第21話 傘
坂の下が、ざわついた。
白い装束が、上がってくる。物好きで坂に残っていた連中が、一斉に道を空けた。何人かは、その場に膝をついた。
「聖女様だ……」
「おい、頭を下げろ」
「聖女様が、なんでこんなとこに」
※
白石美咲が、坂を上がってきた。
走ってはいなかった。ゆっくりで、静かで、まっすぐだった。式典で階段を上がっていたときと、同じ歩き方だった。
白石は、俺の前で止まった。大我が、俺の肩から手を離した。東雲も、半歩下がった。
「…………」
「…………」
白石は、何も言わなかった。俺も、言えなかった。こうして向き合うのは、二ヶ月と少しぶりだった。
白石は、変わっていなかった。
いや——変わっていた。少し、痩せていた。佐伯とは違う痩せ方だった。あいつは頬がこけていたが、こいつは手首が前より細く見えた。顔だけが、あの日と同じだった。
「……よお」
俺は言った。他に、何も出てこなかった。
白石は答えずに、しばらく俺の顔を見ていた。それから、目がゆっくりと動いた。顔から首へ、首から肩へ、腕へ、手へ。数えるみたいに、一つずつ見ていた。
……ああ。こいつ、怪我がないか確かめてるのか。
聖女の癖だ。二ヶ月でついた癖だ。
「……白石」
「……」
「俺、生きてるぞ」
その一言で、白石の顔が崩れた。目が、みるみる濡れていった。
「……よかった」
声が、ほとんど出ていなかった。
「……生きてて、よかった」
白石は、何度も頷いた。頷くたびに、涙が落ちた。その手が、俺の袖のほうへ伸びかけて、途中で止まった。
「…………傘」
「え?」
「……傘」
「傘って、お前」
言いかけて、俺は止まった。
あの日。広間で、騎士に腕を掴まれて、引きずられていくとき。こいつは手を伸ばして、叫んでいた。
——傘! 私、まだ返してない!
あのときは、何のことか分からなかった。でも、今は。
……傘。
去年の秋。雨の日。昇降口。
傘立ての前で、立ち尽くしていた誰かがいた。俺は自分の傘を押しつけて、そのまま雨の中へ走った。顔は見なかった。見たら気まずくなる気がして、振り返らなかった。
覚えているのは、背中を叩く雨の冷たさと、傘を受け取ったときの小さな「あ」という声だけだ。
「……あれ」
俺は言った。
「あれ、お前だったのか」
白石が、頷いた。
「……いや、待て。待ってくれ」
俺は、頭を掻いた。
「あんなの、一瞬だっただろ。俺、名乗ってもねえし」
「……うん」
「それから召喚されるまで、傘の話なんか一度もしなかっただろ」
「……うん」
「じゃあ、なんで」
白石は、口を開いた。声が、震えていた。
「……あの日、私、五分くらい立ってた。昇降口で。傘立ての前で」
白石は、自分の手を見ていた。
「人が、たくさん通った。みんな、私に挨拶してくれた。また明日、とか」
「……」
「でも、誰も気づかなかった。私が困ってるって。誰も、止まらなかった」
白石は、そこで少し間を置いた。
「白石さんは、大丈夫だから」
自分の声じゃない言い方だった。誰かの真似みたいな。
「白石さんは、いつも誰かと一緒だから。白石さんは、困ってないから。……みんな、そう思ってる」
白石は、顔を上げた。
「だから、誰も見ない。……蓮くんだけが、見てくれた」
俺は、何も言えなかった。
「傘、持ってる。あの日から、ずっと。返せなかったから」
「……」
「返したら、終わっちゃうと思って」
声が、そこで途切れた。
「……ずるいよね、私。返さなきゃって思いながら、部屋の机の奥に入れたままにしてた」
白石は、笑おうとした。うまく笑えていなかった。
「……で、召喚されて」
「……ああ」
「あの傘、私の部屋にあるの。もう、帰れないかもしれない部屋に」
白石は、俺を見た。
「だから、叫んだの。返してないのに、死んだら許さないって」
俺は、しばらく黙っていた。黙ってから、言った。
「……返せよ」
「え」
「帰ったら、返せ」
白石が、両手で顔を覆った。そのまま、しゃがみ込んだ。肩が、震えていた。声を殺して、泣いていた。
周りで、坂の連中が「聖女様が」「どうされた」と騒いでいた。東雲が振り返って、一言で黙らせた。
俺は、しゃがんだままの白石の前に立っていた。こういうとき、どうするのが正解なのか、俺には分からなかった。結局、頭に手を置いた。
白石は、しばらくそのままだった。やがて、顔を上げた。
「……ごめん」
「いいよ」
「……取り乱しちゃった」
「知ってる」
「……見ないで」
「もう見た」
白石が、少しだけ笑った。今度は、ちゃんと笑えていた。
※
立ち上がった白石が、袖で目を拭った。そして、顔を上げたところで、止まった。
「……白石?」
返事がなかった。白石は、俺の後ろを見ていた。
坂の上の、人の陰。外套をかぶった小さな影が、そこに立っていた。
白石の顔から、色が抜けた。さっき泣いていたときとは、まったく違う顔だった。目が大きく開いて、呼吸が止まっている。
そして、白石の右手が持ち上がった。
考えてやったんじゃない、と分かった。剣を抜くのと同じだ。身体が先に動いた。その掌の先が、白く光り始めた。
俺は、半歩、横に出た。
考えていなかった。その手が何なのかも、何が起きているのかも分からなかった。ただ、あの光がルナのほうを向いていて、俺の足が勝手に間に入った。
白石が、俺を見た。光が消えて、手が下りた。
「……蓮くん」
「……なんだよ」
「……その人」
俺は、返事に困った。何と言えばいい。森で会った。血を吸われた。守った。一緒に来た。どれも、この場で言える話じゃなかった。
「……連れだ」
結局、それしか言えなかった。
「大事な連れだ」
白石は、俺の顔をじっと見ていた。それから、目がゆっくりと動いた。俺の顔から、俺の足元へ。俺が半歩横に出た、その足へ。
白石は、しばらく動かなかった。やがて、両手を前で組んだ。いつもの、聖女の立ち方に戻った。
「……うん。分かった」
それだけだった。
「……何も聞かないのか」
「うん」
「いいのかよ」
白石は、少しだけ首を傾けた。そして、あの日と同じ顔で笑った。教室で、神崎の話を困ったように聞いていたときの顔だ。
「蓮くんが大事なら、それでいいよ」
※
東雲が、俺の横に来た。
「黒崎くん」
「おう」
「移動する。人が集まりすぎた」
振り返ると、坂のまわりに人だかりができていた。練兵場のほうからも、兵が何人か歩いてくる。その前を、水城が上がってきた。落とした弓を、ちゃんと拾ってきていた。
「白石さんがいると、目立つ」
「……悪い。俺のせいだな」
「謝るのは、あとで聞く」
東雲は、もう歩き出していた。
「私が先に行く。鬼塚くん、盾をお願い。水城さん、九条さんたちに伝えてくれる?」
「分かった」
水城は、それだけ言って坂を下りていった。大我も、舌打ちを一つして塀のほうへ走っていった。
……東雲の奴、段取りが早すぎる。二ヶ月で、何をやってきたんだ。
俺たちは、人垣を抜けて歩き出した。ルナが、無言で俺の後ろについた。通り過ぎるとき、白石が一度だけ、彼女のほうを見た。ルナは、目を合わせなかった。
※
少し行ったところで、俺は一度だけ振り返った。
塀の向こう、練兵場の中。訓練は、とっくに止まっていた。白い装束の男が、一人だけ離れて立っていた。
神崎蓮司は、動かなかった。こちらを、じっと見ていた。距離が遠くて、表情は見えなかった。
※
——ルナ Side——
あの子の手の先に、光があった。二百年前と、同じ光だった。
あのとき、私は自分から光の前に立った。消えてもいいと思っていたから。
今日は、ちがった。足が、動かなかった。こわかった。消えたくなかった。
そのとき、レンが半歩、横に出た。私と、光のあいだに。
レンは、何も分かっていなかった。あの光が何なのかも、あの子が何をしようとしたのかも、私が何なのかも。何も分からないまま、足だけが動いていた。
それで、あの子の手が下りた。
……路地のときとは、ちがう。あのとき、止まったのは私のほうだった。今日、レンは本当に、私を守った。
これまで、誰かの前に立つのは、いつも私のほうだった。
……うれしかった。
まだ、指が震えているのに。こわかったのに。うれしかった。
※
あの子は、私が何であるか分かっている。分かっていて、黙った。
「蓮くんが大事なら、それでいいよ」
傘の話を、私は後ろで全部聞いていた。耳がいいから。
長いあいだ、誰も止まらなかった。一人だけ、止まった。
……私も、そうだった。結界を、誰も叩かなかった。一人だけ、叩いた。
あの子も私も、同じ人に見つけてもらった。だから、分かる。
あの子は、レンのために手を下ろした。路地で、私がレンのためにあの男を消さなかったのと、同じだ。
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