幕間④ 帳簿
王城の執務室には、蝋燭が数本立っている。
多くはない。宰相バルドは、明かりを増やすことを好まなかった。
書類が読める分だけあればいい、というのが彼の言い分だった。
実際、彼はそれで足りていた。
机の上に、書類が積まれている。
右の山が未決。左が既決。
夜が更けるにつれ、右が減り、左が増えていく。
補佐官は、とうに下がらせていた。
この男は、自分の目を通していないものに印を押さない。
宰相になってから、それを変えたことがない。
※
扉が叩かれた。
「宰相殿。神崎です」
バルドは、書きかけの一行を書き終えてから、顔を上げた。
「どうぞ」
勇者が入ってきた。
式典の装束ではない。訓練用の軽装のままだった。
髪が乱れている。急いで来たのだろう。
「夜分に失礼します」
「構いません。お座りください」
「いえ、立ったままで」
バルドは、羽ペンを置いた。
そして、待った。
この男は、相手が話し始めるまで、決して促さない。
沈黙を苦にしないからだ。
神崎蓮司は、何度か口を開きかけて、閉じた。
※
「……黒崎が」
「はい」
「黒崎蓮が、生きています」
バルドの表情は、変わらなかった。
「なるほど」
「なるほど、って」
「続けてください」
神崎は、少し早口になった。
「今日、練兵場に来ました。俺が見ました」
「話されましたか」
「話しました。施療院にいます。白石が使ってる、大聖堂の裏の」
「他にどなたが」
「……全員です。柊以外は」
バルドは、指を折らなかった。
数えるまでもなかったからだ。
「あなたと柊殿を除く、七名ですね」
「……そうです」
神崎の顎に、力が入った。
「俺だけ、呼ばれてませんでした」
「そうでしょうな」
「……は?」
バルドは、机の上で指を組んだ。
「あなたは、こうして報告に来られた」
「……」
「彼らの判断は、正しかったということです」
神崎は、何も言えなかった。
「気を悪くなさらぬよう」
バルドは続けた。
「私は、あなたを責めておりません。むしろ逆です」
「……逆」
「報告は、正しい行いです」
その言葉に、神崎の肩から力が抜けた。
「……ですよね」
「はい」
「俺、間違ってないですよね」
「規則の通りです」
神崎は、その返事の意味を、たぶん考えなかった。
「で、黒崎は」
「はい」
「どうなるんですか」
バルドは、少しだけ首を傾けた。
「陛下がお決めになります」
「いや、でも」
「私は、事実をお伝えするだけです」
「殺すんですか」
神崎は、そう聞いた。
自分でも、なぜそれを聞いたのか分かっていない顔だった。
「さて」
バルドは、羽ペンを取った。
「私には、分かりかねます」
「……あの」
「まだ何か」
「一つ、報告し忘れました」
神崎は、少し言い淀んだ。
※
「あいつ、連れがいます」
バルドの羽ペンが、止まった。
「……連れ」
「女です。黒い髪の」
「王都の者ですか」
「違うと思います。外套をかぶってて、顔はよく見えませんでした」
「歳の頃は」
「俺たちと同じくらい……たぶん」
「どこで会ったと」
「それは、聞いてません」
バルドは、羽ペンを置いた。
今度は、静かに置いた。
黒崎蓮を置いてきたのは、死海の森だった。
あの森から、生きて出てきた男の、連れ。
執務室が、静かになった。
蝋燭の芯が、小さく鳴った。
「……そうですか」
「あの、宰相殿」
「なんでしょう」
「何か、まずいことでも」
バルドの口の端が、わずかに上がった。
「いいえ」
「ご報告、感謝いたします。神崎殿」
「大変、有益でした」
※
神崎蓮司が退出したあと、バルドはしばらく動かなかった。
やがて、立ち上がった。
書架の一番下、鍵のかかる引き出しを開けた。
出てきたのは、革表紙の帳簿だった。
薄い帳簿だった。そのわりに、角が擦り切れている。何度も開いた跡があった。
彼は、それを机に置いて、開いた。
※
書いてあるのは、召喚された者の名前だけだった。
一行に一人。
名前と、職業と、日付。
几帳面な字だった。
新しいほうの頁を開く。
三十四行。
そのうち十二に、線が引かれている。
三浦亮太——五十三日目。
バルドの目は、別の行で止まった。
黒崎蓮。
【バーサーカー】。
その名前にも、線が引かれていた。
二ヶ月前に、彼自身の手で引いたものだった。
バルドは、引き出しから小刀を取り出した。
※
そして——線を、削り落とした。
紙の表面が、白く毛羽立った。
名前だけが、残った。
彼は、その頁をしばらく見ていた。
それから、一枚、めくり戻した。
※
二十四行。
二十三行には、線が引かれていた。
最後の一行だけ、線が引かれていない。
バルドは、その一行をしばらく見つめていた。
※
彼は帳簿を閉じた。
鍵をかけ、引き出しに戻し、机に向き直った。
右の山から、次の書類を取った。
その手は、震えていなかった。
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