デュラハン編-3 スタンピードの芽
クラウ山の下り道は、登りよりも静かだった。
いや、正確には、静かすぎた。
風の音がある。
木々の揺れる音もある。
遠くで鳥が鳴く声も聞こえる。
けれど、山そのものが息を潜めているような気配があった。
リオルは、デュラハンから受け取った黒い金属片を握りしめていた。
雷門の欠片。
黒銀の表面には、紫色の細い線が浮かんでいる。
線は山道の先へ伸び、時折ふっと揺れながら、いくつかの方向を示していた。
「……三つあります」
リオルは足を止めた。
リゼが振り返る。
「三つ?」
「魔力溜まりです。山頂から漏れた魔力が、斜面のくぼみや沢に集まっています」
ガルドが周囲を警戒する。
「それぞれに魔物が集まるのか」
「はい。しかも、この線の濃さからすると、一番近い場所にはもう集まり始めています」
ミナが表情を曇らせた。
「急ぎましょう。大きな群れになる前なら、まだ散らせるかもしれません」
リゼはスティックを肩に担いだ。
「散らせる、ね。普通は討伐って言うところだけど」
「討伐で血の匂いや魔力の乱れが増えると、さらに魔物を呼ぶ可能性があります」
リオルは言った。
「今回は、倒すよりも集めないことが大事です」
「相変わらず、やることが難しいわね」
リゼはため息をついたが、嫌そうではなかった。
四人は紫の線を頼りに、山道を外れた。
斜面を下り、苔むした岩場を抜ける。
しばらく進むと、小さな沢に出た。
水は浅い。
けれど、そこに漂う魔力は濃かった。
沢の水面が、わずかに紫色を帯びている。
その周囲に、魔物がいた。
角ウサギ。
小型の牙狼。
羽の黒い大コウモリ。
そして、土の中から半分だけ顔を出している岩トカゲ。
本来なら、同じ場所に集まるはずのない魔物たちだ。
互いに警戒しながらも、沢の魔力に引き寄せられ、離れられずにいる。
「数は……二十前後ね」
リゼが小声で言う。
「今なら倒せない数じゃないけど」
「倒すと、沢の魔力が乱れます」
リオルは水面を見た。
「この沢が、山頂から漏れた魔力を受け止める器になっているんです。魔物はその匂いを嗅ぎつけている」
ガルドが盾を下ろす。
「なら、器を空にするか、匂いを消すか」
「はい」
リオルは頷いた。
「水に付与します」
リゼがすぐに言った。
「水なら好感度ないもんね」
「はい。たぶん」
「たぶんなんだ」
「薬草の件があるので」
「あー……」
リゼは、籠の中で【リオル:+1】を出した陽だまり草を思い出したらしい。
「水がリオルを好きになって押し寄せてきたら困るわね」
「困ります」
「真面目に返さないで」
リオルは沢の水へ手を向けた。
ただし、沢全体ではない。
流れがよどみ、紫の魔力が溜まっている一点。
「極所付与」
淡い光が、沢の水面に落ちた。
「対象、沢のよどみに溜まった魔力の匂い。性質指定――水の流れに乗って薄まりやすさ。二十四時間、増大」
紫色に濁っていた水が、ゆっくりと動き始めた。
よどみがほどけ、魔力が細く伸び、沢の下流へ分散していく。
魔物たちが一斉に顔を上げた。
牙狼が鼻を鳴らす。
角ウサギが耳を揺らす。
大コウモリが羽ばたく。
魔力の濃い匂いが薄れたことで、彼らの興奮が少しずつ弱まっていく。
「おお、効いてる」
リゼが感心したように言った。
「でも、これだけでは不十分です」
リオルは沢の周囲にある苔むした石を見た。
「魔力の匂いが薄くなっても、魔物たちはここに来た記憶で戻ってくる可能性があります」
「魔物の記憶まで操作する気?」
「しません。魔物には付与しません」
「でしょうね」
リオルは沢の周囲の石へ手を向けた。
「対象、この沢の周囲の石の表面。性質指定――ここはもう美味しくない場所だと示す地味さ。二十四時間、増大」
「地味さ?」
リゼが眉を上げる。
「魔物にとって目立たない場所にします」
「それを地味さって言うの、ほんとリオル語よね」
石の表面がわずかにくすんだ。
魔力の反射が鈍くなる。
沢は、魔物にとって魅力のないただの水場へ変わっていった。
すると、角ウサギが一匹、興味を失ったように跳ねて森へ消えた。
それをきっかけに、ほかの魔物も少しずつ散り始める。
牙狼はまだ唸っていたが、ガルドが大盾を一度だけ地面に打ちつけると、群れの端から後ずさった。
リゼは火花で大コウモリを追い払う。
ミナは逃げる魔物が互いにぶつからないよう、声と身振りで進路を分けた。
「そっちは崖です。右へ、右へ行ってください」
「ミナ、魔物に交通整理してるの?」
「混乱すると怪我をしますから」
「優しいにもほどがあるわ」
それでも、不思議と効果はあった。
魔物たちは襲いかかるのではなく、濃い魔力を失った沢から離れていく。
最後に残った岩トカゲが、ずるりと土から出た。
体長は人の腕ほど。
背中に鉱石のような突起がある。
岩トカゲは逃げようとしたが、足元の泥に爪が引っかかって動けなくなっていた。
ミナがすぐに駆け寄ろうとする。
リオルは慌てて止めた。
「待ってください。噛まれるかもしれません」
「でも、あのままだと」
岩トカゲは必死にもがいている。
ガルドが盾を構えた。
「俺が前に立つ」
リゼが小さな火を灯した。
「怖がらせないくらいの明かりにするわ」
リオルは泥へ手を向けた。
「対象、岩トカゲの右前脚に絡む泥。性質指定――爪を手放す諦めの良さ。二十四時間、増大」
泥がゆるみ、岩トカゲの脚が抜けた。
岩トカゲは一瞬こちらを見たあと、慌てて岩陰へ逃げていく。
リオルはほっと息を吐いた。
「よかった」
リゼが横目で見る。
「魔物にも優しいわね」
「無駄に傷つける必要はありません」
「まあ、そこは嫌いじゃないけど」
リゼはそう言ってから、少しだけ気まずそうに目を逸らした。
リオルは気づいていない。
ミナは気づいていて、少しだけ笑った。
◇
最初の魔力溜まりは、ひとまず沈静化した。
だが、雷門の欠片が示す紫の線は、まだ二本残っている。
しかも、そのうち一本は先ほどより濃くなっていた。
「時間が経つほど、魔力が集まっています」
リオルは黒い欠片を見つめる。
「全部を僕たちだけで回るのは危険です。まずギルドへ報告して、人手を集めた方がいい」
ガルドが頷く。
「同感だ。俺たちだけで対処している間に、別の場所で群れが膨らむ可能性がある」
「でも、ギルドに戻る時間が惜しいわね」
リゼが言った。
「何か目印だけでも置けない?」
リオルは少し考え、近くに落ちていた枝を拾った。
「目印なら作れます」
「枝に付与?」
「正確には、枝の影に」
リオルは地面に枝を立て、その影へ手を向けた。
「対象、この枝の影。性質指定――ギルド職員が見つけた時に違和感として気づきやすさ。二十四時間、増大」
「便利だけど、また変な性質ね」
「目立ちすぎると魔物も寄ってくるので、人が気づく程度の違和感にしました」
「なるほど、地味な親切」
さらにリオルは、沢の下流の小石に魔力の流れを示す付与をかけた。
これで、後続の冒険者でも魔力溜まりの状態を確認しやすい。
四人は山道へ戻り、急いで王都へ向かった。
途中、遠くの森から魔物の鳴き声が聞こえた。
単発ではない。
複数の声が重なっている。
リゼが顔をしかめる。
「思ったより早いかも」
「はい」
リオルの声も硬かった。
「魔力に引き寄せられる魔物が、すでに移動を始めています」
ミナが静かに言った。
「王都の人たちには、まだ知らせない方がいいのでしょうか。混乱するかもしれません」
ガルドが答える。
「まずギルドと衛兵隊だ。避難の準備は必要だが、噂だけが広がると道が詰まる」
「はい」
リオルは王都の城壁を見た。
まだ街は平和そうに見える。
市場の声。
馬車の音。
子どもたちの笑い声。
その背後の山で、スタンピードの芽が育っていることを、ほとんどの人は知らない。
リオルは胸の奥に重さを感じた。
力は、誰がためにあるのか。
針鳴りの回廊で問われた言葉が、再び浮かぶ。
今、答えは単純だった。
街の人たちが、いつも通り明日を迎えられるように。
そのために使う。
◇
冒険者ギルドは、報告を受けて一気に慌ただしくなった。
受付嬢エリナは、リオルたちの話を聞くなり顔色を変え、すぐに奥へ走った。
数分後、現れたのはギルド長だった。
名はバルザック。
白髪混じりの短髪に、分厚い腕。
元A級冒険者らしい鋭い目つきをした大男である。
彼はリオルたちを会議室へ通すと、余計な前置きなしに言った。
「雷門、デュラハン、スタンピードの可能性。間違いないんだな」
「はい」
リオルは雷門の欠片を机に置いた。
黒い金属片から、紫の線が二本伸びる。
机の上で、まるで地図のように揺れていた。
バルザックはそれを見て、眉を寄せた。
「魔力溜まりを示しているのか」
「はい。一本はすでに沈静化しました。残りは二箇所。こちらの濃い線は、魔物の集まりが早い可能性があります」
リゼが補足する。
「山頂のデュラハンは敵というより門番よ。こっちを試してきたけど、倒す必要はなかった」
ガルドも頷く。
「撤退者を見逃していた理由もわかった。門を止める力があるか、選別していた」
ミナが静かに言った。
「門が完全に開かなくても、漏れた魔力で魔物が集まっています。早めに散らさないと危険です」
バルザックは腕を組み、しばらく沈黙した。
そして、低い声で言った。
「全冒険者へ緊急招集をかける。C級以上は山麓へ。D級以下は街道の避難誘導と物資運搬。衛兵隊にも連絡する」
エリナがすぐに書類を取り出した。
「はい」
バルザックはリオルを見た。
「君たちには、魔力溜まりの特定と沈静化の指揮を頼みたい」
「指揮、ですか?」
リオルは思わず聞き返した。
「僕たちはまだ結成したばかりのパーティです」
「だが、雷門の欠片を読めるのは君だ。魔力溜まりを散らす方法も、今のところ君の付与術が一番有効だ」
「でも、僕が人に付与することは――」
「しなくていい」
バルザックは即答した。
リオルは目を瞬いた。
ギルド長は真剣な顔のまま続ける。
「報告を聞く限り、君の強みは人を強化することだけではない。地形、空気、水、影、そういうものを変えて戦場を整えることだ。なら、それをやれ」
リオルは少し黙った。
戦場を整える。
道を整え、選ばせるための灯。
デュラハンの言葉と重なる。
「……わかりました」
リオルはゆっくり頷いた。
「ただし、魔物を必要以上に集めないよう、討伐班には強い魔法や血の匂いが広がる攻撃を控えてもらいたいです。追い払う、進路をずらす、魔力の匂いを薄める。それを優先してください」
バルザックはすぐにエリナへ視線を送った。
「記録しろ」
「はい」
リゼが口を挟む。
「魔法班は照明と誘導に回した方がいいわ。大爆発は最後の手段。音も魔物を寄せるから」
ガルドも言う。
「盾役は山道の分岐に配置。魔物を止めるというより、王都側へ流れないよう壁になる」
ミナが続けた。
「治癒師は前線だけではなく、避難所にも配置してください。魔力酔いの人が出るかもしれません。水と休憩場所も必要です」
バルザックは四人を見た。
そして、少しだけ口元を緩めた。
「結成したばかりにしては、ずいぶん実戦慣れした指示を出す」
リゼが肩をすくめる。
「最近、初心者向け依頼ですら初心者向けじゃなかったので」
「なるほどな」
バルザックは立ち上がった。
「では、すぐ動く。君たちは三十分後に西門へ。そこから先は、現地で判断を任せる」
会議室を出る直前、エリナが小さな声で言った。
「皆さん、どうか無事に戻ってください」
リオルは振り返った。
「はい。戻ります」
その言葉は、以前より自然に出た。
◇
三十分後。
王都西門の前には、冒険者たちが集まっていた。
剣士、槍使い、魔術師、弓使い、盾役、治癒師。
普段なら酒場で騒いでいる者たちも、今日は真剣な顔をしている。
スタンピードという言葉は、冒険者にとって冗談では済まない。
街を飲む災害。
準備が遅れれば、多くの命が失われる。
リオルは人前に立つことに慣れていなかった。
しかも、今から彼らに指示を出さなければならない。
胸が苦しくなる。
誰かに付与するわけではない。
それでも、自分の言葉で人を動かすことが怖かった。
間違えたらどうする。
自分の判断で誰かが傷ついたら。
その時、ガルドが隣に立った。
「必要なことだけ言えばいい」
リゼも反対側に立つ。
「細かい説明は私たちが補足するわよ」
ミナが後ろで微笑む。
「大丈夫です。皆さん、街を守るために集まっています」
リオルは三人を見た。
小さく息を吸う。
そして、冒険者たちへ向き直った。
「これから向かうのは、クラウ山麓の魔力溜まりです」
ざわめきが起こる。
リオルは続けた。
「目的は、魔物を倒すことではありません。魔物が集まる原因になっている魔力の匂いを薄め、群れを王都側へ向かわせないことです」
何人かの冒険者が顔を見合わせる。
「倒さないのか?」
「倒す必要がある場合は倒します」
リオルははっきり言った。
「でも、むやみに血や大きな魔力を撒くと、さらに魔物を呼びます。今回は、追い払う、分断する、誘導する。この三つを優先してください」
リゼがスティックを掲げる。
「魔術師は大火力より光と音の制御! 爆発させたい人は、最後まで我慢!」
数人の魔術師が気まずそうに視線を逸らした。
ガルドが大盾を鳴らす。
「盾役は王都側の道を塞ぐ。無理に前へ出るな。魔物を倒すより、流れを止めろ」
ミナも声を出す。
「治癒師は前線に固まりすぎないでください。魔力酔いが出た人は、すぐ後方へ。疲労も軽視しないでください」
リオルは雷門の欠片を握った。
紫の線が、王都の外へ伸びていく。
「僕たちは先行して、魔力溜まりを沈静化します。皆さんは後続で、散った魔物が王都側へ流れないよう支えてください」
冒険者たちの表情が変わった。
最初は戸惑いがあった。
だが、役割が明確になれば動ける。
それが冒険者だ。
バルザックが最後に大声で告げた。
「全員、生きて戻れ。これは討伐戦ではなく、防衛戦だ。帰路を失うな!」
その言葉に、リオルは少し驚いた。
帰路。
まるで、自分たちの名を知っているかのようだった。
リゼが小声で笑う。
「ギルド長、わかってるじゃない」
「はい」
リオルは頷いた。
そして、四人は先頭に立って西門を出た。
◇
二つ目の魔力溜まりは、山麓の古い採石場にあった。
切り出された岩が段々に積み上がり、中央に雨水の溜まった大きな窪地がある。
そこに、魔力が溜まっていた。
先ほどの沢とは違う。
こちらは濃い。
紫ではなく、黒紫に近い。
そして、すでに魔物が多かった。
牙狼の群れ。
岩トカゲの群れ。
大コウモリの群れ。
さらに、採石場の奥には、三メートル近い巨体の魔物がいた。
赤黒い毛並み。
湾曲した二本の角。
巨大な腕。
「オーガ……」
ガルドが低く呟いた。
リゼの表情が険しくなる。
「しかも魔力酔いしてる。目が赤い」
ミナも息を呑む。
「このままだと、ほかの魔物を巻き込んで暴れます」
リオルは雷門の欠片を握った。
紫の線は、採石場中央の窪地へまっすぐ伸びている。
「あそこが中心です。窪地に溜まった水と岩粉が、魔力を抱え込んでいます」
「なら、水を流す?」
リゼが聞く。
「はい。ただし、下流を間違えると王都側へ魔力を流してしまいます」
ガルドが地形を見る。
「北側に古い排水路がある。山の裏手へ流せるかもしれん」
「使えます」
リオルは頷いた。
「ただ、排水路が岩で塞がっています」
リゼがスティックを握る。
「壊す?」
「大きな音を立てると魔物が暴れます」
「じゃあ、どうするのよ」
リオルは採石場の斜面を見た。
積まれた岩。
古い排水路。
窪地の水。
魔物たちの位置。
そして、オーガ。
オーガは魔力に酔い、今にも暴れ出しそうに肩を上下させている。
時間は少ない。
「まず、魔物の注意を中心から逸らします」
リオルは近くの岩壁へ手を向けた。
「対象、採石場西側の岩壁に付着した魔力の粉。性質指定――今だけ、少しだけ美味しそうに見える匂い。二十四時間、増大」
リゼが目を丸くする。
「わざと集めるの?」
「中心から離すためです。西側は王都と逆方向で、逃げ道もあります」
岩壁が淡く光る。
魔物たちの一部が、窪地から西側へ顔を向けた。
牙狼が動く。
岩トカゲも続く。
リゼが小さな火花を西側のさらに奥へ飛ばす。
「こっちよ、こっち」
火花は攻撃ではない。
光で誘導する。
ミナは後方の冒険者たちへ合図を送った。
「西側へ流れた魔物は追わず、王都側へ戻らないよう見てください!」
冒険者たちが動き出す。
盾役が道を塞ぎ、弓使いが威嚇射撃で進路を調整する。
少しずつ、魔物の群れが分断されていく。
しかし、オーガだけは動かなかった。
採石場中央で、赤い目をぎらつかせている。
魔力に強く酔っている。
リオルの付与した匂いでは、注意を逸らせない。
「大物は残るわけね」
リゼが言った。
オーガが唸る。
次の瞬間、巨大な腕で近くの岩を掴み、こちらへ投げた。
「来るぞ!」
ガルドが前に出る。
岩塊が唸りを上げて飛んでくる。
リオルは岩ではなく、岩の進路にある空気へ手を向けた。
「対象、飛来する岩塊の前方空気。性質指定――重いものを受け止めるための深呼吸。二十四時間、増大!」
岩塊の速度がわずかに落ちる。
ガルドが盾で受ける。
轟音。
盾が軋むが、ガルドは踏みとどまった。
ミナがすぐにガルドの足元の岩を叩く。
「えいっ!」
ぽこん。
小さな回復が広がる。
ガルドの腕に力が戻る。
「助かる!」
リゼが火線を放つ。
だが、オーガに当てるのではない。
オーガの足元の水たまりを照らし、そこに流れる魔力を浮かび上がらせる。
「リオル、足元の魔力が絡んでる!」
「見えています!」
オーガは、窪地の魔力に足元から縛られている。
自分の意思で残っているというより、濃い魔力に酔わされ、動けなくなっている。
リオルは水へ手を向けた。
「対象、オーガの足元にまとわりつく魔力水。性質指定――酔わせる力の抜けやすさ。二十四時間、増大!」
黒紫の水が薄まり、オーガの赤い目が一瞬だけ揺らいだ。
だが、まだ足りない。
オーガが再び岩を掴む。
今度は二つ。
リゼが息を呑む。
「連投はきついわよ!」
リオルは採石場の北側、塞がった排水路を見る。
あそこを開けば、窪地の魔力水を山の裏手へ流せる。
だが、大きな音を立てずに岩をどかす必要がある。
「リゼさん、排水路の岩を温めてください。割らないで、表面だけ」
「了解!」
リゼが細い火を放つ。
岩の表面がじわりと温まる。
リオルはその岩へ付与した。
「対象、排水路を塞ぐ岩の接地面。性質指定――少しずつ譲る気持ち。二十四時間、増大!」
「岩に譲らせた!」
「摩擦を下げています!」
岩が、ぎぎ、と小さく動いた。
音は大きくない。
ガルドが盾でオーガの岩投げを受け止める間に、リオルはさらに排水路の底へ付与する。
「対象、排水路の溝。性質指定――水を裏手へ案内する思い出しやすさ。二十四時間、増大!」
古い排水路に残っていた溝が淡く光る。
塞いでいた岩が少しずつずれ、窪地の水が流れ始めた。
黒紫の魔力水が、王都とは逆の山裏へ細く流れる。
採石場の魔力濃度が下がっていく。
魔物たちがざわめいた。
牙狼の群れは鼻を鳴らし、西側へ逃げる。
岩トカゲも岩陰へ散っていく。
大コウモリは空へ舞い上がり、山の奥へ消えた。
オーガだけが、まだ立っている。
だが、その目の赤みは薄れていた。
ミナが言った。
「酔いが抜けかけています!」
「なら、最後は追い払うだけね」
リゼが火花を大きく広げる。
攻撃ではない。
光の壁だ。
ガルドが盾を鳴らし、王都側への道を塞ぐ。
リオルはオーガの背後、山奥へ続く岩道へ手を向けた。
「対象、山奥へ続く岩道の影。性質指定――安全な逃げ道としてのわかりやすさ。二十四時間、増大!」
岩道の影が、柔らかく揺れた。
オーガはしばらく四人を見ていた。
そして、低く唸ると、背を向けて山奥へ去っていった。
採石場に、静けさが戻る。
リゼが大きく息を吐いた。
「倒さずにオーガを帰した……」
ガルドが盾を下ろす。
「なかなかできることではない」
ミナはほっとしたように微笑む。
「怪我人も少ないです」
リオルは排水路を見つめていた。
魔力水は山裏へ流れている。
だが、完全に消えたわけではない。
「ここは後で見張りが必要です。魔力は薄まりましたが、また溜まる可能性があります」
後続の冒険者が頷いた。
「任せろ。ギルドに報告して交代を出してもらう」
「お願いします」
リオルは雷門の欠片を見た。
紫の線は、残り一本。
だが、その線はこれまでで一番濃かった。
しかも、揺れ方が違う。
ただ魔力溜まりを示しているのではない。
何かが、こちらへ動いている。
「……まずいです」
リオルの声に、三人が反応した。
「どうしたの?」
リゼが尋ねる。
「最後の魔力溜まりが、移動しています」
ガルドの表情が険しくなる。
「魔力溜まりが動くのか」
「普通は動きません」
リオルは黒い欠片を握りしめた。
「たぶん、魔力を大量に抱えた魔物が動いています」
ミナが息を呑む。
「それが群れを連れている?」
「はい」
紫の線の先。
山の奥から、低い地鳴りが聞こえた。
どん。
どん。
どん。
地面がかすかに震える。
採石場の岩粉が、細かく跳ねた。
後続の冒険者たちがざわめく。
リゼはスティックを握り直した。
「……今度は、散らすだけじゃ無理そうね」
ガルドが大盾を構える。
「防衛線を下げるか」
リオルは雷門の欠片を見つめた。
紫の線は、王都側ではなく、今のところ山麓の谷道へ向かっている。
しかし、このまま進めば、やがて街道へ出る。
そこから先は王都だ。
「ここで止める必要があります」
リオルは静かに言った。
「ただし、討伐だけではなく、群れを割ります。中心の魔物から、周囲の魔物を引き剥がす」
リゼが小さく笑った。
「また無茶なことを言い出したわね」
「でも、やるんでしょ」
ガルドが言う。
ミナは杖を握り、頷いた。
「はい。皆さんで」
リオルは三人を見た。
恐怖はある。
不安もある。
だが、ひとりで抱えている感じはしなかった。
地鳴りが近づいてくる。
山の奥から、黒い影が見えた。
巨大な猪のような魔物。
背中に紫の雷紋を帯び、周囲に牙狼や岩トカゲを従えている。
雷門の魔力を浴びた、群れの核。
スタンピードの芽が、ついに形を持って現れた。
リオルは息を吸う。
そして、足元の岩盤へ手を伸ばした。
「極所付与」
淡い光が、採石場から谷道へ走る。
「対象、この場にいる全員の帰るべき方向。性質指定――迷った時に見失わない目印としての見えやすさ。二十四時間、増大」
王都とは逆。
退避路。
支える場所。
戻る場所。
足元に、淡い帰路の灯がともる。
「戦います」
リオルは言った。
「でも、帰る道は消しません」
巨大な雷猪が、谷道の奥で咆哮した。




