第10話 ここにいて
セラが来てから、ルナは俺から離れなくなった。
もともと三歩後ろにいたのが、一歩になり、最近は横に並ぶ。
狩りに行けばついてくる。水を汲みに行けばついてくる。焚き火の番をしていれば、いつの間にか肩が触れている。
「おい」
「……なに」
「近い」
「……寒いから」
「もう三日連続でそれ聞いてるぞ」
「……寒いから」
押し切る気らしい。
まあ、あの銀髪の女に腕を掴まれたときのことを思えば、こいつが警戒するのも分かる。
……分かるが。
俺の心臓が、たまに変な動きをするのは勘弁してほしかった。
※
その日は、北へ向かった。
この一週間で南と西は歩き尽くした。獲物が減っている。移動しないと食えなくなる。
「……レン」
「んー」
「……こっち、あんまり行ったことない」
「そうか? まあ、慎重に行こうぜ」
昼過ぎ。
風向きが変わった。
匂いが来た。
「……ルナ、下がれ」
「……うん」
俺は剣を抜いた。
木立の向こうに、影が見えた。
狼型。
一体、二体——。
……多い。
「……十五は、いるな」
俺は舌打ちした。
六体でも死にかけた。あのときより強くなっているとはいえ、十五は無茶だ。
しかも、群れの奥にもう一体いる。
他より一回りでかい。肩の高さが俺の目線と同じくらいある。
「逃げるぞ」
俺はルナの手を掴んだ。
「走れ!」
※
森の中を走った。
背後で足音が増えていく。
速い。狼型の脚は俺より速い。逃げ切れる相手じゃないことは、走り出した瞬間から分かっていた。
だが、開けた場所に出れば囲まれる。木の密度が高い方へ——。
「——っ!」
横から来た。
俺は反射的にルナを突き飛ばした。
牙が肩をかすめる。血が飛ぶ。痛みはすぐに引いた。《狂熱》が点いている。
剣を振って一体目を仕留めた。
二体目。三体目。
いける。
まだ、いける。
——そのときだった。
「あ」
小さな声がした。
振り返る。
突き飛ばしたルナが、まだ地面に座り込んでいた。
立ち上がろうとして、間に合っていない。
その背後から、群れの長が跳んでいた。
「————ルナ!」
届かない。
三歩、遠い。
巨体の前脚が、ルナの身体を叩いた。
小さな身体が、宙を舞った。
木の幹に叩きつけられる音。
落ちる。
動かない。
白い頬に、赤い線が走っていた。
※
そこから先の記憶が、ない。
※
——ぱき。
小さな音で、俺は我に返った。
最初に見えたのは、自分の手だった。
赤い。
肘まで赤い。制服の袖が破れて、その下の腕も、指も、爪の間も、全部赤かった。
次に見えたのは、地面だった。
赤い。
……何かが、たくさんあった。
毛と、骨と、それ以外の何か。形のあるものが一つもない。数えられない。数えようとして、数える対象が見つからなかった。
肺が鳴っていた。
息を吸う音じゃない。もっと荒くて、もっと——楽しそうな音。
「……あ」
俺は、笑っていた。
自分の顔が笑っているのが、頬の筋肉で分かった。
……またやったのか。
俺は。
視界の端で、何かが動いた。
白いもの。
——まだ生きてるやつがいる。
俺の腕が、勝手に上がった。
剣が振り下ろされた。
※
金属が肉を裂く音がした。
鈍い、嫌な音だった。
俺の視界が、そこでようやく像を結んだ。
剣の刃を、白い手が掴んでいた。
細い指。俺の半分もない太さの手首。
その手のひらから、赤い筋が何本も垂れていた。
刃を伝って、地面に落ちていく。
ぽたり。
ぽたり。
「————」
声が、出なかった。
視線を上げる。
赤い目が、俺を見ていた。
頬に切り傷。髪に葉と土。服の肩が破れて、そこにも赤が滲んでいる。
ルナだった。
俺は、ルナに剣を振り下ろしていた。
「……レン」
その声で、《狂熱》が消えた。
全部、いっぺんに。
「————ぁ」
俺は剣を放り投げた。
放り投げてから、それが刃を掴んでいる手を引き抜く動作になっていたことに気づいて、慌ててその手を取った。
血。
手のひらが、深く裂けている。
俺が、やった。
「——うわ、うわ、待て、待って、待ってくれ」
声が震えていた。
「悪い、悪い、俺、俺——」
「……レン」
「見てなかった、見えてなかったんだ、いや違う、見えてたのかもしれない、分かんねえ、俺——」
「レン」
ルナが、もう片方の手で俺の頬に触れた。
冷たい手だった。
「……落ち着いて」
「落ち着けるかよ!」
叫んでいた。
「お前、俺に殺されるとこだったんだぞ!」
※
ルナは何も言わなかった。
ただ、俺の頬に手を当てたまま、じっと見ていた。
俺はその場に膝をついた。
赤い地面に。自分が作った、形のないものだらけの地面に。
「……思い出せねえんだ」
「……」
「お前が吹き飛ばされて、それで——それから、今までのことが、全部」
両手が震えていた。
止まらなかった。
「三回目だ」
「……三回目?」
「最初は、森に来て三日目。狼を一体殺した。もう死んでるのに、石を三回振り下ろした」
喉が渇いていた。
「二回目は、十二日目。六体倒して、そのあと何十回振ったか覚えてない」
「……」
「そんときは、まだよかったんだ」
俺は自分の掌を見た。
「誰もいなかったからな」
※
「……なあ、ルナ」
「……なに」
「俺の職業、バーサーカーってやつなんだけどさ」
初めて口に出した。
ここまで一度も言っていなかった。言う必要がなかったし、言いたくもなかった。
「昔、俺と同じ職業の奴がいたらしいんだ」
「……うん」
「そいつは強かった。騎士団長と同じくらいだったって」
「……うん」
「でも、興奮すると、敵と味方の区別がつかなくなった」
言葉が、勝手に出てきた。
「そいつが一番殺したのは、魔族じゃなくて——味方の兵だったんだと」
「…………」
「十七人だってさ。宰相が、そう言ってた」
風が鳴った。
血の匂いがひどかった。
「だから捨てられたんだよ、俺は」
俺は笑おうとした。
できなかった。
「弱いからじゃねえ。危ないからだ」
「……」
「あいつら、正しかったんだ」
※
「……俺、行くわ」
立ち上がろうとした。
足に力が入らなかった。それでも壁になる木に手をついて、立った。
「レン」
「一人なら誰も殺さねえ。今までもそうだった」
「……レン」
「森の外を探す。方角なんてどうでもいい。とにかく歩けば——」
服の裾を、掴まれた。
振り返る。
ルナが、俺の後ろで膝をついていた。
裂けた手のまま、その手で、俺の裾を掴んでいた。
血が、布に染みていた。
「……ここにいて」
「離せって」
「……いや」
「離せ!」
俺は振り払おうとした。
振り払えなかった。
力の問題じゃない。振り払おうとした手が、途中で止まったのだ。
「……お前、分かってんのか」
俺は言った。
「俺は、お前を殺しかけたんだぞ」
「……知ってる」
「知ってるって——」
「……見てた」
ルナは、俺を見上げていた。
その顔に、恐怖がなかった。
一片も。
「……レン」
「なんだよ」
「……こわくない」
「怖がれよ!」
俺は叫んだ。
「なんで怖がらねえんだよ! 俺は化け物だぞ! 自分が何やったか覚えてねえんだぞ! 次はお前を——」
「……ここにいて」
ルナは、同じ言葉を繰り返した。
もう一度。
「……お願い。ここにいて」
※
俺は、その場に座り込んだ。
膝から力が抜けて、そのまま。
ルナは裾を離さなかった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがて俺は、ルナの手を取った。
裂けた掌に、乾いた血がこびりついている。
水筒の水をかけて、洗った。制服の裾を破いて、巻いた。手が震えて、三回やり直した。
その間、ルナは黙って手を差し出していた。
「……痛いか」
「……ううん」
「嘘つけ」
「……嘘じゃない」
嘘だろ。
こんなに深く裂けてるんだ。痛くないわけがない。
……こいつは、いつもそうだ。
自分のことになると、何も言わない。
「……ルナ」
「……なに」
「もし、また俺がああなったら」
俺は、包帯代わりの布を結びながら言った。
「逃げてくれ」
「……いや」
「頼むよ」
「……いや」
即答だった。
「……レンは、私が餓えて襲ったとき、許してくれた」
「あれとこれは違うだろ」
「……同じ」
ルナは、包まれた手を見つめていた。
「……私も、覚えてなかった」
「え?」
「……あなたに噛みついたとき。気がついたら、口の中が温かかった」
……。
「同じだよ、レン」
※
——ルナ Side——
あの狼は、私に触れなかった。
正確には、触れることを許した。
避けようと思えば避けられた。息を吐くだけで、あの群れは全部消えた。
でも、私は弱いふりをしていたから。
だから、殴られておいた。
少しだけ痛くて、頬が切れて、木にぶつかった。すぐ治る。何百回とやってきたことだ。
——それが、あんなことになるなんて、思わなかった。
※
彼は変わった。
私が飛ばされた瞬間に、何かが切り替わった。
空気が変わったのが分かった。あの人の中で、何かの蓋が吹き飛んだ。
それから、彼は狼を全部殺した。
十五体。長も含めて。
一体目からもう、動きが変わっていた。速さも、力も、いつもの彼ではなかった。
……ああ、そうか。
この人は、こんなに強くなれるんだ。
私を守るためなら。
※
でも、終わったあとも、止まらなかった。
動かなくなったものを、何度も何度も。
私は、少し離れて見ていた。
止めなくていいと思った。危険はもうない。落ち着けば戻る。
……甘かった。
彼が、私を見た。
私を見た目に、私がいなかった。
剣が振り下ろされたとき、私は避けなかった。
避けられなかったのではない。避けてはいけなかった。
あの速さの刃を避けられる人間はいない。まして、ずっと「弱い」と言い張ってきた女には。逃げた時点で、私が何なのかを教えることになる。
身体で受けるのも駄目だった。胴を裂かれて平気で立っている女も、この世にはいない。
残っていたのは、手だけだった。
——指を添えるだけで、刃は止まった。
でも、それでは傷がつかない。
振り下ろされた剣を、無傷の手のひらで受け止める女。
そんなものを見せたら、全部終わる。
だから、握った。
深く。ちゃんと血が出るまで。
——痛みより先に、思った。
私は今、自分の手を、嘘のために潰している。
※
それから、治るのを止めた。
真祖の身体は、放っておけば数秒で塞がる。骨も、内臓も。
だから、力を入れて、塞がらないようにした。
血が垂れ続けるように。
彼が、私の手を洗って、布を巻いて、三回やり直すあいだずっと。
……痛かった。
治らないようにするほうが、ずっと痛い。
「痛いか」と聞かれた。
「ううん」と答えた。
嘘じゃなかった。
この痛みは、私が選んだものだから。
※
彼は、自分を化け物だと言った。
自分が正しく捨てられたのだと言った。
あいつらは正しかったのだと言った。
……違う。
違う、違う、違う。
あなたは私を守ろうとしただけだ。
あなたが蓋を失ったのは、私が飛ばされたからだ。
そして私は、飛ばされる必要なんてなかった。
あの狼は、私に指一本触れられなかった。
私が弱いふりをしなければ、あなたはあんな顔をしなくてよかった。
全部、私のせいだ。
※
言えばいい。
たった一言でいい。
私は真祖で、あなたに殺されることはなくて、あの傷は放っておけば数秒で消える。
だから、あなたは誰も殺していない。
そう言えば、この人は救われる。
※
言えなかった。
言えば、この人は私を見る目を変える。
みんなそうだった。私が何者か知った瞬間、頭を下げるか、逃げるか。
この人が私を見なくなるくらいなら。
この人が自分を化け物だと思っているほうが——。
……。
……ああ。
私は今、何を考えた。
※
「もし、また俺がああなったら、逃げてくれ」
彼はそう言った。
「……いや」
私は断った。
逃げない。絶対に逃げない。
あなたが自分を許せなくなるたびに、私はここにいる。
何度でも手を出して、何度でも切らせて、何度でも「大丈夫」と言う。
嘘をつきながら。
あなたを苦しめながら。
……こんなの、守っているんじゃない。
私は、この人を閉じ込めている。
※
布を巻き終えた彼の手が、私の手に触れたまま止まっていた。
温かかった。
私の手は冷たいから、いつも彼の温度がよく分かる。
その温かさに、私は少しだけ手を返した。
彼は、離さなかった。
……もう少し。
もう少しだけ。
もう少しだけ、このままでいさせてほしい。
いつか全部話す。
いつか、必ず。
——そう思うようになってから、もう何度目の「いつか」だろう。
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