↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/35

第11話 呼んでくれ

四日、まともに話していなかった。


 いや、話してはいる。「水を汲んでくる」とか「今日はこっちに行く」とか、そういうのは言う。


 だが、それだけだった。


 俺は洞穴の入口側で寝るようになった。ルナは奥。距離にして五メートル。


 初日、ルナはいつも通りの場所——つまり俺のすぐ隣——に来ようとして、俺が黙って立ち上がって場所を移した。


 二日目からは、来なくなった。


  ※


「……レン」


「んー」


「……包帯」


「あ?」


 ルナが、左手を差し出した。


 四日前に俺が巻いた布が、そのままになっている。ほどけかけて、いまだに赤が滲んでいた。


「……替えて」


「…………まだ、いい」


 俺は目を逸らした。


 差し出された手を、見たくなかった。


 布の下がどうなっているか、想像するだけで胃の奥が冷たくなる。


 ルナは、しばらく手を出したままでいた。


 やがて、静かに引っ込めた。


「……レンのほうが、怪我してる」


「これは平気だ。すぐ治る」


「……そう」


 会話が終わった。


 沈黙が来て、俺は焚き火に枝を足した。


  ※


 その日の狩りで、俺は失敗した。


 牙猪。二体。以前なら三十秒で片付いた相手だ。


 なのに、五分かかった。


 しかも、右腕を持っていかれかけた。


 牙が肉をえぐって、血が噴いた。俺は転がって距離を取り、荒い息を吐いた。


「……くそ」


 分かってはいる。


 《狂熱》を、途中で止めているからだ。


 あの日以来、俺は熱が上がり始めると意図的に引き剥がすようになった。腹の底に火が点いた瞬間、水をかけるみたいにして消す。


 だから力が出ない。速さも出ない。


 高校生が骨の剣で猪と殴り合っているのと変わらない。


「……レン」


 ルナが駆け寄ってきた。


「来るな!」


 俺は怒鳴った。


 自分でも驚くくらい大きな声が出た。


 ルナが、足を止めた。


「……近寄るなって言ってんだろ」


「……」


 俺は立ち上がって、残った一体に向き直った。


 結局、その一体を仕留めるのに、さらに三分かかった。


  ※


 その夜。


 俺が肉を焼いていると、ルナが向かいに座った。


 いつもより近い。手を伸ばせば届く距離だった。


「おい」


「……」


「離れろって」


「……いや」


 初めてだった。


 こいつが、俺の言うことを正面から断ったのは。


「ルナ」


「……レン」


 赤い目が、まっすぐ俺を見ていた。


「……今日、なんで力を使わなかったの」


「使ったろ」


「……途中でやめた」


「…………」


「毎回やめてる。ずっと」


 見られていた。


 当たり前だ。ずっと隣にいるんだから。


「……別に。加減したほうがいいと思っただけだ」


「嘘」


 ルナがはっきり言った。


 こいつがこんなに強い言い方をするのは、初めて聞いた。


「……レン。腕、見せて」


「いいって」


「見せて」


 押し切られて、俺は右腕を出した。


 牙が抉った跡は、もう塞がりかけている。だが完全ではない。《狂熱》を使い切っていないから、回復も中途半端なのだ。


 ルナはそれをしばらく見ていた。


 それから、静かに言った。


「……このままだと、死ぬよ」


「大げさだな」


「……大げさじゃない」


 ルナが、俺の腕を掴んだ。


「レンは、私を殺すのが怖くて、自分が死ぬほうを選んでる」


「…………」


 言葉が出なかった。


 図星だったからだ。


「……そんなの、だめ」


「じゃあどうしろってんだよ」


 俺は腕を引いた。


「全力でやれって? この前みたいに?」


「……」


「あんときのこと、覚えてねえんだぞ、俺は」


 声が大きくなっていた。


「気がついたら、お前に剣を振り下ろしてた。お前の手から血が出てた。それを見るまで、自分が何やってるか分かってなかった」


「……うん」


「次は手じゃ済まねえかもしれねえだろ!」


「…………」


「だから離れろって言ってんだよ!」


 俺は立ち上がった。


 火が爆ぜた。


 ルナは座ったまま、俺を見上げていた。


 その顔に、やっぱり恐怖はなかった。


「……レン」


「……なんだよ」


「あのとき」


 ルナは、包帯を巻いた手を胸のあたりに引き寄せた。


「……剣が、止まったのは、どうして?」


「え?」


「……私が手で掴んだから、止まったんじゃないよ」


 ……何を言ってるんだ、こいつは。


「掴んだだろ。実際、その手が——」


「……止めたのは、私の手じゃない」


 ルナは首を振った。


「あのあと。私が名前を呼んだら」


  ※


 ——「……レン」


  ※


 思い出した。


 あの瞬間。


 剣が止まって、俺の視界がようやく像を結んで、それでもまだ身体が熱かった。


 《狂熱》は、まだ点いていた。


 ルナが俺の名前を呼んだ。


 その瞬間に。


 全部、いっぺんに消えた。


「…………」


「……レン。あなた、あのとき戻ってきた」


 ルナは静かに言った。


「手を掴まれたからじゃない。……声を聞いたから」


  ※


 俺はしばらく、火を見ていた。


 考えていた。


 三日目に狼を殺したとき。誰もいなかった。だから止まらなかった。


 十二日目に六体殺したとき。誰もいなかった。だから止まらなかった。


 この前。


 ……いた。


「……そうか」


 俺は座り直した。


「そうか。そういうことか」


「……レン?」


「止まる方法があるってことだ」


 俺は自分の手を握った。


「暴走したら終わりだと思ってた。誰も止められないって。宰相もそう言ってたしな」


「……」


「でも、あんときの俺は止まった」


 ルナが、少しだけ身を乗り出した。


「……うん」


「一回止まったなら、二回目も止まるかもしれねえ」


「……うん」


「……いや」


 俺は首を振った。


「かもしれない、じゃ駄目だ」


  ※


「訓練しよう」


 俺は言った。


「……訓練?」


「わざと熱を上げる。上げるとこまで上げて、それをお前が呼び戻す」


「…………」


「危ないのは分かってる。でも、いつか嫌でもああなる。そのときぶっつけ本番より、今のうちに何度も——」


「やる」


 ルナが即答した。


「おい、聞けって。危ないんだぞ。お前が」


「……やる」


「……」


「……私、レンを呼ぶ。何回でも呼ぶ」


 その言い方が、あんまり真剣だったので。


 俺は少し笑ってしまった。


「……なんで笑うの」


「いや。悪い」


 笑いながら、目の奥が熱くなった。


 久しぶりに、こいつの顔をちゃんと見た気がした。


  ※


 翌日から、それを始めた。


 方法は単純だ。


 俺が魔物と戦う。そのとき、意図的に《狂熱》を最大まで上げる。


 止めない。引き剥がさない。


 そして、敵が倒れた瞬間——ルナが名前を呼ぶ。


「レン」


 最初は、駄目だった。


 声が聞こえた。聞こえたのに、腕が止まらなかった。俺は倒れた牙猪をさらに三回叩いて、それから我に返った。


「……くそ」


「……もう一回」


「危ねえって」


「……もう一回」


 二日目。


 四回叩いた。


 三日目。


 二回。


 四日目。


 ——一回。


 五日目。


「レン」


 その声で、俺の腕が止まった。


 振り上げた姿勢のまま。


 牙猪はとっくに動いていない。俺の手はまだ震えていて、視界の端はまだ赤い。


 でも、止まっていた。


「……止まった」


 俺は呟いた。


「……止まったな」


「……うん」


「止まった」


「……うん」


 俺は剣を落として、その場に座り込んだ。


 両手で顔を覆った。


 この四日、頭の中で宰相の声が回り続けていた。十七人。味方を十七人殺した男。俺も同じだと。


 違うかもしれない。


 まだ分からないけど。


 でも、違うかもしれない。


「……レン」


「なんだよ」


「……泣いてる?」


「泣いてねえよ」


「……泣いてる」


「うるせえ」


 ルナが、隣に座った。


 肩が触れた。


 俺は、今度は離れなかった。


  ※


 その夜、俺はルナの手の包帯を替えた。


「痛かったら言えよ」


「……うん」


 布を解く。


 傷は、思っていたよりずっと浅くなっていた。


「……あれ」


「……なに」


「治り早くねえか、これ」


「…………ヴァンパイアだから」


「あー、そういうもんか」


 俺は納得した。


 新しい布を巻きながら、俺は言った。


「……悪かったな」


「……なにが」


「四日、避けてた」


「……うん」


「あと、来るなって怒鳴った」


「……うん」


「悪かった」


 ルナは、包帯を巻かれた手をじっと見ていた。


 それから、小さく言った。


「……もう、離れない?」


「離れねえよ」


「……本当?」


「本当」


 ルナが、包帯の手をそっと動かして、俺の指を掴んだ。


 冷たい手だった。


 

  ※


——ルナ Side——


 包帯の下の傷は、本当はもうない。


 四日のあいだ、私はずっと塞がらないように力を入れていた。


 真祖の身体は放っておけば数秒で治る。だから、治らないように押さえ続けた。


 夜、彼が眠ったあとに包帯を外して、自分で傷口を開き直したこともある。


 ……何をやっているんだろう、と思った。


 思いながら、やめられなかった。


 傷が消えたら、彼は「そんなに深くなかったんだ」と思う。そうしたら、彼が私に怯えている理由も一緒に薄れる。


 ……それでいいはずだった。


 彼が楽になるなら、それでいいはずだった。


 でも私は、傷を残した。


 彼が私を傷つけた証拠を、消したくなかった。


 消したら——彼が私から離れる理由が、なくなる代わりに、近づく理由もなくなる気がした。


 ……こんな考え方をする自分を、私は知らない。


 五百年、こんなことを考えたことは一度もなかった。


 今日、私はそれをやめた。


 彼が「訓練しよう」と言ったからだ。


 あの人は、逃げるのをやめた。


 自分を化け物だと言っていた人が、化け物のまま生きる方法を探し始めた。


 だったら、私が傷を握りしめている理由はもうない。


 だから、力を抜いた。


 傷は、あっという間に浅くなった。


 「治り早くねえか」と言われて、心臓が跳ねた。


 「ヴァンパイアだから」と答えた。


 ……何度目の嘘だろう。


 もう数えていない。


 訓練の五日目。


 彼の腕が、私の声で止まった。


 あの瞬間の彼の顔を、私はたぶん忘れない。


 振り上げた姿勢のまま固まって、それから、ゆっくりと剣を落とした。


 座り込んで、両手で顔を覆った。


 泣いていた。


 「泣いてねえよ」と言った。


 その嘘だけは、指摘してもよかったと思う。


 私は、彼の名前を呼ぶ役になった。


 ……嬉しい、というのが正しいのかどうか分からない。


 でも、胸のあたりが軽くて、少しだけ落ち着かない。


 私はこれまで、誰かの役に立ったことがない。


 守ることはできた。敵を消すこともできた。そんなものは、いくらでもできた。


 でも、私にしかできないことを頼まれたのは、これが初めてだ。


 「レン」と呼ぶだけ。


 それだけのことを、あの人は私に頼んだ。


 ……力なんて、いらなかった。


 真祖の身体も、不滅の再生も、あの威圧も、何の役にも立たなかった。


 役に立ったのは、声だった。


 夜、彼が私の手に布を巻いた。


 不器用な手つきだった。今日は一回でできた。


「もう、離れない?」


 と聞いたら、「離れねえよ」と言われた。


 私は彼の指を掴んだ。


 彼の手が、びくりと動いた。


 ……たぶん、あれだ。


 血を飲んだときに混ざっていた、名前の分からないもの。


 あれが、また出ている。


 私は知らないふりをして、指を離さなかった。


 ……ずるい。


 私はずるい。


 でも、今日だけは。


 今日だけは、少しくらい許してほしい。

『ブックマークの登録』『いいね』『評価点』を付けていただけると大変うれしいです。宜しければお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。