第12話 五十年
牙猪を、一撃で仕留めた。
突進してくる頭を横に流して、首の付け根に刃を叩き込む。それだけだ。血抜きの時間のほうが長かった。
「……速い」
ルナが、後ろで言った。
「そうか?」
「……前は、三十秒かかってた」
「覚えてんのかよ、そんなの」
「……覚えてる」
俺は自分の掌を見た。
森に来て、五十日を超えた。
最初は狼一体に殺されかけた。六体を相手にして、暴走したこともある。今は、牙猪なら一撃で終わる。
訓練も続けていた。《狂熱》を上げるところまで上げて、ルナが名前を呼ぶ。あれから、止まれなかったことは一度もない。
……変わった。
数字が出るわけでもないし、誰かが褒めてくれるわけでもない。
ただ、前なら苦戦していた相手を、今は簡単に倒せる。
それが全部だった。
※
「レン」
「んー」
「……肉」
「焼けてるぞ」
「……ううん」
ルナが、串を一本差し出した。
「……レンのぶん」
「俺、自分の焼いてるって」
「……こっち」
「なんでだよ」
「……こっちのほうが、よく焼けてる」
どうやら、俺のと交換したいらしい。
俺は受け取った。ルナは満足そうに、俺の焼いていたほうを取った。
そして、当然のように隣に座った。
肩が触れる。
「……」
「……」
最近、これが普通になっている。
肩が触れるくらい近くに座るのも、肉を交換するのも、いつの間にか当たり前になった。
なのに、ときどき変に意識する。
さっきまで何ともなかった肩が、急に近く感じる。横を向けば、すぐそこにルナの顔がある。
そうなると、心臓が少しだけ速くなる。
俺は、何でもないふりをして火を見た。
「……レン」
「な、なんだよ」
「……顔、赤い」
「火が近いんだよ」
「……そう」
ルナが、こてんと首を傾げた。
こいつは本気で分かっていない。分かっていないから、平気で距離を詰めてくる。
……たちが悪い。
※
その声がしたのは、翌日の昼だった。
「やっほー!」
俺は反射的に剣を抜いた。
木の上——ではなく、今回はずいぶん離れた地面に、銀色の髪が立っていた。
三十メートルはある。
「セラ」
「うん、セラだよ。覚えててくれた?」
にこにこと手を振っている。
だが、近づいてこない。
前回は跳ねるように距離を詰めてきたのに、今日は明らかに一線を引いていた。
ルナが、俺の少し前に出た。
「……帰って」
「えー、まだ何もしてないよ」
「……帰って」
「お姉さん、こわいなあ」
セラは肩をすくめた。
それから、両手を挙げた。
「敵意なし。ほんとに。今日は喧嘩しに来たんじゃないの」
「……」
「あのさ」
セラは、何かを取り出した。
布の包みだった。
「これ、あげる」
セラが包みを放った。
布の塊が地面を転がって、俺たちの少し手前で止まった。
ルナがしばらく見ていた。
何も起きない。
俺はそれを拾った。
※
包みの中身は、四つあった。
干し肉。
小さな鍋。
火打ち石。
そして——布の袋。
「なんだこれ」
俺は袋を開けた。
白い粒が入っていた。
指につけて、舐める。
——脳が、痺れた。
「……塩」
「うん、塩」
「塩だ」
「だから塩だって」
俺はしばらく、その袋を握ったまま動けなかった。
五十日。
五十日間、味のない肉を食っていた。焼いて、噛んで、飲み込む。それだけの行為を一日二回。
塩。
「……なんで」
「え?」
「なんでこんなもん持ってきた」
「だってレン、人間でしょ」
セラは当たり前みたいに言った。
「人間って、塩がないと死んじゃうんだよね? あと、火とか、鍋とか。ないと不便でしょ」
「…………」
「連れてった男の人には、ちゃんとご飯出すよ。うちら」
……ああ。
その一言で、頭が冷えた。
こいつは俺を「飼う」つもりで来ている。
悪気なんて一つもない顔で。
※
「返す」
俺は袋を置いた。
「えー、なんで」
「もらう理由がねえ」
「困ってるでしょ?」
「困ってる」
「じゃあもらえばいいじゃん」
「もらったら、お前んとこ行くことになるだろ」
セラは、きょとんとした。
「……ならないよ?」
「は?」
「あげるだけだもん。交換じゃないよ」
俺は言葉に詰まった。
「私、レンのこと欲しいけど、お姉さんが怖いし。今は無理だと思ってる」
セラはあっけらかんと言った。
「でも、レンが飢え死にしたら意味ないじゃん。だから置いてくの」
「…………」
「欲しいものは、大事にするよ。当たり前でしょ」
……物として大事にされている。
こいつの中で、俺は最後まで「もの」だ。
それでも。
この森で、俺に何かをくれたやつは、こいつが初めてだった。
※
「……あのさ」
俺は塩の袋を、結局手に持ったまま聞いた。
「外の話、聞いていいか」
「外?」
「人間の国の話だ」
セラの目が、少しだけ輝いた。
「知りたいの?」
「知りたい」
「じゃあ座ろ!」
セラはその場に座り込んだ。三十メートル離れたまま。
俺も座った。
ルナは、立ったままだった。
※
「えーとね。人間の国、今、戦争してる」
「魔王軍か」
「そう。もう何年も。うちらも困ってるんだよね、村が焼かれると人がいなくなるから」
物騒な理由だった。
「で、ここ最近ちょっと変わったの」
「変わった?」
「うん。人間の国が、変な連中を出してきた」
心臓が、鳴った。
「……変な連中」
「なんか、すっごく強いの。若いのに。十人くらい?」
セラは指を折った。
「勇者、とか呼ばれてる子がいるって。あと聖女。それから、素手で魔族を殴り殺す女の子と、一人で三十人斬った男」
息が、止まった。
勇者。神崎。
聖女。白石。
素手の女——東雲。
一人で三十斬った男。
……柊か。
「生きてんのか」
「え?」
「そいつら、生きてんのか」
「生きてるよ? 最近すごい勢いで前に出てきてるって。魔族の間じゃ有名だよ」
俺は、自分の手が震えているのに気づいた。
生きてる。
あいつらは、生きてる。
当たり前だ。当たり前なんだが。
俺は、この五十日間、一度もそれを確かめられなかった。
「……そうか」
俺は目を閉じた。
大我。
あいつも、生きてるんだろうか。
「レン、その連中知ってるの?」
「……クラスメイトだ」
「くらす、めいと?」
「同じところで勉強してた仲間だよ」
「へえ!」
セラは目を丸くした。
「じゃあレンも強いんだ」
「……俺は捨てられた」
「捨てられた?」
「役に立たないってさ。この森に置いていかれた」
セラは、しばらく黙った。
それから、心底不思議そうに言った。
「変なの」
「あ?」
「レン、役に立たなくないじゃん」
「…………」
「うちらだったら絶対捨てないよ。もったいない」
……こいつの価値観で褒められても、複雑だ。
複雑だが。
五十日ぶりに、認められた気がした。
※
「あとねー、他にもあるよ。北の方で山が崩れたとか、南で疫病が出たとか」
セラは楽しそうに指を折っていく。
「あ、あと、うちらの話でよければ」
「うちら?」
「ヴァンパイアの」
セラは、当たり前のように続けた。
「今、ちょっと揉めてるんだよね。上のほうが」
ルナが、動いた。
ほんの少し。首の角度が変わっただけだ。
「……揉めてる?」
俺は聞いた。
「うん。私はよく知らないんだけどさ。昔、なんかあったらしいの」
「昔って」
「五十年前」
※
その瞬間。
空気が、止まった。
俺は隣を見た。
ルナが、立ち尽くしていた。
顔が、白い。もともと白いが、今のは違う。血の気が抜けている。
「……ルナ?」
返事がなかった。
「五十年前にね」
セラは気づかずに喋り続けた。
「真祖様がいなくなったんだって」
「しんそ、さま?」
「うちらの一番えらい人。っていうか、うちら全員の始まりの人」
セラは肩をすくめた。
「私は会ったことないよ。生まれたのが後だから。伝説みたいなもんだね」
「その人が、いなくなった」
「うん。それで上のほうが割れちゃって、今もずっとギスギスしてるの。私みたいなのには関係ないけどさ」
セラはけらけら笑った。
「もう五十年だよ? いい加減、やめればいいのにねー」
「……五十年」
声がした。
小さな声だった。
俺とセラが、同時にそっちを見た。
ルナが、口元に手を当てていた。
「え、なに? お姉さん」
「……五十年、なの」
「うん。そう聞いてるけど」
「…………」
ルナは、それきり何も言わなかった。
視線が、どこも見ていなかった。
「お姉さん? どうかした?」
「……なんでもない」
※
セラは、それから少し喋って、立ち上がった。
「またね、レン」
「来なくていい」
「えー」
セラは笑った。
それから、ふと思い出したように聞いた。
「レン、ずっとここにいるの?」
「……いや」
俺は少し考えた。
「そのうち、王都には行くと思う」
「王都?」
「ああ。あいつら、いるからな」
「ふーん」
セラは何かを考えるように、少しだけ首を傾げた。
「そっか。王都か」
「なんだよ」
「ううん。なんでもない」
銀色の髪が、森の奥へ消えた。
※
その夜。
俺は塩を使った。
ほんの少し。指先につまんだ分だけ、焼いた肉に振った。
一口食べて、俺は動きを止めた。
「……うま」
目の奥が、熱くなった。
情けない話だ。塩をかけただけの肉で泣きそうになっている。
「……レン」
「なんでもない」
「……泣いてる」
「泣いてねえよ」
ルナが、自分の串をこちらに差し出した。
「……これにも」
「あ?」
「……かけて」
俺はルナの肉にも塩をかけた。
ルナは一口食べて、目を丸くした。
「……なにこれ」
「塩だよ」
「……すごい」
「だろ」
二人でしばらく、無言で食った。
※
「……なあ、ルナ」
「……なに」
俺は火を見ながら言った。
「そろそろ、外に出ようと思う」
ルナが、動きを止めた。
「……え」
「あいつらが生きてるって分かった。戦ってるって分かった」
「……」
「俺だけ、ここでのんびり肉焼いてるわけにいかねえだろ」
「……レン」
「それに、王国のことも許してねえしな」
「言ってやらなきゃいけないことが山ほどある」
「…………」
「なあ、ルナ」
俺は、火の向こうのルナを見た。
「一緒に来ないか」
ルナが、顔を上げた。
「……え」
「一人にできねえよ、お前を」
「……でも」
「危ないってのは分かる。でも俺、前より強くなった。守れる」
「……」
「無理にとは言わねえ。でも」
俺は言葉を探した。
うまい言い方が見つからなかった。
「……お前がいないと、なんか、嫌なんだよ」
ルナは、しばらく黙っていた。
火が爆ぜた。
やがて、小さく言った。
「……考えさせて」
「おう」
俺は頷いた。
ルナが「考えさせて」なんて言うのは、初めてだった。
※
——ルナ Side——
五十年。
私は、数えるのをやめていた。
やめたのは、たぶん最初の何年かのうちだ。数えることに意味がないと分かってしまったから。
だから、知らなかった。
自分がどれだけの時間、あの暗い場所に座っていたのか。
……五十年。
長いのか、短いのか、分からない。
私は五百年生きている。五十年なんて、その十分の一だ。
なのに、その数字を聞いたとき、息が止まった。
五十年、あの子たちは揉め続けている。
私がいなくなったせいで。
私は「消えれば終わる」と思っていた。私という問題を取り除けば、あの子たちは楽になると思っていた。
違った。
私は問題を解決していない。
問題を持ったまま、いなくなっただけだ。
ノクスは、まだ答えを出せずにいるのだろう。ステラは、まだ探しているのかもしれない。ヴェルガは——考えたくない。
私が座っていた五十年は、あの子たちにとっても五十年だった。
当たり前のことを、私は今日初めて知った。
そして、もう一つ。
彼が、外に出ると言った。
……ついに来た、と思った。
いつか来ると分かっていた。分かっていたから、道を教えなかった。
でも、彼はもう待たない。
仲間が生きていると知って、戦っていると知って、それで座っていられる人ではない。
私が一番よく知っている。
「一緒に来ないか」
彼はそう言った。
……ずるい。
この人のほうが、よっぽどずるい。
断れないことを言う。
行けば、正体がばれる。
人の街に行けば、聖女がいる。聖女なら、不死を見抜く。
魔族と戦えば、加減が要る。私が本気を出せば、周りが全部消える。
それに——一族がいる。
外に出るということは、いつか誰かに見つかるということだ。
六姫の誰かに会えば、その瞬間に全部終わる。
行かなければ。
彼は、一人で行く。
この森を出て、人の国へ帰って、仲間と会って、戦って——それで。
もう、帰ってこない。
どちらも、終わる。
……ねえ、レン。
あなたは、私に「一緒に来ないか」と言った。
その言葉が、どれだけ嬉しかったか、あなたは知らない。
誰かに「一緒に」と言われたのは、初めてだった。
私はずっと、上にいた。連れて行く側で、決める側で、従わせる側だった。
「一緒に来ないか」なんて、誰も言わない。真祖に向かって、そんなことを言う者はいない。
あなたは知らないから、言えた。
……知ったら、言わなくなる。
私は膝を抱えて、火を見ていた。
隣で、彼はもう眠っている。
塩をかけた肉を食べて、少し泣いて、笑って、それから眠った。
寝顔が、子供みたいだった。
五十年。
私が座っていた時間。
この人は、まだ十七年しか生きていない。
……ああ。
だから、なのかもしれない。
この人は、時間を無駄にしない。
私は、無駄にしかしてこなかった。
考えさせて、と私は言った。
嘘だった。
考えるまでもない。
私は、ついていく。
どんな終わり方が待っていても、この人が行くところに行く。
……それでも「考えさせて」と言ったのは。
一晩だけ、この森でのことを、ちゃんと終わらせたかったからだ。
ここで、私は初めて誰かに守られた。
ここで、私は初めて誰かに受け入れられた。
ここで、私は初めて、生きていてほしいと思った。
明日から、それが全部、危なくなる。
私は眠っている彼の横で、そっと手を伸ばした。
触れる直前で、止めた。
起こしたくなかった。
……もう少しだけ。
この森が、私たち二人だけのものである時間を。
もう少しだけ。
『ブックマークの登録』『いいね』『評価点』を付けていただけると大変うれしいです。宜しければお願いします!




