


 持っているのは制服と、ポケットに入っていたスマホ——電波が入るはずもなく、バッテリーは二十三パーセント——それだけだ。


「……最悪だ」


 俺は木の幹に手をついて、荒い息を吐いた。


 この森は、おかしい。


 まず、暗い。頭上には確かに葉の隙間があって、空の色も見えるのに、地面まで届く光がほとんどない。まるで光の方が地面に触れるのを嫌がっているみたいだった。


 次に、静かすぎる。虫の声も、鳥の声もしない。時折、遠くで例の遠吠えが聞こえる以外は、俺の足音と呼吸だけが世界のすべてだった。


 そして——匂い。


 腐った水の匂いが、どこにいても消えない。


「魔物の少ない森、ねえ」


 宰相の言葉を思い出して、俺は笑った。笑うと喉が痛んだ。


 あの男は嘘をついたわけじゃない。ただ、必要なことを言わなかっただけだ。丁寧な言葉で、俺の頭に都合のいい絵を描かせて、そのまま馬車に乗って帰った。


 たぶん、あいつは今夜も普通に飯を食う。


「……くそ」


  ※


 最初の夜は、ひどかった。


 日が落ちると、森は本当に真っ暗になった。手のひらも見えない。俺は太い木の根の間に体を押し込んで、膝を抱えて夜が明けるのを待った。


 寒かった。


 制服のブレザーは、こういうときのために作られていない。


 そして何より——音がした。


 遠くで、近くで、何かが動く音。枝を踏む音。息づかい。ときどき、何かが俺のすぐそばを通り過ぎていく気配。


 俺は動けなかった。呼吸を殺して、目を閉じて、ただじっと耐えた。


 頭の中に、いろんなものが浮かんでは消えた。


 母親の顔。夕飯の匂い。大我と歩いた帰り道。教室の窓。


 そして——神崎の、声に出さない唇の動き。


 ハ、ズ、レ。


「……ふざけんな」


 俺は歯を食いしばった。


 こんなところで、震えながら死ぬのか。誰にも知られずに。あいつらは元の世界に帰って、俺の席が一つ空いていることに誰も気づかないまま——。


 冗談じゃない。


 朝が来たとき、俺はまだ生きていた。


 それだけで、少しだけ何かが変わった気がした。


  ※


 二日目。


 水を見つけた。


 細い流れだった。ただし水は黒い。インクを溶かしたみたいな色だ。


 俺はしばらくその前に立って、迷った。


 飲まなければ死ぬ。飲んで死ぬかもしれない。


「……どっちも死ぬなら、動く方を選ぶ」


 指を浸して、舐めた。


 鉄の味がした。だが、それだけだった。舌が痺れる感じもない。


 十分待って、何も起きないのを確認してから、俺は掬って飲んだ。


 生き返る、というほどではない。だが確かに、身体の芯に何かが戻ってきた。


 その日は木の実も見つけた。赤黒い、ぶどうに似た実。これも同じ手順で試した。指で潰して、舌先につけて、待つ。


 喉が焼けるような感覚が来て、俺は慌てて吐き出した。


 毒だ。


「……分かった。お前は駄目だ」


 俺は木の実に向かって喋っていた。


 二日目にして、独り言が始まっていた。


  ※


 三日目に、それは現れた。


 水を汲んでいるときだった。


 背後で、枝の折れる音がした。


 振り返ると——狼がいた。


 いや、狼と呼んでいいのか分からない。体高は俺の胸ほど。毛は黒く、目は濁った黄色。何より異様なのは、口だ。


 顎が、耳の下まで裂けていた。


 牙が、多すぎた。


「……っ」


 声が出なかった。


 逃げろ、と頭が言った。だが足が動かない。膝から下が、他人のものになったみたいだった。


 狼が、低く唸る。


 その音を聞いた瞬間、身体が理解した。


 ——これは、勝てない。


 俺は走った。


 背中を向けた瞬間に襲われる、なんて理屈は頭になかった。ただ本能が走れと叫んで、俺はそれに従った。


 三歩で、追いつかれた。


 肩に衝撃。視界が回転する。


 地面に叩きつけられて、息が止まった。左肩から熱いものが噴き出しているのが分かる。痛みは、まだ来ない。


 狼が、俺の上に乗った。


 裂けた口が開く。腐臭。牙の隙間から、粘つく糸が垂れて俺の頬に落ちた。


 ああ。


 死ぬんだ。


 こんな、あっけなく。


 誰も知らないところで。


 ——その瞬間だった。


 腹の底で、何かが点いた。


「————ぁ」


 熱い。


 燃えている。


 心臓が破裂しそうなほど暴れて、血が沸騰していた。視界の端が赤く滲む。


 恐怖が、消えたわけじゃない。


 むしろ逆だ。恐怖が燃料になった。


 肩の傷が、熱い。痛みが引いていく。


 俺は、両手で狼の顎を掴んだ。


「————ォ」


 狼の目に、初めて別の色が浮かんだ。


 驚き。


 俺は自分の腕を見た。制服の袖が張り裂けそうになっている。


 そして、力を込めた。


 嫌な音がした。


 骨が軋み、砕ける音。狼の顎が、俺の手の中でありえない角度に曲がった。


 悲鳴が上がる。狼が飛びのこうとする。


 逃がすか。


 俺はその首を掴んで引き寄せた。足で腹を蹴り上げる。狼の身体が浮いて、木の幹に叩きつけられた。


 立ち上がる。


 身体が軽い。信じられないくらい軽い。


 足元に転がっていた石を掴んだ。人の頭ほどの大きさ。普段なら両手でようやく持ち上がるはずのそれが、片手でひょいと持ち上がった。


 狼が、よろめきながら立ち上がる。


 目が合った。


 そいつは、初めて怯えていた。


「————」


 俺は、笑っていた。


 自分でもそれに気づかないまま、笑いながら石を振り下ろした。


 一度。


 二度。


 三度目で、動かなくなった。


  ※


 どれくらい経ったのか分からない。


 気がつくと、俺は石を握ったまま座り込んでいた。


 腕が震えている。全身が汗と、汗じゃない何かでぐしょ濡れだった。


「……は」


 息が漏れた。


「はは……」


 勝った。


 勝ったのか、俺は。


 あんな化け物に。素手と石で。


 俺は自分の左肩を見た。制服が裂けて、血で真っ赤になっている。だが——傷が、ない。


 いや、正確には塞がっていた。まだ薄い線のような跡は残っているが、噴き出していた血は完全に止まっている。


「……なんだよ、これ」


 ——《狂熱》。


 頭の中に、その言葉が浮かんだ。


 誰かに教わったわけじゃない。あの水晶で、俺の固有能力の欄は空白だった。宰相は職業名を読み上げただけで、それ以上は何も言わなかった。言わなかったんじゃなく、言えなかったのかもしれない。


 なのに、名前だけが分かる。


 初めて聞いたはずの単語なのに、意味と一緒に、勝手に落ちてきた。


 ……気味が悪い。


 だが今、俺の身体は確かに知っていた。


 強い感情が引き金だ。恐怖でも、怒りでもいい。それが一定を超えると、身体の中で何かが点火する。


 そして——身体が壊れなくなる。


「……ハズレ職、ねえ」


 俺は掌を開いて、閉じた。


 もう熱は引いている。ただの高校生の手だ。石を持ち上げれば、たぶん普通に重い。


 それでも。


 確かにさっき、俺はあれを殺した。


「——上等だ」


 俺は立ち上がった。


  ※


 その夜、俺は焚き火をした。


 火の起こし方は、中学のときにキャンプで一度だけ習った。三時間かかった。それでも点いた。


 三時間だ。


 佐伯なら、たぶん指を鳴らして終わりだろう。賢者だとかで大喜びしていたあいつなら。姫川だって魔法剣士なんだから、剣に火くらい纏わせられるはずだ。


 ——この方には、魔力の反応がございません。一切。


 宰相の声を思い出して、俺は鼻を鳴らした。


「三時間かけて火を起こす勇者候補、ねえ」


 笑えるが、笑えない。


 魔法がないということは、遠くの敵に何もできないということだ。毒を受けても治せないということだ。腕を失っても、それで終わりだということだ。


 俺にあるのは、この身体だけ。


 ……それでも、今のところは足りている。


 狼の肉は、ひどい味がした。


 噛み切れないし、獣臭いし、たぶん本当は食っちゃいけない生き物なんだろう。それでも俺は食った。全部食った。


 火を眺めながら、俺は考えていた。


 水がある。食える物もある。戦える。


 生きていける。


 ……それから。


 もう一つ、考えないようにしていたことがあった。


 あのとき。


 石を振り下ろした、あのとき。


 俺は、確かに笑っていた。


 狼はもう動いていなかった。三度目の時点で、たぶん一度目で終わっていた。


 それでも俺は振り下ろした。


 あれは、必要だったのか。


 それとも——。


「……やめよう」


 俺は火に枝を足した。


 考えても仕方がない。今は生きることだけ考えればいい。


 そう自分に言い聞かせて、俺は目を閉じた。


 火が爆ぜる音がした。


 その音が、なんとなく——誰かの笑い声に似ていた。

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