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第31話 紅の地 

 紅の地は、王国の地図に載っていない。載せていないのではなく、載せられないのだと言われている。


 立入禁止区域が五箇所。その一つがここだった。理由は公表されていない。王国に伝わっているのは、一文だけだ。


 ——紅の地には、人の血を喰らう怪物がいる。


 だから兵も来ない。商人も来ない。狩人も、道を一本手前で折れる。


 常に赤い霧が出ている。その中では魔力感知が効かず、人の耳も鼻も狂う。傷口の血の匂いに、魔物が異常に反応する。人が入れば、まず出てこられない。


 二百年、それが一族を隠してきた。誰も来ない場所というのは、それだけで里になる。


 その赤が、北の端から失われていた。


  ※


 五人が、境まで出ていた。


 ノクス。ステラ。ヴェルガ。アウロラ。そして、セラ。六姫と呼ばれた者のうち今も残っている四人と、第五世代の娘だった。


 目の前で、赤い霧が途切れている。途切れた先に、黒いものがあった。霧というより、壁に近い。足元がいちばん濃く、上へ行くほど薄れながら、高く立ち上がっている。地面の上の縁は、刃物で切ったように真っ直ぐだった。それが、右にも左にも、見えるかぎり続いていた。


「赤が、消えています」


 次女のステラが言った。


「消えたのではない」


 長女のノクスは、目を細めたまま答えた。


「呑まれている」


 あの黒が北の空に見えてから、まだ幾日も経っていない。そのあいだに、里は何度か人を出している。最初は遠くから見るだけ。次は境まで。それから、少しずつ中へ。


 分かったことは、多くない。外にいるかぎり、何も起きないこと。境を越えたとたんに、身体が重くなること。深く入った者ほど、戻るのに時間がかかること。


 だから今日は、六姫が自分の足で確かめに来ていた。


「入るぞ」


 ノクスが言った。


「まずは外側だけだ。深く入るな」


 三人が頷いた。セラだけが、返事をしなかった。


「セラ」


「……はい」


「お前は、ここで待て」


「やだ」


 セラは、もう歩き出していた。


  ※


 黒に入った瞬間、全員の足が遅くなった。


 ノクスは、まず自分の腕を確かめた。上がる。動く。ただし、水の底で動かしているような重さがあった。


「動けます」


 四女のアウロラが言った。声が、いつもより低い。


「重いだけです」


「そうだな」


 ノクスは頷いた。


「報告の通りだ。ここまでなら、我らは戦える」


「……本当に?」


 ステラが、自分の指を握ったり開いたりしている。


「握力が、半分もありません」


「半分あるなら上等だ」


 ノクスは前を向いた。


「里の者を連れてくるなら、ここが限界になる」


 背後で、音がした。


 振り返ると、セラが倒れていた。境から、三歩だった。


「セラ!」


 ステラが駆け寄った。セラは仰向けのまま、目を開けていた。瞬きだけが、やけに遅い。


「……あ、れ」


「喋るな」


「……手が」


 セラの指は、動いていなかった。開いたままの形で、固まっている。


「アウロラ」


 ノクスが言った。


「連れて出ろ」


「はい」


 アウロラがセラを抱え上げ、赤い霧の側へ戻っていった。ノクスは、それを最後まで見届けた。


「……第五世代で三歩か」


「セラより幼い子は、一歩も入れないかもしれません」


 ステラが言った。


「そうだろうな」


 ノクスは、そこからさらに進んだ。


 二十歩。五十歩。


 黒が、濃くなる。濃くなるという言い方は、正確ではなかった。色は変わらない。変わるのは、こちら側だった。


 八十歩を越えたあたりで、ノクスは足を止めた。止めたのではない。止まった。


「ノクス様」


 ステラの声が、後ろから聞こえた。遠かった。実際には、すぐ後ろにいる。


「……戻れ」


「ノクス様」


「ここから先は、違う」


 ノクスの膝が、地についた。


 外側では、身体が重いだけだった。ここでは、動こうとする気持ちのほうが先に薄くなる。力が入らないのではない。入れようと、思えなくなる。


 ノクスは、自分が今なぜここにいるのかを、一度忘れた。思い出すのに、しばらくかかった。その「しばらく」が、どれくらいだったのかも分からなかった。


「ノクス様」


 ステラが腕を掴んでいた。ステラ自身も、四つん這いになっている。


「戻ります。立ってください」


「……ああ」


 二人は、互いを引きずるようにして外側へ戻った。


 立ち上がったとき、ノクスは一人足りないことに気づいた。


「ヴェルガは」


 ステラが顔を上げて、黒の奥を見た。


 灰に近い銀の髪が、まだ前へ進んでいた。


  ※


 ヴェルガは、歩けていた。


 身体は重い。呼吸も浅い。だが、ノクスが膝をついた場所を過ぎても、膝はつかなかった。


 半分だ、と彼女は思った。身体の半分だけが押し潰されていて、残りの半分には何も来ていない。なぜなのかは、分からなかった。


 動ける。ただ、力は半分しか出ない。腕は上がるが、遅い。肘から先の鱗も、いつもの半分ほどしか浮かなかった。


 それでも、ここで動ける者が自分しかいない以上、確かめるのは自分の役目だった。


 黒の中に、影があった。向こうから来ていた。


 大きい。二メートル近い巨体が、黒い鎧を鳴らしながら歩いてくる。重装ではない。腕と首元に、古い傷が幾筋も走っている。髪は短く刈られ、片目に傷があった。背に、大剣。


 男は、ヴェルガの前で足を止めた。そして、少し驚いたような顔をした。


「この中で、普通に歩けるのか」


 ヴェルガは答えなかった。男は、ヴェルガの腕を見た。鱗を見ていた。


「その鱗。お前、龍の血を引いているのか」


「……」


「道理で、ここまで歩けるわけだ。龍族には、主の魔域が通じん」


 男は、わずかに笑った。


「久しいな。俺は、餓鬼の頃に一度だけ見た」


「……何を」


「龍族の男だ。お前と同じ鱗の腕をしていた」


 男は、そこで少し黙った。


「俺のいた軍でいちばん強かった将が、その男と一対一でやった。いくらも、もたなかった。男は、倒れた将に『立て』と言った。立てんと分かると、とどめも刺さずに背を向けた」


 男は、自分の掌を見た。


「あれより上のものを、俺はいまだに見ていない」


 ヴェルガは、初めて男の顔を見返した。


「バルガス」


 男は名乗った。


「魔王軍、第一将軍」


  ※


 最初の一合で、ヴェルガの右腕が痺れた。


 受けたのではない。受け損ねた。いつもの速さで動いていれば、当たらない位置だった。


 二合目は、腕の鱗で受けた。鱗が割れた。


 その次に、鎧の膝が脇腹へ入った。ヴェルガは、膝をついた。


「立て」


 バルガスは、追撃しなかった。大剣を肩に担いだまま、待っている。


「まだ終わっていない」


 ヴェルガは立った。立って、踏み込んだ。


 踏み込みが、半歩足りなかった。その半歩が、すべてだった。


 地面に倒れたまま、ヴェルガは動けなかった。バルガスが、上から見下ろしている。


「……それがお前の全力か?」


「……」


「違うな」


 男は、大剣を背に戻した。


「歩けるのは、龍の血のおかげだ。だが、残りの半分は潰されている。重いのだろう」


 ヴェルガは、答えなかった。


「これは俺の主が張ったものだ。俺のものではない」


 バルガスは、頭の上の黒を一度見上げた。


「この中でお前を殺しても、俺が勝ったことにはならん」


「……殺せ」


 ヴェルガは言った。声が、掠れていた。


「殺せ。今、ここで」


「断る」


 男は背を向けた。


「俺は、何の枷もないお前とやりたい。退け。今のお前を殺してもつまらん」


「バルガス」


 男は、振り返らなかった。


「次は、黒の外でだ。全力で来い」


 黒の中に、影が消えた。


  ※


 ヴェルガの背は、すぐに黒に紛れた。ノクスたちのいる場所から、奥は見えなかった。


 鋼の打ち合う音だけが、何度か届いた。それから、止んだ。


 しばらくして、黒の奥からヴェルガが出てきた。


 自分の足で歩いていた。外側まで戻ったところで、その膝が折れた。ステラとアウロラが駆け寄り、両側から肩を貸した。


 赤い霧の側に着くまで、誰も口を開かなかった。


 ヴェルガは、地面に座り込んだまま動かなかった。縦に裂けた瞳孔が、開いたまま動かない。


「ヴェルガ」


 ノクスが呼んだ。


「……」


「聞こえるか」


「……聞こえます」


「中に、何がいた」


「魔王軍の将です。バルガスと名乗りました」


 ヴェルガは、そこで一度目を閉じた。


「……剣は、見えておりました。避けようとしました」


「そうか」


「身体が、間に合いませんでした」


 それきり、ヴェルガは口を閉じた。なぜ生きて戻れたのかは、言わなかった。


 誰も、聞かなかった。


 一族で二番目に強い女が、負けたのだった。しかも、殺されなかった。それが、この女にとって何を意味するのかを、その場の全員が分かっていた。


  ※


 里へ戻る道で、ノクスが口を開いた。


「あの黒は、二つに分かれている」


「二つ、とは」


 ステラが聞いた。


「外側と、その内側だ」


 ノクスは指を二本立てた。


「外側は、重いだけだ。我ら四人なら動ける。里の者の多くは、そこで倒れる」


「セラが三歩でした」


「そうだ」


 ノクスは指を一本折った。


「内側は、駄目だ。私は膝をついた。お前もだ」


「……はい」


「動けなくなるだけならいい。意識が保てん。あそこにいると、自分がなぜ来たのかを忘れる」


 ステラが、黙って頷いた。


「そして、あの黒の真ん中に、あれを張っている本人がいる」


 ノクスは、一度だけ後ろを振り返った。


「魔王だ。名を、ゼノアという」


「……ご存じなのですか」


「あれは、前にもあった」


 ステラが顔を上げた。


「前、と申しますと」


「百五十年前だ」


「……聞いておりません」


「言う必要がなかった」


 ノクスは、後ろの黒い壁を親指で示した。


「効かなかったからだ」


  ※


「あのとき、あの男は一人で里の外れまで来た」


 ノクスは、歩きながら話した。


「あの場にいたのは、真祖様と私だけだ。お前たちは里にいた」


「……はい」


「魔王は、黒いものを広げた。今より薄い。広くもなかった。ただ重いだけのものだった」


「重いだけ」


「私は足が重くなった。だが歩けた。何も、忘れはしなかった」


 ノクスは、自分の手を見た。


「そして、真祖様には——最初から、届いていなかった」


 ステラが、足を止めかけた。


「まるで、そこに何もないように歩いておられた」


「……」


「魔王が先に撃った。真祖様の身体が裂けた。次に見たときには、塞がっていた」


 ノクスは、そこで言葉を切った。


「真祖様が、一つ返された。それで終わりだ。あの男は、木を何本も折って飛んでいった」


「死んだのですか」


「死にはしなかった。逃げたのだ。北へ、背中を見せてな」


 ノクスは、少し目を伏せた。


「私は、追いますかと申し上げた」


「真祖様は、なんと」


「『逃げたから、もういい』と」


「……それだけ、ですか」


「あの方はそういう方だ」


 ノクスの声には、恨みも懐かしさもなかった。事実を置いただけの声だった。


「追わなかった。追う理由が、あの方にはなかった」


「では、今のあれは」


 ステラが聞いた。


「作り直されている」


 ノクスは、はっきり言った。


「あのときは、どこまで行っても重いだけだった。今は、外側と内側で別のものになっている。内側へ入れば、そこから先へは進めん。あのときのあれに、そんな境はなかった」


 ノクスの声が、初めて硬くなった。


「あのとき、真祖様は何も感じておられぬようだった」


 ノクスは、そこで足を止めた。


「だが、私は違う」


「……ノクス様が」


「私は、あの男が恐ろしかった」


 ステラが、初めて言葉を失った。


「私では勝てぬかもしれん。あのとき、そう思った」


 ノクスは、また歩き出した。


「ですが、ヴェルガだけは、内側でも動いておりました」


 アウロラが言った。ヴェルガの肩を担いだまま、前を見ている。


「お二人は、膝をつかれたのに」


「ヴェルガ。あの中で、どれだけ動けた」


 ヴェルガは、しばらく答えなかった。


「……半分です」


「半分」


「いつもの半分も、出ておりません。腕は上がります。遅いだけです。鱗も、この程度しか出ません」


 ヴェルガは、自分の右腕を見た。鱗が、いつもの厚さで浮いていない。


「それでも動けた」


「動けただけです」


 ヴェルガは、そこで少し黙った。


「あの男が、申しました。龍族には、あの黒が通じぬと」


 ノクスは、黒い壁のほうを見た。


「……そういうことか」


「ノクス様?」


「龍の血には通じん。我らの血にだけ、深く来る。真祖様に効かなかったものを、ヴァンパイアを潰すものに作り直したのだ」


 ノクスは、前へ向き直った。


「誰のためだと思う」


 誰も答えなかった。答えは、その場の全員が分かっていた。


 ヴェルガが、担がれたまま口を開いた。


「ノクス様」


「なんだ」


「父の一族は、もうおりません」


 ノクスは、答えなかった。


「病だと聞いております」


 ヴェルガは、黒い壁のほうを見ていた。


「……本当かどうかは、存じません」


  ※


 里の広間で、話は堂々巡りになった。


「逃げるべきです」


 ステラが言った。


「二百年、隠れて生きてきました。もう一度やればいい」


「どこへ隠れる」


 ノクスが返した。


「北は魔界だ。東は海。西は死海の森。南は人の国だ」


「……アウロラが、昔」


 ステラが言いかけた。


「言うな」


 ノクスが、遮った。


「なぜです」


「あそこは、住める場所ではない」


「ですが、死なぬのでしょう」


「死にはせぬだろう、とアウロラが言った。それだけだ」


 ノクスは、そこで一度、目を閉じた。


「誰も住んだことがない。力が出ぬかもしれん。傷が塞がらぬかもしれん。分からん、で終わっている話だ」


「ですが今は——」


「分からんものを、里の者に示せるか」


 ステラが、黙った。


 ノクスは、広間の全員を見回した。


「このままなら、里はすべて、あの黒に呑まれる」


 誰も、声を出さなかった。


「呑まれれば、里の者の多くは立てん。そこへ魔族が来る。魔王本人が来るかもしれん。外側でなら、我ら四人は戦える。だが、内側に入られたら、それも終わりだ」


 ノクスは、そこで一度、息を吐いた。


「我らでは、どうすることもできん」


「……真祖様なら」


 ステラが言った。言ってしまってから、口を閉じた。


 ノクスが、ゆっくり顔を向けた。


「探して、なんと言う」


「……」


「五十年前、我らはあの方の骨を砕いた」


「あれは——」


「私が決めた。お前は止めた。それだけの話だ」


 ノクスの声は、責めていなかった。だから、余計に重かった。


「戻ってくださいと、どの口で言う」


 誰も答えなかった。


「……私が、申します」


 ヴェルガだった。壁にもたれ、まだ立てないままの女が言った。


「お前が」


「あのとき、殴ったのは私です」


「ヴェルガ」


「連れて帰ります」


 ヴェルガは、それだけ言った。説明も、言い訳もしなかった。


 だが、探すと言っても、居場所を知る者がいない。五十年、誰も見ていない。


 そのとき、広間の後ろのほうで手が挙がった。


「私、行っていい?」


 銀髪の、小柄な娘だった。半日眠って、ようやく指が動くようになったばかりのセラだった。


「セラ」


 ノクスが言った。


「どこへ行くつもりだ」


「人の街のほう」


 広間が、ざわついた。


「人の国だぞ」


「知ってる。前に行ったことある」


「一人でか」


「うん」


「駄目だ」


 ノクスは、はっきり言った。


「今、人の国は兵を集めている。見つかればどうなるか、分かるだろう」


「見つからないよ」


「セラ」


「なんで駄目なの?」


 セラは、本気で不思議そうな顔をしていた。


「里の外は、お前が思っているような場所ではない」


「……」


「下がれ」


 セラは、何か言いかけた。言わずに、口を閉じた。そして、素直に下がった。


 ノクスは、それで終わったと思った。


  ※


 その夜、セラは里を出た。


 誰にも言わなかった。言えば止められると、分かっていたからだ。


 あの人間のことも、話さなかった。話したところで、ノクス様たちには何のことだか分からない。人間の男が一人と、里の匂いのしない娘が一人。それだけの話だった。


 ただ——


 あのお姉さんは、一人で長く生きている。そういう人なら、何か知っているかもしれない。


 セラは、それだけを思って、二晩走った。


  ※


 その日の王都は、よく晴れていた。


 商業区の外れの宿は、日が落ちると急に静かになる。


 ルナは、窓辺に立っていた。ブレザーの袖が、指の先まで隠している。二度、袖をまくってみた。二度とも、自分で元に戻した。長いままのほうが、落ち着いた。


 卓の上に、姫川が置いていった包みがある。夕方に来て、飯を置いて、少し喋って帰った。包みは、まだ開けていない。


 窓の外に、影が立った。


 音はしなかった。ルナは、驚かなかった。半刻ほど前から、そこにいるのを知っていた。


「……お姉さん」


 窓の縁に、銀の髪が乗った。ルナは、窓を開けた。


「やっと見つけた」


 セラが言った。


「やっぱり、王都にいたんだ。人が多くて、匂い辿るの大変だったんだよ」


「……そう」


「入っていい?」


「……だめ」


「けち」


 セラは、そのまま窓枠に腰かけた。部屋の中には、片足も入れなかった。それが、この娘なりの礼儀らしかった。


「レンは」


「……いない」


「どこ」


「……お城」


「ふうん」


 セラは、少し肩の力を抜いた。


「……よかった」


「……なにが」


「今日、あれじゃないから」


 セラは、両手を振った。


「連れて帰るとか、そういうのじゃないの。ほんとに」


 ルナが黙っていると、セラは膝の上で指を組んだ。


「ねえ、お姉さん」


「……なに」


「真祖様が、どこにいるか知らない?」


 ルナは、答えなかった。


「お姉さん、離れでしょ。一人で長く生きてる人」


「……うん」


「そういう人なら、噂くらい聞いてるかもしれないと思って」


「……」


「どんなことでもいいの。昔どこかで見たとか、誰かがこう言ってたとか」


 ルナは、しばらく黙っていた。


 窓の下では、荷車が通っていく。人が二人、笑いながら歩いていく。


「……知らない」


「……そっか」


 セラは、それ以上聞かなかった。疑いもしなかった。


 この娘は、真祖を伝説としてしか知らない。物語の中にいる誰かを、探しに来ているだけだった。


「北から、黒いのが来てるの」


 セラが言った。


「……黒いの」


「霧。ううん、霧じゃないかも。もっと、こう」


 セラは、手で何かを押すような仕草をした。


「押してくる感じ」


「……」


「里、あれの通り道なの。魔王が来てるんだって。ノクス様が言ってた」


「……まおう」


「うん。ゼノアってやつ」


 ルナは、動かなかった。


「おととい、みんなで見に行った。ノクス様と、ステラ様と、ヴェルガ様と、アウロラ様と、私」


 その名前が並んだとき、ルナの指が、袖の中で少しだけ動いた。セラは気づかなかった。


「四人は、外側なら歩けた。重いって言ってた」


「……そう」


「私は、三歩」


 セラは、足をぶらぶらさせた。


「三歩で、動けなくなった。指も動かなくて」


「……」


「……こわいとも思えなかった」


 セラは、自分の手を見た。開いて、閉じた。


「引きずって連れて帰ってもらったの。半日、寝てた」


 ルナは、何も言えなかった。この娘が、こんな喋り方をするのを、初めて聞いた。


「ヴェルガ様は、もっと奥まで行けたって」


 セラが言った。


「……奥」


「うん。あの人だけ、内側でも動けるみたい」


「……そう」


「でも、中に魔王軍の将軍がいたんだって。すごく強いやつ」


 セラは、少し声を落とした。


「ヴェルガ様、負けたって」


「……」


「なのに、相手が殺さなかったって。なんでなのか、ヴェルガ様は言わないの」


 ルナは、窓枠に置いていた手を握った。力を入れないように、気をつけて握った。


 木は、軋まなかった。


「里ね、小さい子がいるの」


 セラは、また足をぶらぶらさせ始めた。


「私の下に、三人。あの子たち、まだ十年も生きてない」


「……そう」


「行くとこ、まだ決まってないの」


「……決まってない」


「ノクス様が、決められないみたい」


 セラは、足を止めた。


「あの人が決められないの、初めて見た」


「……」


「南は人の国で、西は森で、東は海で。北からは、あれが来てる」


 セラは、北を指した。夜の空に、まだ何も見えなかった。


「……ねえ、お姉さん」


「……なに」


 セラが、こちらを向いた。赤い目が、まっすぐルナを見ていた。


「真祖様なら、平気だと思う?」


 ルナは、答えられなかった。


 息を吸った。吐かなかった。


 窓の下を、また人が通った。誰かが笑った。


「……分からない」


「そっか」


 セラは、頷いた。


「まあ、そうだよね。伝説だもんね」


  ※


 セラが、窓枠から降りた。


「じゃ、行く」


「……どこに」


「まだ探す。人の街のほうは、誰も来たことないから」


「……」


「お姉さん」


「……なに」


「もし真祖様を見かけたら——」


 セラは、そこで一度、言葉を切った。言い方を考えているようだった。考えて、結局、そのまま言った。


「帰ってきてって、伝えて」


 ルナは、返事をしなかった。セラは、それでも気にしなかった。屋根の縁に手をかけて、身体を持ち上げる。


 途中で、一度だけ振り返った。


「お姉さん」


「……なに」


「……ううん」


 セラは、首を振った。


「前に会ったとき、なんか、こわかったから」


「……」


「今日は、こわくなかった」


 銀の髪が、屋根の向こうに消えた。


  ※


 部屋には、ルナだけが残った。


 卓の上の包みは、まだ開いていない。窓は、開いたままだった。


 ルナは、北を見ていた。人の目には、何も見えない。彼女の目にも、まだ何も見えなかった。


 それでも、そこに何があるのかは、分かっていた。


 ゼノア。


 その名前に、覚えはなかった。


 ただ、昔、里の外れまで一人でやって来て、いきなり撃ってきた男がいた。


 だから、払った。殺す気はなかった。向こうが背を向けて、北へ走った。追わなかった。追う理由が、そのときの自分にはなかった。


 顔は、もう思い出せない。脅威だとは、少しも思わなかった。ただ、あの男が黒い霧のようなものを広げていたことだけは、覚えている。


 あの男は、それから長い時間をかけて、あれを作り直したのか。


 娘たちが、潰れるように。


 ——追っておけばよかった。


 五百年生きて、初めてそう思った。


 ヴェルガが負けた。セラは三歩で倒れた。里には、まだ幼い子がいる。


 そして、ノクスが行き先を決められずにいる。


 ——ノクス。


 ——ステラ。


 五十年、一度も呼ばなかった名前を、心の中で呼んだ。誰にも、聞こえなかった。


 あの子たちが今、あの黒の前に立っている。自分のせいで作られたものの前に。


 ルナは、窓を閉めなかった。


 冷たい風が、ブレザーの襟を揺らした。レンの匂いが、少しだけ薄くなっている気がした。


 ——呼ぶまで動くな。


 レンは、そう言った。昨日は、ここにいてくれ、とも言った。


 だから、動かない。迎えに来るまで、ここにいる。


 それは、決めたことだった。


 ルナは、北の空を見ていた。


 ずっと、見ていた。

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