デュラハン編-4 雷猪と、帰らせる戦い
巨大な猪型の魔物が、谷道の奥で咆哮した。
その声は、ただの獣の叫びではなかった。
山肌を震わせ、足元の小石を跳ねさせ、胸の奥にまで響く低い雷鳴だった。
体高はガルドの盾よりも高い。
赤黒い剛毛の間には、紫色の雷紋が走っている。
湾曲した二本の牙は岩を削ったように太く、先端には黒い魔力が溜まっていた。
その背後には、牙狼、岩トカゲ、大コウモリ、小型の角ウサギまでが混ざった魔物の群れ。
本来なら同じ群れになどならない魔物たちが、雷猪の背中に走る魔力に引き寄せられ、一団となって谷道を進んでいる。
「……あれが、群れの核」
リオルは雷門の欠片を握りしめた。
黒い金属片から伸びる紫の線は、まっすぐ雷猪へ向かっている。
魔力溜まりが移動しているのではない。
魔力溜まりそのものを、雷猪が背負っている。
リゼがスティックを構えた。
「でっかい猪ね。焼いたら何人前かしら」
「食べる前提で見ないでください」
「冗談よ。半分くらい」
「半分は本気なんですね」
ガルドが大盾を地面に下ろす。
「突進を受けるなら、正面は俺だ」
ミナがすぐに言った。
「無理に真正面から受けないでください。あの牙、ただの物理攻撃ではありません」
「わかっている」
ガルドの視線は、雷猪の牙に向いていた。
紫の雷が牙の根元から先端へ流れている。
あれを盾で受ければ、衝撃だけでなく雷の魔力も流れ込むだろう。
リオルは周囲を見た。
採石場。
段々に積まれた岩。
北側へ伸びる古い排水路。
王都側へ続く谷道。
山奥へ戻る獣道。
後続の冒険者たちは、まだ完全には配置につけていない。
盾役が数人、王都側の道を塞ごうとしているが、雷猪の突進を真正面から止めるには心許ない。
ここで乱戦になれば、散らした魔物たちが再び興奮して王都側へ流れる。
倒すだけではだめだ。
群れを割り、雷猪から切り離し、王都とは逆方向へ逃がす必要がある。
「リゼさん、群れ全体を攻撃しないでください」
「わかってる。派手にやりたい気持ちは、今だけ壺にしまってる」
「壺……?」
「心の中の爆発壺よ」
「割らないでくださいね」
「割らないわよ、今は」
リオルは雷猪の足元を見た。
魔物たちは雷猪そのものを見ているのではない。
雷猪の背に溜まった魔力へ引き寄せられている。
なら、まずは匂いを分ける。
「極所付与」
リオルは採石場の西側、王都とは逆方向の岩壁に手を向けた。
「対象、西側岩壁に残る雷門の魔力粉。性質指定――雷猪の背中の魔力に似た匂いとしての紛らわしさ。二十四時間、増大」
岩壁が、ほんのり紫色に光った。
魔物の群れの端にいた牙狼たちが、一斉に鼻を動かす。
リゼがすぐに小さな火花を岩壁の奥へ飛ばした。
「こっち。こっちの方が美味しそうよ」
火花は攻撃ではない。
道案内の灯だ。
数匹の牙狼が雷猪から視線を外し、西側へ走り出した。
後続の冒険者たちがざわめく。
「群れが割れたぞ!」
「追うな! 王都側に戻すな!」
ガルドが大声で指示する。
盾役たちが西側と王都側の間に立ち、逃げる魔物の進路を調整した。
しかし、雷猪が低く唸ると、離れかけた牙狼たちの足が止まった。
雷猪の背中の雷紋が強く光る。
紫の魔力が波のように広がり、魔物たちを再び引き寄せる。
「戻される!」
リゼが叫んだ。
「雷猪が群れを束ねているんですね」
ミナの声が緊張する。
「魔力だけではなく、恐怖か興奮も流しています」
リオルは雷猪を見た。
雷猪自身も正気ではない。
目は赤く、呼吸は荒い。
自分が群れを率いているというより、雷門の魔力に酔わされ、周囲を巻き込んで暴走している。
殺すべき敵ではない。
だが、放置すれば災害になる。
「まず、雷猪の興奮を下げます」
リオルが言うと、リゼが眉をひそめた。
「あのサイズの興奮を下げるって、どうやって?」
「直接ではなく、足元から」
雷猪が地面を蹴った。
谷道の岩盤が割れ、雷を帯びた突進が始まる。
王都側へ向かえば、盾役たちを蹴散らして街道へ出る。
「来ます!」
リオルが叫ぶ。
ガルドが正面へ立つ。
だが、リオルはガルドの足元ではなく、雷猪が踏み込む岩盤の数歩先へ付与した。
「対象、雷猪の進路上にある岩盤の表面。性質指定――走るよりも踏みしめたくなる落ち着き。二十四時間、増大!」
雷猪の蹄が光った岩盤に触れた瞬間、突進の速度がわずかに落ちた。
滑るのではない。
止まるのでもない。
足場が妙に安定しすぎて、全力で駆け抜ける勢いが削がれる。
「今です、ガルドさん!」
「応!」
ガルドは盾を構え、雷猪の真正面ではなく、肩口に入った。
突進を受け止めるのではなく、進路を斜めへずらす。
リオルが盾前方の空気へ手を伸ばす。
「対象、ガルドさんの盾前方の空気層。性質指定――突進を横道へ案内する案内板としてのわかりやすさ。二十四時間、増大!」
雷猪の巨体が盾にぶつかった。
轟音。
ガルドの足が岩盤を削る。
だが、衝撃は真正面からではなく、横へ流れた。
雷猪の進路が王都側から外れ、採石場の中央へ逸れる。
「ぐっ……重いな!」
ガルドが歯を食いしばる。
ミナが駆け寄り、ガルドの足元の岩を叩いた。
「えいっ!」
ぽこん。
小さな打撃が、疲労回復に変わって広がる。
ガルドの腕に力が戻る。
「助かる!」
「まだ来ます!」
リオルが叫ぶ。
雷猪は止まらない。
むしろ進路を逸らされた怒りで、背中の雷紋がさらに強く光った。
周囲の魔物たちが再び興奮し、王都側へ走りかける。
リゼが火花を広げた。
「そっちはだめ!」
火花が王都側の道に光の壁を作る。
熱は弱い。
だが、魔物たちは本能的に明るい壁を嫌がり、横へ逃げる。
「弓使い、音だけで脅して! 当てなくていい!」
リゼが後続へ叫ぶ。
弓使いたちが矢を地面へ打ち込む。
ぱん、ぱん、と乾いた音がして、魔物の群れの向きが少しずつ変わった。
ミナも声を張る。
「怪我をした魔物に近づきすぎないでください! 追い詰めると反撃します!」
「魔物の心配までしてる場合か!?」
若い剣士が叫ぶ。
ミナは真剣な顔で返した。
「追い詰めすぎると、人も怪我します!」
「そ、そういうことか!」
剣士は慌てて距離を取った。
リゼが小声で言う。
「ミナ、説得の仕方が上手くなってる」
「必死なだけです」
「それがいいのよ」
リオルはそのやり取りを聞きながら、雷猪の動きを見ていた。
背中の雷紋。
牙に溜まる魔力。
蹄から地面へ流れる紫の筋。
中心は背中ではない。
雷猪の右牙の根元に、小さな黒い破片が刺さっている。
「見えました」
リオルが呟く。
「何が?」
リゼが尋ねる。
「雷門の欠片です。あの猪、右牙の根元に欠片を取り込んでいます。あれが魔力を集めて、群れの核にしている」
「抜けば止まる?」
「おそらく。ただし、牙ごと砕くと魔力が爆ぜます」
ガルドが盾を構え直す。
「どう抜く」
リオルは考える。
雷猪を殺さず、牙を砕かず、欠片だけを外す。
普通なら無理だ。
だが、リオルの付与は普通ではない。
「欠片そのものに、外れたくなる性質を付与したいですが……」
「魔物に付与するわけじゃないでしょ?」
リゼが言う。
「欠片は物です」
「でも、雷猪に刺さっています」
「あー、そこ気にするのね」
リオルは真剣だった。
雷猪を操作したくはない。
魔物であっても、無理に心や体を支配したくない。
けれど、放置すれば群れが街を襲う。
ここでためらいすぎれば、人も魔物も傷つく。
ミナが静かに言った。
「リオルさん。欠片を外すのは、雷猪を自由にすることでもあります」
リオルはミナを見た。
「自由に」
「はい。あの子も、魔力に酔わされているように見えます」
リゼが頷く。
「確かに、好きで群れの親玉やってる感じじゃないわね」
ガルドも短く言う。
「なら、外そう」
リオルは息を吸った。
そうだ。
これは縛る付与ではない。
選べる状態に戻すための付与だ。
「わかりました」
リオルは雷猪へ向き直る。
「まず、動きを止めます。ただし倒しません」
リゼがにやりと笑った。
「難しい注文ね。でも、うちら向きかも」
「リゼさん、右牙の根元を照らしてください。攻撃ではなく、欠片の位置を見えるように」
「了解!」
リゼの火花が雷猪の顔周りを舞う。
雷猪は嫌がって頭を振るが、火花は熱を持たず、ただ光で右牙の根元を照らした。
黒い破片が見えた。
紫の雷を吐き出す小さな棘のような欠片。
「ガルドさん、正面ではなく左肩を押さえてください。頭を右に振らせないように」
「任せろ!」
ガルドが踏み込む。
雷猪の突進を真正面で受けず、左肩側に盾を当てる。
リオルはその盾ではなく、盾が接する周囲の空気に付与した。
「対象、盾と雷猪の左肩の間にある空気。性質指定――押さえつけず、寄り添って勢いを止める緩衝材としての厚み。二十四時間、増大!」
空気が弾力を持つ。
雷猪の勢いが、盾に直接ぶつからず、分厚い布に包まれるように鈍った。
ガルドの体への負担も軽くなる。
「ミナさん!」
「はい!」
ミナは雷猪の前脚の近くへ走った。
危険な距離だ。
だが、リオルの足元の灯が、安全な一歩を示している。
ミナは雷猪の蹄の前にある岩を叩いた。
「えいっ!」
ぽこん。
小さな衝撃。
岩がわずかにへこみ、雷猪の前脚がそこに入る。
転倒ではない。
姿勢を固定するための、ほんの一瞬の足止め。
同時に、ミナの回復が仲間へ巡る。
「今!」
リオルは右牙の根元に刺さった欠片を見る。
雷猪本体ではなく、欠片の周囲にこびりついた黒い魔力の膜。
そこを対象にする。
「極所付与!」
淡い光が、リゼの火花を伝って欠片の周囲へ届いた。
「対象、右牙の根元に刺さる雷門欠片を固定している魔力膜。性質指定――ここはもう居場所ではないと気づきやすさ。二十四時間、増大!」
黒い魔力膜が震えた。
欠片が、牙の根元から少し浮く。
雷猪が激しく暴れた。
「まだ外れない!」
リゼが叫ぶ。
「もう一押し必要です!」
リオルは焦る。
欠片に直接付与すべきか。
だが、欠片は雷猪の体内に半ば食い込んでいる。
下手に引き抜くと傷が広がる。
その時、ミナが叫んだ。
「私が叩きます!」
「どこをですか!?」
「空気を!」
リゼが思わず笑いそうになる。
「空気ぽこん、また来たわね!」
ミナは真剣だった。
白い杖を握り、右牙の少し手前の空間へ踏み込む。
雷猪が頭を振る。
危ない。
ガルドが盾で左肩を押さえ、リオルの空気の緩衝材が衝撃を受ける。
リゼの火花が雷猪の視界を逸らす。
ミナは一瞬だけ生まれた隙間に、杖を振った。
「えいっ!」
ぽこん。
杖が叩いたのは、欠片の前の空気。
リオルはその瞬間を逃さなかった。
「対象、ミナさんの打撃が通った空気。性質指定――欠片だけに届く細い指先としての器用さ。二十四時間、増大!」
空気の衝撃が、欠片だけを押した。
雷猪の肉を裂かず、牙を砕かず、固定していた魔力膜だけを剥がす。
ぱきん。
黒い欠片が外れ、宙へ飛んだ。
リオルは反射的に手を伸ばす。
だが、直接掴むのは危険だ。
「対象、欠片の落下地点の岩粉。性質指定――熱いものを優しく受け止める灰としての柔らかさ。二十四時間、増大!」
岩粉がふわりと舞い、黒い欠片を包み込んだ。
欠片は地面に落ち、紫の雷を数度放ったあと、静かになった。
雷猪の背中の雷紋が、急激に薄れていく。
赤かった目も、少しずつ暗い茶色へ戻った。
魔物の群れが、一斉にざわめいた。
核を失ったのだ。
統率が切れる。
今が一番危ない。
恐怖に駆られた魔物たちが、どこへ走るかわからない。
「全員、王都側を塞いで!」
ガルドが叫んだ。
盾役たちが道を固める。
リゼが西側と山奥へ火花の道を作る。
「こっちへ逃げなさい! 王都側はなし!」
ミナが負傷した冒険者を下げながら、声を張る。
「追わないでください! 逃がしてください!」
リオルは採石場全体へ目を向けた。
広すぎる。
一度に全部は無理だ。
極所付与は限定するほど強い。
なら、狙うべきは王都へ続く谷道の入口。
「極所付与」
リオルは谷道の入口に散らばる小石へ手を向けた。
「対象、王都側へ続く谷道入口の小石と影。性質指定――今だけ、魔物にとって行きたくない気配としての薄気味悪さ。二十四時間、増大!」
谷道の入口が、見た目にはほとんど変わらないまま、妙に冷たい雰囲気を帯びた。
魔物たちはその入口を避けた。
逆に、リゼの火花が示す山奥の道へ流れていく。
群れが割れる。
散る。
山へ戻る。
雷猪はしばらくその場に立っていた。
暴れない。
ただ、荒い息を吐きながら、リオルたちを見ている。
ガルドは盾を構えたまま言った。
「まだ来るか」
雷猪は一歩、前へ出た。
リゼがスティックを握る。
ミナも身構えた。
だが雷猪は、突進しなかった。
大きな頭を少し下げる。
それは感謝ではないかもしれない。
ただ、魔力酔いから覚めて、敵意を失っただけかもしれない。
けれど、少なくとももう群れの核ではなかった。
雷猪は踵を返し、山奥へゆっくりと歩き去っていった。
リオルはその背中を見送った。
「……よかった」
リゼがその場に座り込む。
「はあああ。今の、かなり危なかったわよ」
ガルドも盾を下ろした。
「全員、生きているな」
ミナが周囲を見回す。
「大きな怪我人はいません。打撲と魔力酔いが数名です」
後続の冒険者たちから、少し遅れて歓声が上がった。
「止めた……!」
「スタンピードにならなかったぞ!」
「すげえ、本当に群れを散らした!」
リオルはその声に戸惑い、少しだけ後ずさった。
リゼが横から小声で言う。
「逃げない」
「逃げてません」
「半歩下がった」
「それは……癖です」
「じゃあ半歩戻りなさい」
リオルは困った顔をしながらも、半歩前へ戻った。
ミナがくすっと笑う。
ガルドも小さく頷いた。
その時だった。
山頂の方角から、黒い雷が落ちた。
一度目。
音はない。
しかし、空が一瞬だけ暗くなり、地面が低く震えた。
リオルは雷門の欠片を見た。
黒い金属片の表面に、新たな亀裂が入る。
「……黒雷」
デュラハンは言っていた。
三度、黒雷が落ちるまで。
今のが、その一度目だとすれば。
リゼが空を見上げる。
「今ので終わりじゃないわよね」
「はい」
リオルは静かに答えた。
「群れは散らしました。でも、雷門そのものはまだ閉じていません」
ガルドが山頂を見る。
「デュラハンのところへ戻る必要があるか」
「おそらく」
ミナが傷ついた冒険者へ応急処置をしながら言った。
「でも、今すぐ全員で山頂へ向かうのは危険です。負傷者を戻し、ギルドへ報告しないと」
リオルは頷いた。
「まずは王都側の安全確認です。それから、雷門を閉じる方法を探します」
地面に落ちた、雷猪から外れた黒い欠片。
リオルはそれを、岩粉ごと慎重に布で包んだ。
表面には、デュラハンから渡された欠片とよく似た文様が刻まれている。
雷門の一部。
封印を壊すものではなく、もしかすると、閉じるためにも必要なもの。
リオルはその重さを感じながら、山頂の黒雲を見上げた。
スタンピードの芽は、ひとつ摘んだ。
だが、雷門はまだ開きかけている。
そして門番であるデュラハンは、石像となって今も山頂で封印を支えている。
敗者には退路を。
勝者には重き道を。
リオルはその言葉を思い出した。
今回は、誰も倒さずに済んだ。
だが次は、門そのものと向き合わなければならない。
リゼが立ち上がり、服についた岩粉を払った。
「帰るわよ、リオル。まずは報告と休憩。無理して倒れたら、帰路の灯の名折れでしょ」
「はい」
リオルは頷いた。
帰る道は、まだ足元に淡く光っている。
その灯を追って、四人と冒険者たちは王都へ戻り始めた。
背後の山では、黒雲が静かに渦を巻いている。
二度目の黒雷が落ちる前に、雷門を閉じる方法を見つけなければならない。
デュラハン編は、まだ終わらない。




