幕間② 模擬戦
召喚から、四十日。
基礎訓練の期間が終わり、その日から模擬戦が始まった。
訓練場の中央に円が描かれ、外周に生徒たちが並ぶ。防具と木剣が配られたが、ガレスは一つだけ条件をつけた。
「固有能力の使用を許可します」
ざわめきが起きた。
「危なくないんですか」
九条麗華が眉をひそめる。
「危険です。ですが、実戦で加減を覚える余裕はない。今のうちに、自分の力がどこまで人を壊すのか知っておくべきだ」
ガレスは淡々と言った。
「白石殿が控えています。死ななければ、治ります」
白石美咲が、慌てて頭を下げた。
※
この四十日で、序列は誰の目にも見えるようになっていた。
最上位は、神崎蓮司だった。
勝率は十割。剣の技術はまだ粗いが、《聖剣召喚》の出力がそれを補って余りある。光の刃は木剣を紙のように断ち、鎧の上からでも衝撃が通る。
「神崎くん、すごすぎでしょ」
「マジで勇者じゃん」
「いや、勇者だし」
笑い声が起きる。神崎は片手を上げて応えた。
「大丈夫だって。みんなの分も俺が頑張るから」
その言葉に、何人かが本気で安堵の顔をした。
彼はいつも、そういう言い方をした。
※
「では、次」
ガレスが名簿を見た。
「神崎殿。東雲殿」
空気が、少し変わった。
東雲千尋も、この四十日で一度も負けていない。ただし彼女の戦い方は地味だった。
突きが二発か三発。それで終わる。
派手さがないので、話題にならなかった。
「東雲さんかあ」
姫川莉奈が、腕を組んだ。
「どうなんだろ。素手じゃん」
「勇者殿は聖剣を使われるのでしょう?」
「そりゃ使うっしょ」
円の中で、二人が向かい合った。
「東雲さん、武器は?」
「必要ない」
千尋は、いつも通りの声で言った。挑発でも謙遜でもない。ただ、事実として。
そして彼女は、配られた防具を係の騎士に返した。
「……防具も?」
「はい。邪魔になるので」
ざわめきが起きた。
舐めている、と取る者もいた。だが千尋の顔にそんなものはない。
彼女の《剛体》は、身体そのものを武器に変える。鎧を着ければ、その分だけ動きが鈍る。それだけの計算だった。
「……そっか」
神崎の笑みが、少しだけ薄くなった。
「言っとくけど、俺、手加減とか苦手だから」
「はい。お願い」
千尋は一礼した。
深く、丁寧に。道場でするのと同じ角度で。
※
「——始め」
神崎の右手に、光が集まった。
白い刃が形を取る。二メートル近い長さの、両手持ちの大剣。
周囲から歓声が上がった。
千尋は動かなかった。
左足を半歩前。両手は胸の高さ。腰を落として、あとは何もしない。
神崎が踏み込んだ。
速い。四十日で確実に伸びている。上段からの、単純で、しかし恐ろしく重い斬り下ろし。
当たれば、防具ごと持っていかれる。
——右足。
千尋の中で、それだけが浮かんだ。
《見切り》は、未来を見せてくれるわけではない。ただ、相手の身体が「どこから動き出したか」を、通常より半拍早く教える。
半拍。
それが分かったところで、逃げ切れる速度ではなかった。
誰もが、千尋が後ろに跳ぶと思った。
千尋は、**前に出た。**
「——え」
誰かが声を漏らした。
斬撃の内側へ。刃が最も速く、最も届く軌道の、その手前へ。
光の刃が、千尋の左肩を裂いた。
血が飛ぶ。
骨まで届くはずの一撃だった。だが刃は、途中で止まっていた。
**《剛体》。**
肉が、鋼のように刃を噛んでいた。
だが、それだけだった。
剣というものは、腕が伸びきる位置で最も強い。懐に入られれば、ただの長い棒になる。
千尋の右拳が、神崎の鳩尾に沈んだ。
※
音は、しなかった。
ただ、神崎の身体が「く」の字に折れた。
光の大剣が消える。膝が落ちる。両手が地面につく。
嘔吐しかけて、できずに、口を開けたまま動かなくなった。
「そこまで」
ガレスの声が響いた。
訓練場は、静まり返っていた。
誰も、何が起きたのか分かっていなかった。
千尋は左肩を押さえながら、神崎の前まで歩いた。
そして、頭を下げた。
「……勝ってしまいました。申し訳ありません」
※
悪気は、なかった。
東雲千尋という人間は、勝ったら礼をする。負けても礼をする。それが道場で習ったことの全部だった。
相手が咳き込んでいるのに勝ち誇るなど、彼女の中には選択肢として存在しない。
だから彼女は、心から詫びた。
——それが、最も残酷だった。
「…………」
神崎は、顔を上げなかった。
髪が垂れて、表情が見えない。
「……神崎くん。手当てを」
「いらない」
声は、平坦だった。
「……そう、ですか」
「いらないって言ってんだよ」
千尋は少し黙って、それから、もう一度頭を下げた。
「失礼しました」
彼女は円を出た。
背後で、神崎がゆっくりと立ち上がった。
顔を上げたとき、そこにはいつもの笑みが戻っていた。
「いやー、参った参った。油断したわ」
周囲が、ほっとしたように笑った。
「東雲さん強いね。次は本気出すから」
「はい。お願い」
千尋は振り返って、また一礼した。
神崎の頬が、ほんの一瞬、引き攣った。
※
「……なあ、今の見えた?」
円の外で、姫川莉奈が誰にともなく聞いた。
「見えてない」
水城葵が即答する。
「見えてたのは、たぶん一人だけ」
佐伯陽一が、眼鏡を押し上げた。
「東雲さんの《見切り》だと思う。相手の初動を読むやつ。あれで、斬られる前に踏み込んだ」
「じゃあスキルで勝ったってこと?」
「……いや」
佐伯は、少し考えてから首を振った。
「《見切り》って、たぶん『いつ来るか』しか教えてくれない」
「え?」
「『どうすればいいか』は教えてくれない。あの状況で、普通は下がるよ。俺なら下がる。九条さんでも下がると思う」
佐伯は、治癒所へ歩いていく千尋の背中を見た。
「肩を斬らせて前に出るなんて、スキルは言ってくれないって」
誰も、返す言葉がなかった。
※
治癒所で、白石美咲が千尋の肩を診ていた。
「……これ、深いです」
「そうですか」
「そうですか、じゃなくて」
美咲の声が、珍しく尖った。
「避けられなかったんですか」
「避けられなかった」
千尋は、天井を見たまま答えた。
「あの一撃は速い。下がれば追われて、二撃目で終わっていた」
「だから、前に出たんですか」
「はい」
「……肩を、斬られると分かっていて?」
「はい」
美咲の手が、止まった。
「当たる場所は選んだ。腕は落とされたくなかったから」
千尋は、それを事務連絡のように言った。
美咲はしばらく何も言えなかった。
やがて、傷口に手をかざす。淡い光が漏れて、裂けた肉が寄っていく。
「……東雲さん」
「はい」
「怖くないんですか」
千尋は、少し考えた。
「怖い」
「え」
「毎回、怖い。父にもよく言われた。お前は怖がりだから強くなったんだ、と」
彼女は、初めてわずかに笑った。
「怖いから、当たる場所を選ぶ」
※
その日の夕方、訓練場に柊隼人が現れた。
四十日で、三度目だった。
彼は模擬戦にも基礎訓練にも一度も出ていない。名簿には名前があるが、ほとんど王城にいない。
そして今日も、いつも通り血まみれだった。
自分の血ではない。
「柊殿」
ガレスが歩み寄った。
「またですか」
「ああ」
「どこまで行かれた」
「北の砦の、もっと先」
「あの一帯は第二騎士団の作戦区域です。単独で入られては困る」
「三十くらいいた」
隼人は、それだけ言った。
「魔族が。全部斬った」
ガレスの眉が動いた。
「……三十?」
「数えてねえけど、それくらい」
隼人は剣の血を振り落として、鞘に納めた。
周囲の生徒たちが、遠巻きに見ている。誰も近寄らない。
「柊殿。処分の話が出ています」
「ふうん」
「私は止めましたが、次はどうなるか分かりません」
「好きにしろよ」
隼人は興味なさそうに言った。
「訓練場で弱い奴と打ち合って、それで何が身につくんだ」
「連携です」
「いらねえ」
「あなたが死んだ場合、誰も回収に行けない」
「じゃあ死体は置いてけ」
ガレスは黙った。
それから、短く息を吐いた。
「……せめて、行き先だけは残してください」
「なんで」
「回収するためではありません。**次に行く者が、そこで死なずに済むように**です」
隼人が、初めてガレスを見た。
じっと、値踏みするように。
「……あんた、強いのか」
「弱くはありません」
「ふうん」
それだけ言って、隼人は歩き出した。
※
その途中で、彼は足を止めた。
東雲千尋が、治癒の終わった肩を回しながら歩いてくるところだった。
二人はすれ違いざま、同時に足を止めた。
「東雲」
「柊くん」
「勇者に勝ったんだって?」
「はい」
「そうか」
隼人は、少しだけ考えるような顔をした。
「じゃあ、神崎は何番目でもねえな」
「……どういう意味ですか」
「番号がつくのは、上に誰かいる奴だけだ」
「神崎より上ができた。だったら、今までの番号なんざ意味ねえだろ」
東雲は眉を寄せた。
「よく分からない」
「分からなくていい」
隼人は歩き出しかけて、思い出したように振り返った。
「なあ」
「はい」
「あのハズレ、まだ生きてるかな」
千尋の足が、止まった。
周囲にいた何人かも、動きを止めた。
誰も、四十日間、その話をしていなかった。
いや——**していないふりを、していた。**
「……分かりません」
「そうか」
隼人は、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「生きて戻ってきたら、相手してやるって言ったんだけどな」
そして、今度こそ歩き去った。
残された千尋は、しばらくその場に立っていた。
「……東雲さん」
白石美咲が、後ろから追いついてきた。
「今の、柊くん……」
「白石さん」
「はい」
千尋は、拳を握った。
傷の塞がったばかりの肩が、少し痛んだ。
「私は、あの人のことを、一日も忘れていない」
「……はい」
「忘れていないのに、四十日、何もしていない」
美咲は、何も言えなかった。
千尋は空を見上げた。
王都の空は青くて、雲が薄くて、どこまでも平和だった。
※
同じ頃。
死海の森で、黒崎蓮は服の裾を掴まれたまま歩いていた。
掴んでいるのは、この世界で最も強い生き物だった。
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