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第30話 ここにいてくれ

 翌朝、王城の大広間に全員が集められた。


 理由は、聞くまでもない。昨夜の伝令だ。北の砦が落ちて、黒い霧が南へ来ている。その軍議に、俺たちも呼ばれた。


 謁見のときにも、ここに立った。それでも、入るたびに思い出す。この部屋で、俺は「ハズレ」と呼ばれて引きずり出された。柱の位置も、床の模様も、覚えている。


 あの日、鑑定の水晶が置かれていたあたりに、今日は大きな机が据えられていた。広げられた地図を、騎士団の主だった連中と文官が囲んでいる。召喚者は、俺を入れて十人。


 机の向こうに、王がいた。


 豪奢なマントも、金の冠も、変わらない。ただ、近くで見ると頬が削げている。謁見のときは玉座が遠くて、気づかなかった。


 あの日、この男は玉座から一言で俺を捨てた。書類の一行を消すみたいに。


 その男が、今日は立って、地図を覗き込んでいる。


「黒崎蓮」


 名前を呼ばれて、俺は顔を上げた。


「……はい」


「そなたも、勇士の一人として北へ出す。異存はあるか」


 俺は、その顔を見た。


 言いたいことは、山ほどあった。


 三十四人呼ばれたこと。記録に残っているのが、十人だけだということ。地下の水晶のこと。二十年前のこと。


 全部、言えた。だが、言えばたぶん、この場で捕まる。そして黒い霧は、それとは関係なく南へ来る。


「……ありません」


 王は、それだけ聞くと地図に目を戻した。


「ガレス」


「はっ」


「説明せよ」


 騎士団長が、地図の北の端を指した。


「一昨日の夜、ヴィレ砦が落ちました。昨夜の報せにあった通り、レスタは四日前に放棄しております」


「なんで捨てたのよ」


 姫川が、一歩前に出た。


「あそこ、守り切ったんじゃないの? あたしたち、あんなに——」


「守り切りました」


 ガレスは、目を伏せなかった。


「魔族が相手であれば、あの砦は持ちこたえます。皆様が、それを証明してくださいました」


「じゃあ、なんで」


「順に、ご説明します。まず、魔族の数は三千を超えると見られます」


「三千……?」


 姫川の声が、裏返った。


「レスタのときの、何倍……」


「七倍以上です。ですが、問題は数ではありません」


 ガレスは地図の上に指を置いて、それを南へ滑らせた。


「黒い霧が、国境を越えました」


 部屋が、静かになった。


 昨夜の報せで、もう聞いていた。それでも、この人の口から聞くと重さが違う。


「霧が、南へ動いております。魔王本人が、動き出しました」


 俺は、佐伯を見た。


 霧は出せる。でも、魔王本人はまだ動けない。そういう可能性もある。書庫の写しを前に、こいつはそう言っていた。動けるようになったら、と聞かれて、答えなかった。


 佐伯は、眼鏡を押さえていた。


「……動けるようになったんだ」


「ああ」


「合ってなくてよかったのに」


 ガレスの指は、国境の上で止まっている。


「これで、レスタを捨てた理由もご理解いただけるかと。《無明魔域》の中では、城壁も、堀も、兵の数も、意味を持ちません。立てない者がいくら籠もっても、同じことです」


「……だから、捨てたのか」


「はい。四日前の朝、霧の縁が一晩で目に見えて砦へ寄っていたそうです。霧が動いたら砦を捨てよ、と命じてありました。守将は、その日のうちに守備隊二千を退かせております」


 指が、少し南へ下がった。


「退いた先が、ここです。ヴィレ砦。第二線ですが、堅い砦です。二千は荷を抱えて二日歩き、日暮れにそこへ入りました」


 ガレスは、そこで一度、言葉を切った。


「霧は、そのすぐ後ろまで来ておりました」


「……すぐ後ろ?」


 大我が聞いた。


「軍勢は、身ひとつで歩く者より遅うございます。二千が二日かけた道を、霧はそれより早く詰めてきた。砦に入ったその夜のうちに、届いております。もう一度退く間は、ありませんでした」


「……それで」


「二千、全滅しております」


 部屋の温度が、下がった気がした。


「……届いてからでも、走って出られなかったのかよ」


「出られません」


 ガレスは、俺を見た。


「霧が届いた時点で、伝令も出せません。命令も届きません。誰も、逃げようと思えなくなります」


「……」


「南の丘から、斥候が見ておりました。霧のかかったところから、砦の篝火が見えなくなっていった。門は最後まで開かず、鬨の声も、剣の音も、聞こえなかったそうです」


 俺は、その意味を考えて、途中でやめた。


 ……抜けなかったのか。


 この人が、三年前にそうだったように。


「その霧は、今も動いているんですね」


 東雲が聞いた。


「はい。ヴィレを越えて、南下を続けております」


「進む先は」


 ガレスの指が、地図の中央で止まった。


「王都です」


「いつ、ここに来んだ」


 大我が言った。


「分かりません」


 ガレスは、ごまかさなかった。


「速くなるのか、遅くなるのか、どこかで止まるのか。霧が動くのを測った者が、おりません。分かっているのは、今日も南へ寄っている、ということだけです」


「途中の街は」


「四つあります。退去の触れは、すでに出しました」


「間に合うのかよ」


 ガレスは、答えなかった。地図の上の四つの印を、見ているだけだった。


  ※


「陛下」


 机の端から、文官の一人が声を上げた。年かさの男で、地図の縁を押さえた指が震えている。


「王都を出て、南へお移りいただくべきかと存じます。民も、動かせるだけ南へ」


 誰も、すぐには答えなかった。同じことを考えていた顔が、机のまわりにいくつもあった。


「南へ移って、そのあとはどうなさいます」


 宰相バルドが、初めて口を開いた。


「こちらが南へ下がれば、あれも南へ来ます。下がれる土地は、いずれ尽きます」


「ですが、ここに留まれば——」


「下がりたい者は、止めません。南の街道は開けておきます。ですが、王都の民をすべて動かすには、ひと月あっても足りません。霧が、それを待つとは思えません」


 文官は、王を見た。


 王は、地図から目を上げなかった。


「王都は、捨てぬ」


 それだけだった。文官は、口を閉じた。


「逃げても、終わりません」


 宰相は続けた。


「終わらせる手は、一つだけです。霧は、魔王本人がいなければ出ません。魔王を討てば、霧も消えます。よって、軍を北へ出します」


「勝てんのか」


 俺が聞くと、宰相はこちらを見た。


「騎士団だけでは、勝てません」


「……」


「《無明魔域》の中に、立てませんので」


 宰相は、淡々と言った。


「入れるのは、縁隊の生き残りが数十名。霧の縁でなら、まだ剣を振れる者たちです。それと——」


 彼は、俺たちを見た。


「皆様だけです」


 ……ああ。そうだ。


 あの日、この広間で、この男は同じことを言った。


 ——我々にできないことを、皆様はできる。


 ——それだけの理由で、我々は皆様を奪いました。


「待ってよ」


 姫川が言った。


「三千いるんでしょ。あたしたち、十人だよ」


「三千すべてを、皆様に受けていただくつもりはありません」


 答えたのは、ガレスだった。


「魔族は、霧の外へも出てまいります。出てきたものは、騎士団が受けます。霧の縁には、縁隊を置きます。皆様にお願いしたいのは、その前——霧の中です」


「中で、何すんだ」


 大我が聞いた。


「頭を、狙っていただきます」


 ガレスは、地図の北へ指を戻した。


「数でも、一体ごとの力でも、こちらが劣ります。まともに削り合えば、先に尽きるのは騎士団です。ですから皆様には、数を相手にするのではなく、魔王と、その下の将軍を討っていただきたい」


「将軍?」


「上級魔族のさらに上に、三体おります。バルガス、ザイグ、ミレア。捕らえた魔族が口にした名です」


「どんな奴らなんだ」


「分かりません。姿も、力も。騎士団には、見て戻った者がおりません」


「……名前しか分かんねえってことじゃねえか」


「はい。ですから、霧の中では、来るものすべてを相手になさらなくて結構です。抜けたものは、縁隊と騎士団で受けます。皆様は、力を残してください」


 勝てる、とは誰も言わなかった。


「一つ、伺ってもよろしいですか」


 九条麗華が、手を挙げた。


「どうぞ」


「戦えない方々は、いかがなさいますの」


 背筋を伸ばして、まっすぐ宰相を見ている。


「これまで通り、後方の支援に」


「反対いたしますわ」


 部屋が、ざわついた。


「九条殿」


「レスタでは、後方から回り込まれました」


 九条は、引かなかった。


「三浦亮太くんは、補給路で死んでおります。前ではなく、後ろで」


「……」


「今回は魔族が三千です。回り込まれない保証がございますの」


 宰相は、少し黙った。


「……ございません」


「では、王都に残していただきたいですわ」


「戦力が減ります」


「戦力ではない者を戦力に数えるから、こうなるのです」


 俺は、危うく声を出しかけた。


 こいつは何日も、貴族院へ掛け合いに通っていた。そこで動かなかった話を、王の目の前に持ち出している。


 戦いの場そのものに出させません。昨夜そう言ったのは、こういうことか。


 宰相は、しばらく九条を見ていた。それから、頷いた。


「……承知いたしました。戦えない方々は、王都に残します」


 九条は、深く頭を下げた。


「感謝いたしますわ」


 顔を上げたとき、こいつは一度だけ俺のほうを見た。


 俺は、小さく頷いた。


 出立は、二日後と決まった。


  ※


 解散したあと、俺は廊下でガレスを呼び止めた。


 城の外へ出るには、許しが要る。この人から、そう聞いている。


「宿に行きたい。連れを待たせたままだ」


 ガレスは、少しのあいだ俺を見ていた。


「……宰相閣下に、伺ってまいります」


 断られると思っていた。だが、戻ってきたガレスは頷いた。


「お許しが出ました。北へ出る者を城に留めておく理由はもうない、とのことです」


「……そうか」


「ただし、監視はつきます。一刻だけです」


「十分だ」


 商業区の外れまで、兵が二人ついてきた。その二人を宿の外に残して、階段を上がる。


 部屋の扉を開けると、ルナは窓辺に立っていた。


 九日ぶりだった。


「レン」


 振り返ったその顔を見て、俺は言葉に詰まった。


 ……なんだこいつ。


 こんな顔、見たことがない。


 次の瞬間、腹に衝撃が来た。


 ぶつかってきていた。頭が、俺の胸のあたりに当たっている。両手で、服を掴んでいる。


「うおっ、おい」


「…………」


「ルナ?」


 返事がなかった。


 しばらく、そのままだった。


「……悪かった」


 俺は言った。


「連絡もできなくてな。姫川が来てただろ」


「……来てた」


「飯、食ってるか」


「……食べてる」


「嘘つけ」


「……ちょっと」


 俺は、こいつの頭に手を置いて、髪をゆっくり撫でた。


 ルナは、離れなかった。俺も、離さなかった。背中に腕を回すと、服を掴む手から少しずつ力が抜けていく。


 どれくらいそうしていたのか、分からない。


 肩の強張りが解けたのを待って、俺は口を開いた。


「ルナ。話がある」


「……うん」


「二日後、北に行く」


 服を掴む手に、力が入った。


「魔王が、こっちへ向かってきてる」


「……まおう」


「知ってるか」


「……名前だけ」


「三千の魔族を連れてる。途中の街を、呑み込みながらだ。放っとけば、いずれ王都に来る」


「…………」


「だから、俺は行く」


 ルナは、俺の胸に額をつけたまま動かなかった。


 やがて、小さく言った。


「……私も」


「駄目だ」


「……私も、行く」


「駄目だ」


「なんで」


 顔を上げた。


 赤い目が、まっすぐ俺を見ていた。


「なんで、駄目なの」


 理由なら、いくらでもあった。


 危ない。あそこでは守りきれない。三千の魔族の中に、連れていけるわけがない。


 全部、本当だ。


 なのに、口から出たのは違う言葉だった。


「……お前が死んだら、俺が困る」


 ルナの目が、大きくなった。


 それから——


 顔が、真っ赤になった。


「……あ」


 こいつは、両手で顔を押さえた。


「おい、どうした」


「……なんでもない」


「顔、赤いぞ」


「……なんでもない」


 ……ほんとに、こいつは。


 しばらくして、ルナは手を下ろした。


 まだ赤かった。


「……レン」


「なんだよ」


「……約束、覚えてる?」


 俺は、頷いた。


「呼ぶまで動くな、ってやつだろ」


「……うん」


「悪い。今回は、呼べなかった」


「……」


「迎えに来るって言っといて、顔を見に来ただけだ。悪かった」


「……ううん」


「でも、お前を危ねえ目に遭わせたくねえ」


 城には、こいつのことを聞いてきた男がいる。北には、黒い霧がある。どっちにも、連れていけない。


「だから、もう少しだけ、ここにいてくれ」


 ルナは、俺の服の裾を掴んだ。


「帰ってきたら、今度こそ迎えに来る。約束する」


 ルナは、しばらく俺を見ていた。


 それから、頷いた。


「……待ってる」


  ※


 一刻は、すぐに過ぎた。


 階段を下りるとき、俺は一度だけ振り返った。


 ルナは、扉のところに立っていた。俺のブレザーを着て、手を少しだけ上げている。


 俺も、上げた。


 待ってる、とこいつは言った。だから、もう飛び出してはこない。


 今度は、上げてよかった。

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