第11話 呼んでくれ
四日、まともに話していなかった。
いや、話してはいる。「水を汲んでくる」とか「今日はこっちに行く」とか、そういうのは言う。
だが、それだけだった。
俺は洞穴の入口側で寝るようになった。ルナは奥。距離にして五メートル。
初日、ルナはいつも通りの場所——つまり俺のすぐ隣——に来ようとして、俺が黙って立ち上がって場所を移した。
二日目からは、来なくなった。
※
「……レン」
「んー」
「……包帯」
「あ?」
ルナが、左手を差し出した。
四日前に俺が巻いた布が、そのままになっている。ほどけかけて、いまだに赤が滲んでいた。
「……替えて」
「…………まだ、いい」
俺は目を逸らした。
差し出された手を、見たくなかった。
布の下がどうなっているか、想像するだけで胃の奥が冷たくなる。
ルナは、しばらく手を出したままでいた。
やがて、静かに引っ込めた。
「……レンのほうが、怪我してる」
「これは平気だ。すぐ治る」
「……そう」
会話が終わった。
沈黙が来て、俺は焚き火に枝を足した。
※
その日の狩りで、俺は失敗した。
牙猪。二体。以前なら三十秒で片付いた相手だ。
なのに、五分かかった。
しかも、右腕を持っていかれかけた。
牙が肉をえぐって、血が噴いた。俺は転がって距離を取り、荒い息を吐いた。
「……くそ」
分かってはいる。
《狂熱》を、途中で止めているからだ。
あの日以来、俺は熱が上がり始めると意図的に引き剥がすようになった。腹の底に火が点いた瞬間、水をかけるみたいにして消す。
だから力が出ない。速さも出ない。
高校生が骨の剣で猪と殴り合っているのと変わらない。
「……レン」
ルナが駆け寄ってきた。
「来るな!」
俺は怒鳴った。
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
ルナが、足を止めた。
「……近寄るなって言ってんだろ」
「……」
俺は立ち上がって、残った一体に向き直った。
結局、その一体を仕留めるのに、さらに三分かかった。
※
その夜。
俺が肉を焼いていると、ルナが向かいに座った。
いつもより近い。手を伸ばせば届く距離だった。
「おい」
「……」
「離れろって」
「……いや」
初めてだった。
こいつが、俺の言うことを正面から断ったのは。
「ルナ」
「……レン」
赤い目が、まっすぐ俺を見ていた。
「……今日、なんで力を使わなかったの」
「使ったろ」
「……途中でやめた」
「…………」
「毎回やめてる。ずっと」
見られていた。
当たり前だ。ずっと隣にいるんだから。
「……別に。加減したほうがいいと思っただけだ」
「嘘」
ルナがはっきり言った。
こいつがこんなに強い言い方をするのは、初めて聞いた。
「……レン。腕、見せて」
「いいって」
「見せて」
押し切られて、俺は右腕を出した。
牙が抉った跡は、もう塞がりかけている。だが完全ではない。《狂熱》を使い切っていないから、回復も中途半端なのだ。
ルナはそれをしばらく見ていた。
それから、静かに言った。
「……このままだと、死ぬよ」
「大げさだな」
「……大げさじゃない」
ルナが、俺の腕を掴んだ。
「レンは、私を殺すのが怖くて、自分が死ぬほうを選んでる」
「…………」
言葉が出なかった。
図星だったからだ。
「……そんなの、だめ」
「じゃあどうしろってんだよ」
俺は腕を引いた。
「全力でやれって? この前みたいに?」
「……」
「あんときのこと、覚えてねえんだぞ、俺は」
声が大きくなっていた。
「気がついたら、お前に剣を振り下ろしてた。お前の手から血が出てた。それを見るまで、自分が何やってるか分かってなかった」
「……うん」
「次は手じゃ済まねえかもしれねえだろ!」
「…………」
「だから離れろって言ってんだよ!」
俺は立ち上がった。
火が爆ぜた。
ルナは座ったまま、俺を見上げていた。
その顔に、やっぱり恐怖はなかった。
「……レン」
「……なんだよ」
「あのとき」
ルナは、包帯を巻いた手を胸のあたりに引き寄せた。
「……剣が、止まったのは、どうして?」
「え?」
「……私が手で掴んだから、止まったんじゃないよ」
……何を言ってるんだ、こいつは。
「掴んだだろ。実際、その手が——」
「……止めたのは、私の手じゃない」
ルナは首を振った。
「あのあと。私が名前を呼んだら」
※
——「……レン」
※
思い出した。
あの瞬間。
剣が止まって、俺の視界がようやく像を結んで、それでもまだ身体が熱かった。
《狂熱》は、まだ点いていた。
ルナが俺の名前を呼んだ。
その瞬間に。
全部、いっぺんに消えた。
「…………」
「……レン。あなた、あのとき戻ってきた」
ルナは静かに言った。
「手を掴まれたからじゃない。……声を聞いたから」
※
俺はしばらく、火を見ていた。
考えていた。
三日目に狼を殺したとき。誰もいなかった。だから止まらなかった。
十二日目に六体殺したとき。誰もいなかった。だから止まらなかった。
この前。
……いた。
「……そうか」
俺は座り直した。
「そうか。そういうことか」
「……レン?」
「止まる方法があるってことだ」
俺は自分の手を握った。
「暴走したら終わりだと思ってた。誰も止められないって。宰相もそう言ってたしな」
「……」
「でも、あんときの俺は止まった」
ルナが、少しだけ身を乗り出した。
「……うん」
「一回止まったなら、二回目も止まるかもしれねえ」
「……うん」
「……いや」
俺は首を振った。
「かもしれない、じゃ駄目だ」
※
「訓練しよう」
俺は言った。
「……訓練?」
「わざと熱を上げる。上げるとこまで上げて、それをお前が呼び戻す」
「…………」
「危ないのは分かってる。でも、いつか嫌でもああなる。そのときぶっつけ本番より、今のうちに何度も——」
「やる」
ルナが即答した。
「おい、聞けって。危ないんだぞ。お前が」
「……やる」
「……」
「……私、レンを呼ぶ。何回でも呼ぶ」
その言い方が、あんまり真剣だったので。
俺は少し笑ってしまった。
「……なんで笑うの」
「いや。悪い」
笑いながら、目の奥が熱くなった。
久しぶりに、こいつの顔をちゃんと見た気がした。
※
翌日から、それを始めた。
方法は単純だ。
俺が魔物と戦う。そのとき、意図的に《狂熱》を最大まで上げる。
止めない。引き剥がさない。
そして、敵が倒れた瞬間——ルナが名前を呼ぶ。
「レン」
最初は、駄目だった。
声が聞こえた。聞こえたのに、腕が止まらなかった。俺は倒れた牙猪をさらに三回叩いて、それから我に返った。
「……くそ」
「……もう一回」
「危ねえって」
「……もう一回」
二日目。
四回叩いた。
三日目。
二回。
四日目。
——一回。
五日目。
「レン」
その声で、俺の腕が止まった。
振り上げた姿勢のまま。
牙猪はとっくに動いていない。俺の手はまだ震えていて、視界の端はまだ赤い。
でも、止まっていた。
「……止まった」
俺は呟いた。
「……止まったな」
「……うん」
「止まった」
「……うん」
俺は剣を落として、その場に座り込んだ。
両手で顔を覆った。
この四日、頭の中で宰相の声が回り続けていた。十七人。味方を十七人殺した男。俺も同じだと。
違うかもしれない。
まだ分からないけど。
でも、違うかもしれない。
「……レン」
「なんだよ」
「……泣いてる?」
「泣いてねえよ」
「……泣いてる」
「うるせえ」
ルナが、隣に座った。
肩が触れた。
俺は、今度は離れなかった。
※
その夜、俺はルナの手の包帯を替えた。
「痛かったら言えよ」
「……うん」
布を解く。
傷は、思っていたよりずっと浅くなっていた。
「……あれ」
「……なに」
「治り早くねえか、これ」
「…………ヴァンパイアだから」
「あー、そういうもんか」
俺は納得した。
新しい布を巻きながら、俺は言った。
「……悪かったな」
「……なにが」
「四日、避けてた」
「……うん」
「あと、来るなって怒鳴った」
「……うん」
「悪かった」
ルナは、包帯を巻かれた手をじっと見ていた。
それから、小さく言った。
「……もう、離れない?」
「離れねえよ」
「……本当?」
「本当」
ルナが、包帯の手をそっと動かして、俺の指を掴んだ。
冷たい手だった。
※
——ルナ Side——
包帯の下の傷は、本当はもうない。
四日のあいだ、私はずっと塞がらないように力を入れていた。
真祖の身体は放っておけば数秒で治る。だから、治らないように押さえ続けた。
夜、彼が眠ったあとに包帯を外して、自分で傷口を開き直したこともある。
……何をやっているんだろう、と思った。
思いながら、やめられなかった。
傷が消えたら、彼は「そんなに深くなかったんだ」と思う。そうしたら、彼が私に怯えている理由も一緒に薄れる。
……それでいいはずだった。
彼が楽になるなら、それでいいはずだった。
でも私は、傷を残した。
彼が私を傷つけた証拠を、消したくなかった。
消したら——彼が私から離れる理由が、なくなる代わりに、近づく理由もなくなる気がした。
……こんな考え方をする自分を、私は知らない。
五百年、こんなことを考えたことは一度もなかった。
今日、私はそれをやめた。
彼が「訓練しよう」と言ったからだ。
あの人は、逃げるのをやめた。
自分を化け物だと言っていた人が、化け物のまま生きる方法を探し始めた。
だったら、私が傷を握りしめている理由はもうない。
だから、力を抜いた。
傷は、あっという間に浅くなった。
「治り早くねえか」と言われて、心臓が跳ねた。
「ヴァンパイアだから」と答えた。
……何度目の嘘だろう。
もう数えていない。
訓練の五日目。
彼の腕が、私の声で止まった。
あの瞬間の彼の顔を、私はたぶん忘れない。
振り上げた姿勢のまま固まって、それから、ゆっくりと剣を落とした。
座り込んで、両手で顔を覆った。
泣いていた。
「泣いてねえよ」と言った。
その嘘だけは、指摘してもよかったと思う。
私は、彼の名前を呼ぶ役になった。
……嬉しい、というのが正しいのかどうか分からない。
でも、胸のあたりが軽くて、少しだけ落ち着かない。
私はこれまで、誰かの役に立ったことがない。
守ることはできた。敵を消すこともできた。そんなものは、いくらでもできた。
でも、私にしかできないことを頼まれたのは、これが初めてだ。
「レン」と呼ぶだけ。
それだけのことを、あの人は私に頼んだ。
……力なんて、いらなかった。
真祖の身体も、不滅の再生も、あの威圧も、何の役にも立たなかった。
役に立ったのは、声だった。
夜、彼が私の手に布を巻いた。
不器用な手つきだった。今日は一回でできた。
「もう、離れない?」
と聞いたら、「離れねえよ」と言われた。
私は彼の指を掴んだ。
彼の手が、びくりと動いた。
……たぶん、あれだ。
血を飲んだときに混ざっていた、名前の分からないもの。
あれが、また出ている。
私は知らないふりをして、指を離さなかった。
……ずるい。
私はずるい。
でも、今日だけは。
今日だけは、少しくらい許してほしい。
『ブックマークの登録』『いいね』『評価点』を付けていただけると大変うれしいです。宜しければお願いします!




