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第25話 約束

 朝、宿の窓から差し込む光で目が覚めた。


 ルナは、すでに起きていた。寝台の端に座って、窓の外を見ている。


「早いな」


「……うん」


「眠れなかったのか」


「……ううん」


 嘘だと思った。俺が寝る前に見たときと、同じ姿勢だった。


「なあ、ルナ。まだ時間はある」


「……うん」


「その間に、何か変わるかもしれねえ」


「……うん」


 全然、信じていない返事だった。


  ※


 階段を駆け上がる音がしたのは、その直後だった。


「黒崎ィ!」


 扉が開いた。


 姫川莉奈が、息を切らして立っていた。髪が乱れて、上着の紐も結んでいない。


「兵! 兵が来てる!」


「どこに」


「施療院! いま囲んでる!」


 俺は立ち上がった。


「白石は」


「中にいる。東雲さんも、朝から来てた。あたし、葵に言われて先に走ってきた」


「捕まってねえのか」


「まだ。……でも」


 姫川が、窓を指した。


「こっちにも来てる」


 窓から外を見た。


 通りの両端が、塞がっていた。槍を持った兵が、十人ずつ。


 その真ん中に、鎧の男が一人立っている。装飾のない、実用一辺倒の鎧だった。


 宿まで、知られていた。昨日、施療院を出たところから尾けられていたのかもしれない。


「……あれ、誰だ」


「騎士団長」


 姫川が、掠れた声で言った。


「ガレスさん」


 俺は、制服を着た。


 この土地の服の下にではなく、その上に。


「ちょ、黒崎、何やって」


「見えたほうがいい」


「見えたら捕まるって!」


「もう囲まれてんだよ」


 袖のボタンを留めながら、考えていた。


 三日、と東雲は言った。王国は、一日で来た。


 誰が言ったかは、考えるまでもない。


 だが、それは今はいい。


 問題は、どう出るかだ。


 逃げれば、施療院にいる連中が「かくまった」ことになる。抵抗すれば、宿の主人まで巻き込む。


 なら、答えは一つしかなかった。


「姫川」


「な、なに」


「お前は裏から出ろ」


「え、」


「見つかる前に、東雲に伝えろ。俺は自分から出たってな」


「黒崎——」


「早くしろ」


 姫川は、しばらく動かなかった。それから、目を擦って走っていった。


  ※


 部屋に、俺とルナが残った。


「ルナ」


「……」


「聞いてくれ」


 ルナは、扉の前に立っていた。


 姫川が出ていった、その扉の前に。俺と、外との間に。


「……行かないで」


「行かなきゃ、みんなが捕まる」


「……関係ない」


「あるだろ」


「……ない」


 ルナは、俺を見上げた。


「私は、レンだけ助けられればいい」


 その言い方に、俺は少し驚いた。


 こいつが、ここまではっきり自分の望みを言うのは、珍しかった。


「……そうか」


「うん」


「でも、俺は違う」


「……」


「あいつらを見捨てたら、俺は俺じゃなくなる」


 ルナは、扉の前から動かなかった。


 一歩も。


「……レン」


「なんだよ」


「……もし」


 ルナが、口を開いた。


「……もし、私が」


 そこで、止まった。


 言いかけて、口を閉じた。


 もう一度開いて、また閉じた。


「なんだよ、はっきり言え」


「…………」


「ルナ」


「…………ううん」


 こいつは、首を振った。


「……なんでもない」


 俺は、少しだけ苛立った。


 こんなときに、と思った。


 だが、それは違うと、すぐに思い直した。


 こいつは、たぶん何かを言おうとした。俺を助ける方法を、必死で探して、それが何もないことに気づいたんだろう。


 そりゃそうだ。


 兵が二十人いる通りで、こいつに何ができる。


「ルナ」


 俺は、しゃがんだ。


 こいつと目の高さを合わせた。


「無理すんな」


「……」


「お前が何かしようとしても、あれは相手が悪い。騎士団長だぞ」


「…………」


「頼むから、下がってろ」


 ルナは、俺を見ていた。


 赤い目が、まばたきをしなかった。


 やがて、俯いた。


「……うん」


 小さな「うん」だった。


  ※


「なあ、ルナ」


「……なに」


「一つだけ、頼みがある」


「……なに」


「待っててくれ」


「……いや」


「最後まで聞け」


「森で、お前が俺の名前を呼んで、止めてくれただろ」


「……うん」


「今度は、俺が呼ぶ番だ」


 ルナが、顔を上げた。


「……よぶ」


「そうだ」


 俺は、なるべく軽い調子で言った。


「俺が呼ぶまで、絶対に動くな」


「…………」


「お前が飛び出してきたら、俺が困る。分かるか」


「……うん」


「呼ぶまでは、ここでじっとしてろ」


「……どうやって、呼ぶの」


「迎えに来る。俺が来られなかったら、誰かを寄越す」


「……来なかったら」


「必ず来る」


 ルナは、しばらく俺を見ていた。


 それから、はっきりと言った。


「……約束」


「約束だ」


「……ぜったい」


「絶対だ」


 ルナは、自分が羽織っているブレザーの袖口を握った。


 俺のブレザーだ。外では外套の下に隠しているが、宿の中では、いつもこれを着ている。


「……分かった」


 そして、扉の前から一歩どいた。


  ※


 俺は、宿の階段を下りた。


 外に出ると、朝の光がまぶしかった。


 通りの真ん中に、鎧の男が立っていた。


 左の頬から顎に、古い傷が走っている。灰色の混じった短髪。四十代半ば。


 装飾のない鎧。柄の擦り切れた剣。


「黒崎蓮殿ですね」


「……そうだ」


「騎士団長、ガレス・ヴァンダールです」


 男は名乗ってから、少しだけ間を置いた。


「同行を願います」


「断ったら」


「連行します」


「抵抗したら」


「私が斬ります」


 迷いのない答えだった。


「……分かりやすいな」


「そのほうが、双方に損がありません」


 俺は、両手を上げた。


「一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「施療院の連中は」


 ガレスは、俺の目を見た。


「囲んでおりますが、手は出しておりません」


「なんでだ」


「命令が、あなただけだからです」


「……そうか」


「はい」


「じゃあ、俺が行けば、あいつらは」


「解散させます」


「約束できるか」


 ガレスは、少し黙った。


「約束はできません」


「おい」


「私は、そういうことを軽々しく言わないことにしております」


 ……なるほど。


 この人は、たぶん本物だ。


「ですが」


 ガレスは続けた。


「私の権限の範囲では、そういたします」


「それで十分だ」


 兵が近づいてきた。縄を持っている。


「団長。拘束を」


 ガレスは、俺の格好を見た。


 泥と血の染みた、この世界にはない仕立ての服を。


「いりません」


「しかし」


「この方は、自分から出てこられた」


 ガレスは、縄を押し返した。


「縄をかけるのは、逃げた者に対してです」


 俺は、そのとき初めて、この男の顔をちゃんと見た。


 ひどく疲れた顔をしていた。


  ※


 歩き出す直前、俺は一度だけ振り返った。


 宿の二階の窓に、小さな影があった。


 俺は、手を上げなかった。


 上げたら、こいつは飛び出してくる。兵の前に出てきて、怪我でもされたら困る。


  ※


——ルナ Side——


 私は、言えなかった。


 「私が全部消せる」と。


 喉まで出かかって、飲み込んだ。


 言えば、レンは私が何なのか知る。


 知ったら、あの目が変わる。


 ……いつも、そこで止まる。


 五百年かけて持った力を、私はレンの前で使わずにきた。


 使えば、レンの役に立てる。


 使わないのは、レンに嫌われたくないからだ。


 だから、私は今日、何も差し出せなかった。


 レンは、しゃがんで、私と目の高さを合わせて、こう言った。


 ——無理すんな。


 ——お前が何かしようとしても、あれは相手が悪い。


 ——頼むから、下がってろ。


 あの騎士団長も、通りの二十人も、城の千人も。


 私なら、一呼吸のうちに消せる。


 なのに、レンは私に「下がってろ」と言った。


 ……それは、私が望んだ言葉だった。


 森で、初めて誰かに守られた日。


 もう一度守ってほしくて、私は弱いふりを始めた。


 「こわい」と言った。


 言うたびに、レンは前に立ってくれた。


 温かかった。うれしかった。


  ※


 今日、その温かいものが、私の手を縛った。


 私は、弱い女の子だ。


 この二ヶ月、そういうことにしてきた。


 だから今日、弱い女の子として、何もできずに窓から見送るしかなかった。


 ……自分で選んだ檻だ。


 レンは、手を上げなかった。


 振り返って、私を見て、それでも上げなかった。


 ……分かっている。


 私が飛び出さないように、そうしたのだ。


 ——俺が呼ぶまで、絶対に動くな。


 私を心配して、レンはそう言った。


 必ず呼びに来るって、約束してくれた。


 だから私は、待つ。


 窓の前で、動かずに。


 階段を上がってくる足音に、耳を澄まして。


 レンが、私を呼びに来るまで。


 ……ただ、一つだけ。


 もしレンが、呼ぶ前に死んだら。


 そのときは、約束もなくなる。


 ……私は、誰も許さない。

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