第1話 ハズレ職
六時間目の古典ほど、長い時間はこの世に存在しない。
黒板に並んだ助動詞の活用表を、俺——黒崎蓮は、半分寝た頭でノートに書き写していた。窓の外は、やたらといい天気だ。中庭の桜はとっくに散り終わって、代わりに濃い緑が風に揺れている。
「おい黒崎、寝るなよ。ノート写させろ」
斜め後ろの席から、低い声がした。鬼塚大我。染めた髪と鋭い目つきのせいで教師陣からは不良扱いされているが、こいつは中学からの腐れ縁だ。
「自分で書けよ」 「無理。俺の手、この字を書くようにできてねえ」 「どういう構造だよ」
小声で言い合っていると、教室の前の方でどっと笑い声が上がった。
神崎蓮司。整った顔立ちと、明るく人当たりのいい性格。放課後になれば必ず誰かに囲まれている、うちのクラスの中心人物だ。今も女子三人に囲まれて、何かの話で笑いを取っている。
「神崎くん、それ盛ってるでしょ」 「マジだって。俺、嘘つかないから」
その隣で、白石美咲が困ったように笑っていた。学年でも指折りの美少女で、しかも性格がいい。俺みたいなのが話しかける機会は、入学してから数えるほどしかなかった。
……いや。
一度だけ、あったかもしれない。いや、あれは話したうちにも入らないか。
去年の秋、雨の日。昇降口で、傘立ての前に立ち尽くしている女子がいた。傘を盗られたらしい。外はバケツをひっくり返したような雨で、その子はどうしていいか分からずに、ただ突っ立っていた。
俺は自分の傘をその手に押しつけて、そのまま雨の中へ走り出た。
「俺、走れるんで」
確かそんなことを言った。
顔は見なかった。見たら気まずくなる気がして、振り返らなかった。覚えているのは、濡れた制服の背中と、傘を受け取ったときの小さな「あ」という声だけだ。
名前も聞かなかったし、翌日には忘れていた。
……なんで今さら、そんなことを思い出したんだろう。
まあ、いいか。
俺はどうでもいいことを考えるのをやめて、ノートに視線を戻した。
教室の一番前では、東雲千尋が背筋を伸ばして板書を写していた。学級委員長。空手の全国大会に出たことがあるらしい。姿勢がいいというより、姿勢が崩れているところを見たことがない。
一年のとき、体育の授業でふざけた男子が女子に怪我をさせかけたことがあった。あのとき止めに入ったのが東雲だった。ただ止めただけじゃない。その後で謝罪までさせて、しかも相手を辱めなかった。
正しい人間というのは、ああいうのを言うんだと思う。
そして——教室の一番後ろ、窓際。
柊隼人は、机に肘をついて外を見ていた。
ノートも教科書も開いていない。一年のときから、そうしているところしか見たことがない。誰ともつるまず、誰にも興味を示さない。
一度だけ、上級生に絡まれているのを見たことがある。
三人相手に、あいつは何もしなかった。ただ立って、相手の顔を順番に見た。
それだけで、三人が黙って引き返した。
……関わらないでおこう、と俺は思っている。
俺はというと、クラスの中では特に何者でもない。目立ちもしないし、いじめられもしない。ただそこにいるだけの、その他大勢。
それでいいと思っていた。
——そのときだった。
足元が、光った。
「……は?」
最初は、誰かがスマホでも落としたのかと思った。だが違う。教室の床全体が、青白い光を放っている。見たこともない文字が、幾重にも円を描いて回転していた。
「え、なにこれ」 「ちょ、なにこれヤバくない!?」
姫川莉奈の悲鳴で、教室が一気に騒然となる。教壇の教師が何か叫んだが、その声は届かなかった。
光が、俺たちを飲み込んだ。
浮遊感。内臓が持ち上がるような、嫌な感覚。
そして——。
気がついたとき、俺たちは石造りの広間に立っていた。
※
天井が、高い。
見上げるほどの柱が何本も並び、色ガラスの窓から差し込んだ光が床に模様を落としている。空気は冷たく、埃と石と、微かに香の匂いがした。
そして、俺たちを取り囲むように——甲冑姿の男たちが立っていた。
「な、なんだよこれ」 「ドッキリ? ドッキリだよね?」 「カメラどこ!?」
クラスメイトたちが口々に叫ぶ。だが、誰も笑わない。甲冑の男たちは微動だにせず、ただこちらを見下ろしている。
三十四人。二年A組の全員が、そこにいた。制服のまま、教科書やスマホを握りしめたまま。
担任の姿だけがなかった。あの光の円は、教壇の手前でぴたりと途切れていたのだ。
正面の階段の上には、玉座があった。そこに座る初老の男は、明らかに王だった。豪奢なマントに、金の冠。両脇に控えるローブの男たちが、深々と頭を下げる。
「——ようこそ、勇者候補の皆様」
その中の一人、細身の男が進み出て、恭しく礼をした。
「私はアルディア王国宰相、バルドと申します。突然のご無礼、心よりお詫び申し上げます」
日本語だった。いや、日本語じゃないのかもしれない。だが、なぜか意味が分かる。
「皆様は、異世界より召喚されました」
広間が、しんと静まり返った。
次の瞬間、爆発した。
「はあ!?」 「異世界!? 嘘でしょ!?」 「帰せよ! 今すぐ帰せ!」
当然の反応だ。俺だって叫びたい。
だが宰相は、その騒ぎが収まるのを静かに待った。まるで、何度も見てきた光景であるかのように。
「お帰しすることは、可能です」
その一言で、悲鳴が止んだ。
「本当!?」 「じゃあ今すぐ——」 「ただし」
宰相の声が、わずかに低くなった。
「転移の魔道具には、膨大な魔力が必要となります。今回の召喚で、それはすべて使い果たされました。再び皆様を送り返すだけの魔力が溜まるまでには——数年を要します」
「……数年」
誰かが、呆然と繰り返した。
「本来であれば、一年ほどで済むはずでした。ですが今、この世界の魔力の巡りは著しく滞っております。魔王の影響です」
「魔王って、あの、ファンタジーの?」
佐伯陽一が、震える声で聞いた。眼鏡の奥の目が泳いでいる。ゲーム好きのこいつが、こんな顔をするのは初めて見た。
「はい。現在、我が国は魔王軍の侵攻を受けております」
宰相は淡々と語った。
国境の村が次々に焼かれていること。騎士団が押し返しても、また新たな軍勢が現れること。このままでは、数年のうちに王都まで落ちるであろうこと。
「なら、騎士団が魔王を倒せばいいじゃん」
姫川が言った。当然の疑問だ。
「できません」
宰相の返答は、即答だった。
「我が国の騎士は、魔族と互角以上に戦えます。上級魔族すら討ち取った者もおります。ですが——魔王本人には、届かない」
「なんで? 強すぎるの?」
「強い。それは確かです。ですが本当の問題は、そこではありません」
宰相は、言葉を選ぶように間を置いた。
「魔王は、《無明魔域》と呼ばれる結界を展開します」
むみょう、まいき。聞き慣れない響きが、広間に落ちた。
「その内側に入った者は、精神を侵されます。意識を保てず、身体は動かず、魔法も使えない。——立っていることすら、できないのです」
「……それって」
水城葵が、ぽつりと言った。普段ほとんど喋らないこいつが口を開いたことに、俺は少し驚く。
「戦う以前の問題ってこと」
「その通りです」
宰相は頷き、それから小さく付け加えた。
「ただし、侵蝕の強さは魔王との距離に比例します。外縁部であれば、耐魔力の高い者はかろうじて意識を保てる。我が国が今もどうにか前線を維持できているのは、そのためです」
「じゃあ、耐魔力が高い人が突っ込めばいいじゃん」
姫川が言った。宰相は、静かに首を横に振った。
「三年前、我が国最強の騎士団長が、それを試みました」
広間の空気が、わずかに張り詰める。
「彼は建国以来最高の耐魔力を持つ男でした。単身で《無明魔域》に踏み込み——魔王の姿を視認できる距離まで、到達した。歴代でただ一人です」
「すごいじゃん、その人」
「ええ。ですが、そこまででした」
宰相の声が、低くなった。
「彼はそこで、剣を抜けなかった。抜き方を、忘れていたのです。自分の名前も、何をしに来たのかも思い出せなかったと。……気づけば背を向けて走っていた、と本人は語りました」
「……逃げたってこと?」
「いいえ」
宰相は、はっきりと否定した。
「逃げようと判断することすら、できなかったのです。身体が、勝手に逃げていた。——それが、我が国で最も魔に強い男の結果です」
空気が、重くなった。
誰も倒せない敵。近づくことすらできない敵。それが、今この世界を食い荒らしている。
「だから、異世界から人を呼んだのか」
俺の口から、勝手に言葉が出ていた。宰相の目が、こちらを向く。
「……はい。異世界より召喚された方々は、《異界耐性》を持ちます。《無明魔域》の影響を、一切受けません」
「じゃあ俺たちなら、魔王と戦えるってこと?」
神崎が一歩前に出た。声には、隠しきれない高揚があった。
「そうなります」
「過去にも呼んだんですか、俺たちみたいなの」
佐伯が聞いた。宰相の表情が、わずかに硬くなる。
「……過去に、幾度か」
「その人たちは? 今どこに?」
沈黙。
長い、長い沈黙だった。
「——全員、魔王との戦いで命を落としました」
悲鳴が上がった。誰かが泣き出した。九条麗華が口元を押さえ、鬼塚が「ふざけんな」と吐き捨てる。
全滅。過去の召喚者は、全員死んだ。
つまり、俺たちも。
「お待ちください」
宰相が、声を張った。
「過去の召喚には、決定的に欠けていたものがありました」
その声には、確かな熱があった。
「《勇者》と《聖女》です」
宰相は、指を二本立てた。
「《聖女》は、過去に三度だけ確認されています。最後の一人は二百年ほど前。いずれも我が国の民から生まれた者で、召喚者ではありません」
「じゃあ、いるにはいるんだ」
姫川が言った。
「ええ。ですが、二百年、一人も」
彼は、二本目の指を折った。
「そして《勇者》は——一度もありません」
「え?」
「有史以来、この世界に《勇者》を授かった者は、ただの一人も存在しません。教会の職録にも、記録が一行もない」
「じゃあ、なんで名前だけ知ってんの」
「聖典に書かれているからです」
宰相は静かに答えた。
「千年以上前の神代の記述に、そういう職があると。それだけです。何ができるのか、どれほどの力なのか——誰も見たことがない」
※
「あの、すみません」
手が挙がった。佐伯だった。
「一個いいですか。あの、失礼な質問なんですけど」
「なんなりと」
「この国の人じゃ、だめなんですか」
広間の空気が、少し動いた。
「聖女って、この国から三人出てるんですよね。ってことは、この国の人も職業を授かるってことで」
「その通りです。我が国では十五の年に、教会で鑑定を受けます」
「じゃあ、わざわざ異世界から呼ばなくても」
「二つ、理由がございます」
宰相は指を立てた。
「一つ。この国の民が授かる職の九割は、生活の職です。農夫、織工、石工。戦える職を授かる者は一割に満たず、その中で剣聖・大魔導と呼ばれる域に届く者は、数十年に一人」
「……一人」
「はい。しかもその一人は、たいてい一人で戦い、一人で死にます」
宰相は、俺たちを見渡した。
「今、この広間には三十四人おります。その全員が、職を授かっている」
誰かが息を呑んだ。
「数十年に一度の逸材が、一度に、しかも互いを知る者同士で揃う。これは我が国の歴史上、一度もなかったことです」
「……もう一つは?」
「先ほど申し上げた、《異界耐性》です」
宰相の声が、低くなった。
「どれほど強い剣聖が生まれても、無明魔域の中では立てません。この国の民には、魔王に近づくことそのものが、原理的に不可能なのです」
彼は頭を下げた。
「我々にできないことを、皆様はできる。それだけの理由で、我々は皆様を奪いました」
「……それが、なんなの」
白石が、消え入りそうな声で聞いた。
宰相は、俺たちの足元を——さっきまで召喚陣の光が残っていた床を指した。
「召喚の陣は、現れた方々の魔力の質だけを読み取ります。職業までは分かりません。誰が何を授かったのかも、鑑定するまでは判別できない」
彼は顔を上げた。
「ですが、二つだけ。桁の違う光がございました」
「桁の、違う」
「神器級の反応が、二つ。——それが何を意味するのか、その場にいた者は誰も分かりませんでした。誰一人、見たことがなかったからです」
玉座の王が、低く言った。
「勇者と、聖女じゃ」
言葉が、広間に落ちた。
「皆様の中に、必ずおられます」
宰相は、深く頭を下げた。
「どうか——お力を、お貸しください」
※
広間の中央に、大人の背丈ほどもある水晶が運び込まれた。
「これは職業鑑定の魔道具です。手を触れていただければ、皆様が授かった職業が判明いたします」
クラスメイトたちは、まだ混乱していた。泣いている者もいる。だが同時に、どこか浮ついた空気も混ざり始めていた。
当然だ。異世界。職業。魔法。
絶望と好奇心は、案外簡単に同居する。
「じゃあ、俺から行くわ」
最初に手を挙げたのは、神崎だった。
迷いのない足取りで水晶に近づき、掌を当てる。
瞬間——水晶が、目を灼くような黄金の光を放った。
「な——っ!」
騎士たちがどよめく。宰相が、震える手で水晶に刻まれた文字を読み上げた。
「《勇者》——固有能力、《聖剣召喚》。《王者の威風》。そして《光龍召喚》」
宰相は一度言葉を切って、付け加えた。
「最後の一つは、まだ目覚めておりません。授かった力のすべてが、最初から使えるわけではないのです。水晶には名が浮かびますが、本人にはまだ届いていない」
「ですが、残る二つは、すでにこの方のものです」
宰相の指が、水晶に浮かんだ二つの名を順になぞった。
「《王者の威風》——共に戦う者の力を底上げする力。そして《聖剣召喚》」
顔を上げる。
「聖典に記された勇者の証は、この剣です。……それが、今ここにあります」
広間が、揺れた。
騎士たちが一斉に膝をつく。玉座の王が、初めて立ち上がった。
「おお……勇者よ!」
神崎は一瞬呆けたような顔をして——それから、ゆっくりと笑った。
その笑い方を、俺は覚えている。テストで学年一位を取ったときの顔だ。試合で決勝点を決めたときの顔だ。
「やっぱり自分だった」という顔。
「大丈夫。みんな、俺がなんとかするから」
神崎が振り返って言うと、女子から歓声が上がった。誰かが泣きながら笑っていた。
それからは、次々と鑑定が進んだ。
白石美咲——《聖女》。水晶が白い光に包まれた瞬間、宰相は膝から崩れ落ちた。
「……二つ。本当に、二つとも」
床に手をついたまま、震える声で言った。
「皆様は、我が国が召喚してきた中で——過去最高の戦力です」
九条麗華——《聖騎士》。「まあ……わたくしが」と、彼女は誇らしげに背筋を伸ばした。 水城葵——《弓聖》。相変わらずの無表情で、「……そう」とだけ。 佐伯陽一——《賢者》。「うわ、マジで賢者だ。俺、賢者だ」と壊れたように繰り返していた。 姫川莉奈——《魔法剣士》。「え、ウケる。あたし魔法剣士じゃん」 鬼塚大我——《重騎士》。「盾役かよ。まあ、悪くねえ」
東雲千尋——《拳聖》。水晶に触れた瞬間、宰相が息を呑んだ。「素手で戦う職業です。……ですが、この反応は」と、彼女の掌を何度も見比べていた。当の東雲は「そうですか」と言って、静かに頭を下げただけだった。
柊隼人——《剣鬼》。
これも広間がざわついた。宰相が「鬼の名を冠する職は、記録に数えるほどしか」と言いかけたところで、柊は水晶から手を離して歩き出した。
「で、いつ戦えるんだ」
「は……?」
「強い奴はどこにいる」
宰相が言葉に詰まっていた。柊はそれ以上何も言わず、壁際に戻って腕を組んだ。
それから、残りのクラスメイトたちが次々と水晶に触れていった。
《商人》。《鍛冶師》。《薬師》。《見習い魔術師》。
戦闘職と呼べない職業が続くたび、広間の熱は少しずつ引いていった。それでも宰相は一人ひとりに丁寧に頷き、騎士たちは礼を失しなかった。「後方支援も戦のうちです」と、優しく声までかけていた。
——後になって思う。
あのとき彼らが優しかったのは、その職業が弱かったからじゃない。
無害だったからだ。
空気は、いつの間にか変わっていた。
誰も彼も、自分に与えられた力に浮かれ始めていた。数分前まで泣いていた奴が、今は隣とはしゃいでいる。
悪いことじゃない。絶望したままよりずっといい。
俺はそう思いながら、最後に水晶の前に立った。
掌を当てる。
冷たい。石みたいな感触。
水晶が、光った。
——赤黒く。
「……え」
誰かの、間の抜けた声。
水晶の表面に、文字が浮かび上がる。宰相がそれを読んで——固まった。
顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「……《バーサーカー》」
しん、と広間が静まり返った。
……妙だった。
この世界に来てから、言葉は全部そのまま頭に入ってくる。勇者も、聖女も、賢者も、意味と一緒に届いた。
なのに、今の一語だけは違った。
意味が来ない。音だけが来た。
宰相の発音も、他の職業を読み上げたときとは明らかに違っていた。知らない国の単語を、無理やり口に乗せているような言い方だった。
俺は水晶を見た。文字は読めない。召喚のときに言葉は通じるようになったのに、書かれたものはただの模様にしか見えなかった。
それでも、一つだけ分かることがあった。
他の連中のときは、職業名の下に、必ずもう何行か文字が浮かんでいた。固有能力の欄だ。
俺のそこは、空白だった。
宰相が、水晶をもう一度覗き込んだ。そして、細く息を吐いた。
「……加えて、申し上げます」
その声は、ひどく淡々としていた。
「この方には、魔力の反応がございません。一切」
「え?」
「魔法を学ぶことができない、ということです。詠唱魔法も、治癒も、生涯」
誰かが「うわ」と小さく漏らした。
さっきまで浮かれていた空気が、嘘みたいに消えている。
「なんだよ、それ」
俺は素直に聞いた。名前だけ聞けば、そう悪くなさそうに聞こえる。狂戦士。ゲームなら普通に強そうな職業だ。
だが、宰相の反応は違った。
「……陛下」
「うむ」
王が、重々しく頷いた。
「過去に一度だけ、その職業を持つ者がおりました」
宰相は、慎重に言葉を選んでいた。
「彼は確かに強かった。素の膂力だけなら、騎士団長に匹敵したでしょう。——ですが」
「ですが?」
「興奮すると、スキルが暴走するのです。敵と味方の区別がつかなくなる。彼が最も多く殺したのは、魔族ではなく——味方の兵でした」
空気が、凍りついた。
誰かが、一歩下がった。
それが合図だったかのように、周りにいたクラスメイトたちがじりじりと距離を取っていく。
その中で、一人だけ。
柊隼人が、前に出た。
俺のすぐ横まで来て、水晶を覗き込む。それから俺の顔を、何かの品定めみたいにじろじろと見た。
「……何だよ」
「空白ってのは、面白えな」
柊はそれだけ言って、興味深そうに口の端を歪めた。
庇ってくれたわけじゃない。心配してくれたわけでもない。
こいつはただ、珍しいものを見に来ただけだ。
それでも——目を逸らさなかったのは、こいつだけだった。
「……嘘だろ」
俺は、笑おうとした。笑えなかった。
「待ってください。蓮くんは、そんな——」
白石が言いかけた、そのとき。
「はっ」
短い笑い声がした。
神崎だった。
「マジかよ黒崎。お前、味方殺す職業かよ」
「神崎」
「いやいや、責めてるわけじゃないって。運が悪かっただけだろ?」
神崎は肩をすくめてみせた。爽やかに。優しげに。
だが目は、笑っていなかった。
「でもさ。魔王討伐に、ハズレ職はいらないよな」
その一言が、広間に落ちた。
誰も、否定しなかった。
「危険だし。いつ暴走するか分かんない奴と一緒に戦うとか、無理じゃん。——なあ、みんなもそう思うだろ?」
沈黙。
俺は、クラスメイトたちの顔を見た。
目を逸らす奴。俯く奴。困ったように隣を見る奴。
ついさっきまで、同じ教室で笑っていた連中だった。
「……ふざけんな」
鬼塚が、前に出た。
「黒崎はそんな奴じゃねえ! まだ何もしてねえだろうが!」
「落ち着けって鬼塚。俺だって黒崎のこと嫌いじゃないよ? でも、これは全員の命がかかってるんだ」
神崎は、あくまで穏やかだった。
それが、一番たちが悪い。
「……それ、おかしくない?」
水城が、静かに言った。
「まだ暴走すると決まったわけじゃない。事実だけ見るなら、今の黒崎はただ職業が判明しただけ」
「そうですわ。決めつけるのは、感心しませんわね」
九条も眉をひそめる。
「でもさぁ……」
姫川が、気まずそうに言葉を濁した。
「もし本当に暴走したら、うちらが刺されるってことでしょ? ……それは普通に、怖くない?」
誰も、答えなかった。
答えは、その沈黙だった。
——そのとき。
「では、私が監督します」
凛とした声が、広間に通った。
東雲だった。
彼女は俺と騎士たちの間に立って、まっすぐに玉座を見上げていた。
「私は《拳聖》を授かりました。もし黒崎くんが暴走したなら、私が止めます。訓練も生活も、私が同じ場所で見ます。……それなら、問題ないはずです」
俺は、思わず彼女を見ていた。
この状況で、自分から一番危険な役を引き受けると言っている。しかも本気だ。東雲千尋という人間は、そういうことを冗談で言わない。
宰相が、静かに首を横に振った。
「東雲様。過去のバーサーカーを止めようとした兵は、十七名おりました」
「……」
「全員、死んでおります」
東雲の肩が、わずかに動いた。
「あなたは強い。それは水晶が証明しました。ですが、あなたが眠っている間は? あなたが別の戦場にいる間は? あなた一人の覚悟で、三十四名の命を担保できますか」
「……それは」
「できるとおっしゃるなら、我々は従いましょう」
宰相は、優しい声で言った。
優しい声で、逃げ道を全部塞いだ。
東雲は、答えられなかった。
三十四人と、一人。
彼女の中で天秤が傾く音が、俺にも聞こえた気がした。
「…………申し訳、ありません」
彼女は、深く頭を下げた。
俺にではなく、玉座に向かって。
※
王が、口を開いた。
「宰相」
「はっ」
「その者は、戦力にならぬ。それどころか、危険である」
王の声には、一片の迷いもなかった。
まるで、書類の一行を消すみたいに。
「勇者殿らの訓練に支障が出てはならぬ。——隔離せよ」
「承知いたしました」
宰相が手を挙げると、甲冑の男たちが動いた。
両脇から腕を掴まれる。振りほどこうとしたが、びくともしなかった。
「おい、待てよ! どこに連れてく気だ!」
「安心なさい。害するわけではありません」
宰相は、目を合わせずに言った。
「王都から離れた場所に、魔物の少ない森がございます。そこで静かに過ごしていただくだけです」
嘘だ、と直感した。
この男は、俺の目を見ていない。
「やめろ! 離せ! 黒崎——!」
鬼塚が飛び出そうとして、騎士たちに押さえ込まれた。
「蓮くん!」
白石の声。振り返ると、彼女は騎士たちの間から必死に手を伸ばしていた。
「傘!」
「……は?」
「私、まだ返してない! だから——だから、死んだら許さないから!」
何を言っているのか、分からなかった。
傘? 何の話だ。
白石の目からぼろぼろと涙がこぼれているのだけが、やけにはっきりと見えた。
その向こうで。
神崎が、こちらを見ていた。
俺と目が合うと、あいつは口の端だけで笑った。
そして、声に出さずに唇を動かした。
——ハ、ズ、レ。
その隣で。
「黒崎くん!」
東雲が、騎士たちの列の前で拳を握りしめていた。目が赤い。
「必ず——必ず迎えに行くから! それまで、絶対に生きて!」
本気で言っている、と分かった。
この人は嘘をつかない。今この瞬間、心の底からそう思って言っている。
……本気で言われた方が、こたえるんだな。
「……そうかよ」
俺の口から出たのは、それだけだった。
東雲の顔が、はっきりと歪んだ。
その斜め後ろで、柊隼人が壁にもたれたまま俺を見ていた。
あいつは何も言わなかった。手も伸ばさなかった。ただ、最後まで目を逸らさずに俺を見ていた。
そして、俺が扉の外へ引きずり出される直前——
「おい、ハズレ」
柊が、初めて口を開いた。
「死ぬなら死ね」
誰かが息を呑んだ。東雲が「柊くん!」と鋭い声を上げる。
だが柊は、まったく意に介さなかった。
「それだけの奴だったってことだ。——けど」
あいつは、ほんの少しだけ首を傾けた。
「生きて戻ってきたなら、そんときは相手してやる」
それが、あの広間で俺に向けられた最後の言葉だった。
※
馬車に押し込まれてから、どれくらい経ったのか分からない。
窓のない荷台の中で、俺はずっと揺られ続けていた。水も食料も渡されなかった。
やがて馬車が止まり、扉が開く。
流れ込んできた空気は、腐った水のような匂いがした。
目の前に広がっていたのは、森だった。
黒い。木々の葉も、幹も、地面も、すべてが不自然なほど黒ずんでいる。空は昼のはずなのに、森の内側だけが夜みたいに暗かった。
その奥から、何かの遠吠えが聞こえた。人の悲鳴に似た声だった。
「ここは死海の森と呼ばれています」
いつの間にか、宰相が横に立っていた。王都からずっと同行していたらしい。
「かつて多くの騎士が調査に入り、誰一人戻りませんでした。生きて出た者は、記録上ゼロです」
「……おい」
「静かに過ごしていただく、と申し上げましたでしょう」
宰相は、ようやくこちらを見た。
その目には、悪意すらなかった。ただ、事務的な冷たさだけがあった。
「恨まないでいただきたい。国が滅ぶかどうかの瀬戸際なのです。使えぬ駒を抱える余裕は、ございません」
背中を、強く押された。
俺はそのまま地面へ転がされた。剣も、防具も、荷物もない。制服のままだ。
振り返ったときには、もう騎士たちは馬車に乗り込んでいた。
「待てよ! おい!」
馬車が動き出す。
遠ざかっていく車輪の音を聞きながら、俺はしばらくその場に座り込んでいた。
背中の土が冷たい。喉が渇いている。手が震えていた。
——ハズレ。
あいつの唇の動きが、頭にこびりついて離れない。
目立たなくてもよかった。何者でもなくてもよかった。それでいいと思っていた。
だけど。
こんなふうに、要らないと言われるのは。
誰にも惜しまれずに、捨てられるのは。
……冗談じゃない。
俺は膝に力を入れて、立ち上がった。
黒い森を、正面から睨みつける。
「誰が死ぬかよ」
声が、震えていた。それでも、はっきりと言った。
「絶対に生きて帰ってやる」
俺は周囲を囲む木々のなか、ゆっくりと歩き出した。
——世界で最も強く、そして誰にも守られたことのない少女が、たった一人で死を待っている場所へ。
※
——白石美咲 Side——
馬車の音が聞こえなくなっても、私はその場から動けなかった。
広間はもう普通に戻っていた。誰かが笑っている。神崎くんが騎士の人と何かを話している。九条さんが早速、剣の重さについて質問している。
みんな、切り替えるのが上手だ。
私だけが、まだ手を伸ばしたままの形で立っていた。
……傘。
どうしてあんなことを叫んでしまったんだろう。
あの人は、たぶん覚えていない。あんなの、十秒もかからない出来事だった。
去年の秋。傘立ての前で立ち尽くしていた私に、誰かが後ろから傘を押しつけて、そのまま雨の中へ走っていった。
顔も見せずに。名乗りもせずに。
私はしばらく、その紺色の傘を握ったまま動けなかった。
傘を盗られたことが悲しかったんじゃない。人の多い昇降口で、五分以上そこに立っていたのに、誰も私に気づかなかったことが悲しかったのだ。
白石さんはいつも誰かに囲まれている。白石さんは困っていない。白石さんは大丈夫。
みんなそう思っている。だから、誰も見ない。
あの日、たった一人だけが見た。
次の日、私はその人の名前を調べた。黒崎蓮くん。二組の。目立たない、普通の男子。
傘は、返さなかった。
返してしまったら、それで終わりだから。話しかける理由が、なくなってしまうから。
……我ながら、ずるいと思う。
半年以上、部屋の机の引き出しの奥に入れたままだった。何度も取り出しては、また戻した。
今日こそ、と思った日が何度もあった。
そして今日も、思っていた。
その傘は、今も私の部屋にある。
もう二度と、帰れないかもしれない部屋に。
「……白石さん? どうしたの、大丈夫?」
姫川さんが心配そうに覗き込んでくる。
「うん。……大丈夫」
私は笑った。上手に笑えたと思う。慣れているから。
誰も私に気づかない。
私が大丈夫じゃないことに、誰も。
——ああ。
だからあの人は、あんなにあっさり捨てられたんだ。
誰も見ていなかったから。
「……返さなきゃ、いけないのに」
誰にも聞こえない声で、私はそう言った。




