第20話 生きて
三日後の朝、俺は荷物の底から包みを出した。
制服だった。
洗っても落ちない染みがある。縫った跡が七箇所。裾は、森でルナの手に巻くのに破いた。
俺はそれを着た。
上から、この土地の服と外套をかぶった。
鏡はないが、たぶん外からは分からない。
「……レン」
ルナが、寝台の上から見ていた。
「なんだよ」
「……下、着てる」
「……ああ」
「……見せに行くの?」
俺は、外套の襟を直した。
「……分かんね」
自分で着ておいて、見せる気があるのかどうか分からなかった。
「そろそろ行くわ」
「……うん」
「お前は——」
「……行く」
「危ねえって」
「……行く」
結局、二人で出た。
※
練兵場は、城の裏手にあった。
石を積んだ低い塀で囲まれた、だだっ広い土の広場だ。
塀の外は緩い坂になっていて、そこから中が見下ろせた。
同じことを考えた連中が、他にもいた。
勇者様を一目見ようという物好きが、坂の上に何人か座っている。
俺たちは、その端に座った。
中では、兵が動いていた。
列を組んで、槍を突いて、走って、また列を組む。
その手前に、別の一団がいた。
……いた。
大我だ。
大盾を構えて、突進してくる兵を受け止めている。
三人がかりだ。
あいつは、一歩も動かなかった。
あの日、騎士に押さえ込まれて、動くことすらできなかった男が。
その隣で、東雲が組手をしていた。
相手は騎士だ。鎧を着て、木剣を持っている。
東雲は素手だった。
何合もしないうちに、騎士が地面に転がった。
交代した騎士も、同じだった。
少し奥では、ほかの連中が動いていた。盾を据えている奴、地面に何か書いている奴、塀の上から矢を放っている奴。
号令をかける者はいない。それぞれが、勝手に相手を捕まえて動いている。
みんなから離れたところに、白い装束の男がいた。
神崎だ。
あいつだけ、誰とも組んでいなかった。
剣を出して、素振りだけをしている。
周りに騎士が数人いて、何か言うたびに頷いていた。
——前に出ねえからだ。
柊の言葉が、そのまま目の前にあった。
※
俺は、坂の上に座ったまま、それを見ていた。
どれくらい見ていたのか、分からない。
周りの物好きは、入れ替わっていった。
昼を過ぎて、日が傾き始めても、俺はまだそこにいた。
「……レン」
「んー」
「……行かないの」
「……」
行かない、じゃない。
行けない。
塀を越えて、走って、名前を呼べばいい。
それだけだ。
だが、そのあとどうなる。
兵がいる。騎士がいる。俺は、いないことになっている。
あいつらが俺を庇えば、あいつらが困る。
……いや。
違う。
そんなのは、後付けだ。
俺が動けない理由は、もっと単純だった。
……こわいんだ。
あいつらは、強くなった。
王国の英雄になって、名前を呼ばれて、旗を掲げられて、群衆に拝まれている。
俺は、森で狼を殺していた。
塩をかけた肉で泣いていた。
首刈りのザガンに、一合で吹き飛ばされた。
……釣り合ってない。
今更どの面を下げて、あいつらの前に立つ。
「……レン」
「なんだよ」
「……見られてる」
俺は、顔を上げた。
塀の上に、水城葵が立っていた。
二百歩は離れている。
弓を下げたまま、こちらを見ていた。
……いや。
「こちら」じゃない。
俺を見ていた。
俺は、動けなかった。
水城は、動かなかった。
坂の上には十人以上いる。外套をかぶった男なんて何人もいる。
なのに、あいつは俺だけを見ていた。
どれくらいそうしていたのか。
やがて、水城が片手を上げた。
振ったわけじゃない。
ただ、上げた。
……ああ。
俺は、笑ってしまった。
あいつらしいな、と思った。
※
俺は立ち上がった。
外套の紐を、解いた。
風が入った。
この土地の上着を脱いだ。
下から出てきたのは、白いシャツだった。
染みだらけで、七箇所縫ってあって、裾が破れている。
それでも、この世界で俺たちしか着ていない仕立てだった。
水城の弓が、地面に落ちた。
※
それから、あいつは叫んだ。
俺は、水城葵が大声を出すのを、初めて聞いた。
「——鬼塚ァ!」
※
練兵場が、止まった。
大我が、盾を構えたまま振り返った。
水城が、こっちを指していた。
大我が、坂を見た。
※
目が、合った。
※
盾が、落ちた。
※
あいつは、走り出した。
塀に向かって、まっすぐに。
石の塀を、手もつかずに跳び越えた。
着地して、また走った。
坂を、駆け上がってきた。
俺は、そこに立っていた。
動けなかった。
言うことは、山ほど考えてきたはずだった。
「生きてたぞ」とか。
「心配かけたな」とか。
「お前、でかくなったな」とか。
何も、出てこなかった。
大我が、目の前に来た。
肩を掴まれた。
揺すられた。
「——てめ、」
「てめえ、」
「てめえっ……!」
それ以上、言葉にならなかった。
俺の肩を掴んだまま、あいつは俯いた。
でかい肩が、震えていた。
「……悪い」
俺は言った。
やっと出た言葉が、それだった。
「……遅くなった」
「馬鹿野郎」
大我が、額をぶつけてきた。
痛かった。
「馬鹿野郎……! 馬鹿野郎……!」
「痛えって」
「うるせえ!」
「痛えって言ってんだろ!」
「うるせえ! うるせえ!」
二人とも、まともに喋れていなかった。
周りで、坂の上の連中がざわついていた。
構っていられなかった。
※
足音が、もう一つ来た。
速い。
顔を上げると、東雲千尋が坂を上がりきったところだった。
息が上がっていない。
あいつは、俺の前で立ち止まった。
そして、しばらく動かなかった。
東雲は、いつも背筋が伸びている。
道場で育った、ときちんと分かる立ち方をしている。
その姿勢が、崩れていた。
「……黒崎くん」
「……よお」
「……生きて」
声が、途切れた。
東雲千尋が言い淀むのを、俺は一度しか見たことがない。
あの広間で、「申し訳、ありません」と言ったときだけだ。
「……生きて、いたんですか」
敬語だった。
こいつが同級生に敬語を使うのは、詫びるときだけだ。
「生きてたよ」
俺は言った。
「捨てられたけど、死ななかった」
東雲が、膝をついた。
「おい」
「…………」
「東雲、やめろって」
「…………」
あいつは、地面に手をついていた。
顔は上げなかった。
俺は、しゃがんだ。
「なあ」
「…………」
「頭下げるのはナシだ」
「…………」
「お前、あんとき言っただろ」
東雲の肩が、動いた。
「『私が監督します』って」
「……あれは」
「あの状況で、一番危ねえ役を自分から取りに行ったんだぞ、お前は」
「……十分では、ありません」
東雲が、顔を上げた。
泣いていなかった。
泣いていない顔で、目だけが真っ赤だった。
「私は、一秒迷いました」
「知ってる」
「……え」
「見てたからな」
東雲の目が、開いた。
「暴走するかもしれねえって言われたんだ。迷って当たり前だろ」
俺は言った。
「俺だって、自分が怖かった」
「…………」
「その中で、お前は前に出た」
「…………」
「それで十分だよ」
東雲は、しばらく黙っていた。
やがて、立ち上がった。
背筋が、いつもの位置に戻った。
「……黒崎くん」
「ん」
「必ず迎えに行くって、言った」
「……言ったな」
「行けなかった」
東雲は、目を逸らさなかった。
「お前、あんとき、もう一個言っただろ」
東雲が、瞬きをした。
「絶対に生きてろって」
東雲の目が、揺れた。
「そっちは、守った」
東雲は、初めて笑った。
「……はい」
※
——ルナ Side——
レンが外套を脱いだとき、私は後ろに下がった。坂の上の、人の陰まで。
誰も私を見ていない。
みんな、レンを見ている。
大きな男が走ってきて、レンの肩を掴んだ。
女の子が坂を駆け上がって、膝をついた。
レンが、笑っている。
泣きながら笑っている。
……あの顔は、知らない。
私の前でする顔と、ちがう。
私は、もう少し離れた。
そこから見ていた。
……よかった。
レンには、帰る場所があった。
名前を呼ぶ人がいた。
待っている人がいた。
よかった、と思った。本当に、そう思った。
なのに、胸が痛い。
なんで。
私は、胸を押さえた。
この感じは知っている。
あの銀色の子が、レンの腕を掴んだときと同じだ。
あのときは、渡さないと言えた。
今日は、言えない。
あのときとは、ちがう。
取られるんじゃない。
レンが、もといた場所に戻るだけだ。
そのとき。
背中の産毛が、逆立った。
……光。
練兵場の奥。
建物の陰から、それが出てきた。
白い。
全部、白い。
こちらへ、歩いてくる。
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