炎の指輪編-5 爆発音三倍で勝つ
炎の指輪は、確かに揺れた。
第三火室の奥。
赤く揺らめく巨大な炎の鏡。
その黒い枠の上部にはまった小さな指輪が、リゼの爆発音に反応して、わずかに傾いたのだ。
そこまでは到達した。
だが、届かない。
音は燃えない。
けれど、音が通った空気の振動は燃やされる。
熱の抜け殻は燃やせた。
けれど、鏡の処理能力はまだ限界に届かない。
火花も、小石も、影も、真空さえも燃やされた。
あらゆるものを映し、あらゆるものを燃やす鏡。
リオルたちは第三火室から撤退し、第二火室手前の岩棚で作戦を練り直していた。
リゼは焦げた髪の先を指でつまみながら、炎の指輪がある方角をじっと睨んでいた。
「悔しい」
第一声が、それだった。
ミナが温かい薬湯を差し出す。
「まず飲んでください。体が冷えています」
「飲む。でも悔しい」
「はい」
リゼは素直に薬湯を受け取り、ひと口飲んだ。
ガルドは盾の焼けた縁を確認しながら言った。
「指輪は動いた。完全に無理ではない」
「そこが余計に悔しいのよ」
リゼは頬を膨らませる。
「あと少しだったのに。爆発音をもっと強く入れられれば、外せるかもしれないのに」
「洞窟内で全力の爆発音は危険です」
リオルが言った。
「わかってる」
「崩落の可能性もあります」
「わかってる」
「僕たちの耳にも危険が――」
「わかってるってば!」
リゼは言ってから、少しだけ肩を落とした。
「でもさ」
彼女はスティックを見つめた。
「どうせなら、一回くらい全力でぶちかましたいじゃない。あの鏡、私の火を全部燃やすのよ? 火属性魔術師として、ちょっと納得いかない」
リオルは何も言わなかった。
リゼは続ける。
「それに、炎の指輪を取りに来た理由が爆発音三倍なのよ。最後の決め手が爆発音だったら、最高じゃない」
その気持ちは、リオルにも少しわかった。
リゼにとって爆発音三倍は、ただの欠点ではない。
人に笑われても、自分の魔法らしさとして受け入れてきたものだ。
その音で、炎の鏡に勝つ。
それはきっと、リゼにとって意味がある。
だが、危険もある。
リオルは黒い岩に書いた図を見つめた。
鏡は熱を映す。
影を映す。
物体を映す。
火も燃やす。
真空も燃やす。
音そのものは燃やさないが、空気の振動は燃やす。
そして、鏡は学習する。
こちらが試した手に、次々と対応してきた。
だが――。
「……重大な盲点がありました」
リオルがぽつりと言った。
リゼが顔を上げる。
「何?」
「鏡は、リゼさんの火を燃やしました。音の通った空気も燃やしました。僕たちの影や熱も燃やしました」
「そうね。腹立つくらいに」
「でも、リゼさんの詠唱そのものは燃やしていません」
リゼが目を瞬いた。
「詠唱?」
「はい。無詠唱とはいっても、魔法式の処理が消えているわけではありません。リゼさんの中で、詠唱に相当する魔法式が高速処理されているはずです」
「まあ、そうね。口で唱えないだけで、魔法式は組んでる」
「それから、僕の付与術そのものも燃やされていません」
ガルドが低く言った。
「確かに。付与した対象は燃やされるが、付与の術そのものは燃やされていない」
ミナも頷く。
「鏡は、発動後に形を持ったものを燃やしているんですね」
「はい」
リオルは続けた。
「鏡は処理能力が高い。でも、まだ限界に到達していない。だから逆に考えます」
リゼが身を乗り出す。
「逆に?」
「鏡の処理能力を信じます」
「信じる?」
「はい。鏡が、洞窟を崩落させるような衝撃波をそのまま放置するとは思えません。これまでの反応を見る限り、鏡は危険な空気の振動も燃やして処理します」
リゼの目が輝き始めた。
「つまり、爆発音は残るけど、衝撃波は鏡が燃やして消してくれる?」
「可能性があります」
「すごく都合のいい賭けね」
「はい」
リオルは真剣だった。
「でも、これまで鏡は、こちらが作った危険な経路や振動をすぐに燃やしました。なら、大きな爆発音を大量に送り込めば、鏡は音を消せないまま、空気の衝撃波だけを処理し続けることになります」
ガルドが腕を組む。
「音は鏡に効く。衝撃波は鏡が燃やす。洞窟への物理的な影響は減る」
「はい」
ミナが不安そうに言う。
「でも、それを私たちが第三火室で直接やると、私たちも危険です」
「だから、僕たちはいません」
リオルは第二火室の黒芯の炎を見た。
熱を奪う炎。
リゼの火すら吸い取る、厄介な炎。
だが、今回はそれを利用する。
「第二火室の特性を使います。リゼさんの火魔法が、リゼさんから離れて吸われる瞬間があります。その瞬間の詠唱……正確には、魔法式の発動直前の形を、一時的に透明なままパックします」
リゼが固まった。
「詠唱をパック?」
「はい」
「私、無詠唱なんだけど」
「だからこそ、短く圧縮された魔法式を取り出しやすいかもしれません」
「いや、言ってることはわかるような、わからないような……」
リオルは真剣に説明する。
「火は鏡に燃やされるかもしれません。でも、詠唱パックに込めた“爆発音を発生させる構造”は、火が消されても残る可能性があります。炎の鏡が燃やせるのは、発動後の火や衝撃波。詠唱そのものは、これまで燃やされていません」
リゼはゆっくりと口元を上げた。
「つまり、私の火魔法を、爆発音だけ残る爆弾みたいにして、鏡に送り込む」
「はい。ただし、爆弾ではありません。火は消える前提です。残るのは爆発音です」
「最高じゃない」
「最高かどうかは、安全確認次第です」
「最高よ」
リゼは断言した。
ガルドが言う。
「俺たちはどう動く」
「第三火室に詠唱パックを送ったら、僕たちは撤退します。途中で各部屋の仕切りに、付与で厚くした壁を貼ります」
「壁を貼る?」
ミナが首をかしげる。
「はい。洞窟内の既存の区切りや扉、岩棚に対して、音と衝撃が抜けにくくなる付与を重ねます。直接壁を作るのではなく、壁としての性質を厚くします」
リゼが笑う。
「壁の壁らしさを増やすわけね」
「はい」
「だんだんリオル語がわかってきた」
「それは良いことなのでしょうか」
「たぶんね」
ミナは少し考えてから頷いた。
「私たちが外まで出てから発動するなら、危険はかなり減りますね」
「はい。ただし、鏡が想定外の反応をした場合に備えて、洞窟の外でも距離を取ります」
ガルドは短く言った。
「やろう」
リゼがスティックを握りしめる。
「やるわ」
リオルはリゼを見た。
「全力の爆発音三倍、ですね」
リゼは満面の笑みを浮かべた。
「ええ。炎の鏡に、私の一番うるさい魔法を聞かせてやるわ」
◇
準備は第二火室で行われた。
黒芯の炎が、周囲の熱を奪っている。
リゼが小さな火を出すと、すぐに炎柱へ吸われそうになる。
普段なら厄介な現象だ。
だが、今はそれが必要だった。
リゼは杖を構え、深く息を吸った。
「いくわよ」
「はい。最初は小さく」
「わかってる」
リゼは火球の魔法式を組む。
ただし、火球そのものを完成させる直前で止める。
彼女の無詠唱は、本来なら一瞬で発動する。
その高速処理を、あえて薄く引き伸ばした。
リゼのスティックの先に、透明な熱の粒が生まれる。
火になる直前の、魔法式の塊。
黒芯の炎がそれを吸おうとする。
リオルはその瞬間を見た。
「今です」
彼は火でもなく、リゼでもなく、リゼから離れた詠唱の殻へ手を向けた。
「極所付与」
淡い光が、透明な粒を包む。
「対象、リゼさんから離れて炎に吸われる直前の詠唱の殻。性質指定――火になる前の形を、透明なパックとして少しだけ保つ包装力。二十四時間、増大」
透明な粒が、ぷるんと丸く固まった。
中に赤い光が揺れている。
リゼが目を輝かせた。
「できた!」
「はい。詠唱パックです」
「名前そのままね」
「わかりやすいので」
その詠唱パックは、ゆっくりと空中を漂っている。
炎に吸われそうで吸われない。
火にはまだなっていない。
だが、火になるための魔法式は詰まっている。
ミナが慎重に見つめた。
「触ると危険ですか?」
「危険です。発動する可能性があります」
ガルドが距離を取る。
「では、触らずに運ぶ必要があるな」
「はい」
リオルは詠唱パックの周囲の空気へ追加で付与した。
「対象、詠唱パックの周囲の空気。性質指定――第三火室へ向かう風に、焦らずゆっくり乗る素直さ。二十四時間、増大」
透明なパックが、ゆっくりと第三火室へ続く通路の方へ動き始める。
リゼが嬉しそうに言う。
「かわいいわね」
「かわいいでしょうか」
「私の爆発音の卵みたいなものでしょ?」
「爆発音の卵……」
リオルは少し考えた。
「たしかに、そうかもしれません」
リゼは気をよくした。
「よし、いっぱい作るわよ」
「いっぱいは危険なので、制御できる数にしましょう」
「何個?」
「まず三個」
「少ない」
「安全第一です」
「五個」
「三個」
「四個」
「……四個までです」
「勝った」
「交渉の話でしたか?」
結局、最初に四個作った。
四つの透明な詠唱パックが、ふわふわと空中を漂う。
中には、リゼの火魔法が発動直前の状態で封じられている。
そして、それぞれに爆発音三倍の性質が組み込まれている。
リゼは次第にコツを掴んだ。
無詠唱の魔法式を、あえてほんの少しだけ手前で止める。
黒芯の炎に吸われる瞬間に手放す。
リオルがそれを透明なパックにする。
五個。
六個。
八個。
ミナが途中で止めた。
「ここまでにしましょう」
「まだいけるわよ」
リゼが言う。
「リゼさんの魔力消耗もありますし、リオルさんの付与回数も多いです」
「そうね……」
リゼは少し名残惜しそうに詠唱パックを見た。
「本当はもっと並べたいけど」
リオルも頷いた。
「今の数でも十分です。むしろ多すぎる可能性があります」
空中には、合計十個の詠唱パックが浮かんでいた。
どれも透明で、よく見なければ存在に気づけない。
内側にだけ、赤い火の種が眠っている。
リオルはそれぞれのパックへ、さらに付与をかける。
「対象、十個の詠唱パックの進行速度。性質指定――急がず、先頭が鏡に触れるまで列を乱さない行儀の良さ。二十四時間、増大」
「対象、詠唱パック同士の距離感。性質指定――近づきすぎず離れすぎず、爆発音が重なりすぎない間隔。二十四時間、増大」
「対象、詠唱パックの透明さ。性質指定――鏡に当たるまでは、ただの温度の揺らぎとして見過ごされやすさ。二十四時間、増大」
リゼが感心したように言う。
「爆発音の隊列ね」
「危険な隊列です」
「でも、ちょっといい響き」
ガルドが通路の奥を見た。
「動き始めた」
透明な詠唱パックたちは、ゆっくりと第三火室へ向かって進み始めた。
歩くより遅い。
風に流される埃よりも慎重。
だが、確実に進んでいる。
リオルは深く息を吐いた。
「では、僕たちは撤退します」
「ついに逃げながら勝つ作戦ね」
リゼが言った。
「逃げるのではなく、距離を取るんです」
「同じようなものじゃない?」
「目的が違います」
「はいはい」
リゼは少し笑った。
「でも、嫌いじゃないわ」
◇
撤退は慎重に行われた。
第二火室から第一火室へ戻る途中、リオルは各部屋の仕切りに付与を重ねた。
まず、第二火室の出口。
「極所付与」
「対象、第二火室と第三火室を隔てる黒石の縁。性質指定――音と衝撃を通す前に、壁として一度踏ん張る厚み。二十四時間、増大」
黒石の縁が淡く光る。
リゼが言う。
「壁の踏ん張り」
「はい」
「今ならだいたいわかるわ」
次に、第一火室との境。
「対象、第一火室へ続く狭い通路の空気層。性質指定――奥から来る音を丸めて弱める毛布のような柔らかさ。二十四時間、増大」
ガルドが少し笑う。
「音の毛布か」
「反響を抑えます」
さらに、炎の壁を抜ける場所では。
「対象、炎の壁が熱を下げる瞬間。性質指定――外へ余計な振動を渡さない門番としての律儀さ。二十四時間、増大」
ミナが言った。
「炎の壁が門番になるんですね」
「はい。今回は味方です」
そうして、四人は炎の洞窟の外へ出た。
外の空気は、驚くほど普通だった。
熱くも寒くもない。
ただの山の風。
リゼは外に出るなり、大きく息を吸った。
「外って素晴らしい」
「同感です」
ミナもほっとしたように笑う。
ガルドは洞窟の入口から少し離れた岩場に立った。
「ここで待つのか」
「もう少し離れましょう」
リオルは洞窟の入口を見た。
「もし鏡が想定外の反応をした場合、入口から衝撃が漏れる可能性があります」
四人はさらに距離を取った。
洞窟入口が小さく見える場所まで下がり、岩陰に身を隠す。
リゼはじっと洞窟を見ていた。
「もう着いたかな」
「まだです。かなりゆっくり進むようにしました」
「じれったいわね」
「安全のためです」
「わかってる」
待つ時間は長く感じた。
実際には数分だったかもしれない。
けれど、リゼにはもっと長く思えたらしい。
彼女は何度もスティックを握り直し、そわそわと足を動かしていた。
リオルはふと気づく。
リゼは、戦場で火を放つ時よりも緊張している。
自分の魔法を自分で直接撃たず、詠唱パックに任せる。
それは彼女にとって、かなりもどかしいことなのだろう。
「リゼさん」
「何?」
「きっと届きます」
リゼは一瞬だけ目を見開いた。
それから、少しだけ笑った。
「うん」
◇
その頃、第三火室。
巨大な炎の鏡は、静かに赤く揺れていた。
そこへ、透明な詠唱パックの先頭が入ってくる。
鏡はすぐには反応しなかった。
パックは熱をほとんど持たない。
影も薄い。
魔力も、火になる直前の詠唱として圧縮され、外からはただの温度の揺らぎにしか見えない。
リオルの付与によって、第三火室へ向かう風にゆっくり乗っている。
透明なまま。
静かに。
先頭の詠唱パックが、鏡面へ触れた。
その瞬間、内部の火魔法が発動する。
火球。
だが、火球が形になるより早く、炎の鏡が反応した。
火は映る。
映ったものは燃える。
青白い炎が走り、火球そのものは瞬時に消えた。
だが。
爆発音は消えなかった。
どおおおおんっ!
リゼのユニークスキルによる爆発音三倍。
第三火室に、強烈な音が響いた。
炎の鏡が揺れる。
鏡面が波打つ。
上部の炎の指輪が赤く光る。
そして、鏡は空気の衝撃波を燃やした。
爆発によって生まれた空気の押し出しを、青白い炎がなぞるように燃やし、消していく。
洞窟を揺らすはずの衝撃波は、鏡の処理によって消された。
残ったのは、音。
衝撃波のない爆発音。
奇妙な、ほとんど反則のような現象。
鏡にとって、それは処理すべき異常だった。
だが、次が来た。
二つ目の詠唱パックが鏡に触れる。
火魔法は消される。
どおおおおんっ!
爆発音三倍。
また鏡面が揺れる。
炎の指輪がさらに強く光る。
衝撃波は鏡が燃やす。
次。
三つ目。
どおおおおんっ!
次。
四つ目。
どおおおおんっ!
炎の鏡は対応し続けた。
火を燃やす。
衝撃波を燃やす。
空気の振動経路を燃やす。
鏡面への負荷を逃がす。
処理能力は高い。
高すぎるほど高い。
だが、今回はそれが仇になった。
鏡は洞窟を守るように、衝撃波を丁寧に燃やして消してしまう。
そのたびに、爆発音だけが残って鏡面を叩く。
五つ目。
どおおおおんっ!
六つ目。
どおおおおんっ!
鏡面が激しく波打つ。
炎の指輪が、枠の中で震えた。
七つ目。
どおおおおんっ!
黒い枠に亀裂が入る。
八つ目。
どおおおおんっ!
指輪が傾く。
九つ目。
どおおおおんっ!
炎の鏡は、なおも衝撃波を燃やして処理する。
ある意味、真面目だった。
洞窟の崩落を防ぐために、ひたすら事後処理を続けている。
もし感情があったなら、かなり可哀想だったかもしれない。
十個目。
最後の詠唱パックが鏡面へ触れた。
火魔法は消える。
だが、最大の爆発音が鳴った。
どおおおおおおおおおんっ!
爆発音三倍。
重なった余韻が、炎の指輪を直撃した。
ぱきん。
黒い枠の留め具が外れる。
炎の指輪が、鏡の上部から落ちた。
からん。
小さな音を立てて、指輪が床を転がる。
同時に、炎の鏡の赤い鏡面がふっと暗くなった。
青白い炎が消える。
黒芯の熱吸収も止まる。
炎の鏡は、まるでただの赤い金属板のように静まり返った。
◇
洞窟の外にいた四人には、爆発音が遠くからくぐもって聞こえた。
どん。
どん。
どん。
厚くした壁や、音を丸める空気層のおかげで、外へ届く音はかなり弱まっていた。
それでも、リゼにはわかった。
自分の爆発音だ。
彼女は思わず拳を握る。
「鳴ってる」
リオルは洞窟の入口を見つめた。
「衝撃はほとんど来ていません」
ガルドも地面に手を当てる。
「振動も小さい」
ミナが安堵する。
「洞窟は崩れていなさそうですね」
最後に、少し大きな音が響いた。
どおん。
そのあと、静寂。
リゼが息を止める。
「……終わった?」
「まだわかりません」
リオルは慎重だった。
「しばらく待ちます」
「どれくらい?」
「鏡の再反応がないか確認できるまで」
「今すぐ見に行きたい」
「危険です」
「わかってるけど!」
リゼは落ち着きなく歩き回った。
結局、四人は十分ほど待った。
洞窟から追加の音はない。
熱風も冷気も出てこない。
入口付近の炎の揺れも弱まっている。
リオルは慎重に頷いた。
「安全確認に行きましょう。ただし、ゆっくりです」
「やっと!」
リゼが先に行きかけ、ガルドが肩を掴んで止めた。
「先頭は俺だ」
「はいはい」
四人は再び炎の洞窟へ入った。
◇
炎の洞窟は、明らかに変わっていた。
第一火室の炎の壁は消えていない。
だが、熱は穏やかになり、周期的に荒ぶることもない。
第二火室の黒芯の炎は、赤い普通の炎へ戻っていた。
冷気もない。
熱を奪う異常現象は止まっている。
リオルは壁に手をかざした。
「炎の鏡の機能が停止しています。洞窟全体への影響も消えています」
リゼは足取りも軽く進んだ。
「指輪……指輪……」
「落ち着いてください」
「無理」
第三火室へ到着すると、巨大な炎の鏡は静かに立っていた。
赤い鏡面は暗く、もう誰の姿も映していない。
映ったものを燃やす気配もない。
そして、その足元に。
小さな金の指輪が落ちていた。
リゼは一瞬だけ立ち止まった。
それから、ゆっくり歩み寄る。
リオルが確認する。
「待ってください。僕が先に」
「うん」
リゼは珍しく素直に止まった。
リオルは小石を転がした。
燃えない。
影も反応しない。
熱も奪われない。
彼は指輪の近くまで進み、状態を確認した。
「安全です」
その言葉を聞いた瞬間、リゼが駆け寄った。
彼女は指輪を拾い上げる。
赤い石を抱いた、細い金の指輪。
見た目は想像より控えめだった。
だが、内側には小さな炎の紋様が刻まれている。
リゼはそれを手のひらに乗せ、しばらく黙って見つめていた。
「これが……炎の指輪」
ミナが微笑む。
「おめでとうございます」
ガルドも頷いた。
「よく取れたな」
リオルは少しだけ笑った。
「爆発音三倍で勝ちましたね」
リゼの顔が、ぱっと明るくなった。
「そう!」
彼女は指輪を胸の前で握りしめた。
「炎の鏡に! 爆発音三倍で! 勝った!」
「正確には、爆発音三倍の詠唱パック群による間接攻略です」
「細かい!」
「はい」
「でも最高!」
リゼはその場でくるりと回りそうになり、第三火室であることを思い出して踏みとどまった。
そして、そっと指輪を右手の指にはめる。
赤い石が淡く光った。
リゼの魔力と同調する。
次の瞬間、彼女の周囲の空気が、少しだけ震えた。
リオルはすぐに言った。
「ここで爆発魔法は試さないでください」
「わかってる」
リゼはにやにやしながら言う。
「でも、感じる。これ、本当に爆発音三倍の効果がある」
「つまり、リゼさんの場合は九倍ですね」
ミナが言う。
「普段使いは難しそうです」
ガルドも真顔で頷く。
「戦場で使えば、敵味方問わず混乱する」
リオルも続ける。
「洞窟内では禁止です。街中でも禁止です。森でも魔物を呼ぶ可能性があります」
リゼは指輪を見つめながら言った。
「わかってる。実用性は……まあ、うん」
「厳しいですね」
「言い切ったわね」
「はい」
「でもいいの」
リゼは嬉しそうだった。
「これは、欲しかったから欲しかったの。実用性だけじゃないのよ」
リオルは頷いた。
「はい」
「それに、勝った方法が最高だった。私の爆発音で炎の鏡を落としたんだから」
「はい」
リゼは指輪を見つめ、少しだけ照れくさそうに笑った。
「だから、これはたまに眺める用。ここぞという時に、すごく迷惑な切り札として使う用」
「迷惑な切り札と自覚しているなら、まだ安心です」
「ひどい」
でも、リゼは笑っていた。
◇
その時、第三火室の奥から小さな足音が聞こえた。
四人は身構える。
現れたのは、第二火室で助けた炎の犬だった。
だが、姿が違っていた。
赤い炎の犬ではない。
金色の毛並みを持つ、大きな獣。
体は狼にも獅子にも似ていて、首まわりには炎のような金毛がふさふさと揺れている。
瞳は穏やかな琥珀色。
かつて全身を覆っていた炎は、今は毛先に淡く宿るだけだった。
ミナが息を呑む。
「姿が……」
リオルはその獣を見て、古い魔物図鑑の記述を思い出した。
「霊獣、金毛吼……」
リゼが驚く。
「こんもうこう?」
「はい。火属性の高位霊獣です。本来は燃え続ける魔物ではなく、炎を守る霊獣だと聞いたことがあります」
金毛吼は、リゼの前まで歩いてきた。
リゼは少し緊張しながらも、指輪をつけた手を下ろす。
「えっと……この前の火の犬?」
金毛吼は、小さく喉を鳴らした。
敵意はない。
むしろ、礼を言っているようにも見えた。
リオルは炎の鏡を見た。
「鏡の力が弱まったことで、本来の姿に戻れたんですね」
ミナが嬉しそうに言う。
「よかったです」
金毛吼は、静かに炎の鏡の前へ進んだ。
燃えなくなった鏡面を見上げ、そこに前脚を置く。
鏡は反応しない。
金毛吼はそのまま鏡の前に座った。
「守るつもりなのかしら」
リゼが言う。
金毛吼は、まるで頷くように目を細めた。
炎の鏡は壊れたのではない。
機能を停止しただけ。
暴走していた力が、指輪を失い、熱を奪うことも燃やすこともやめた。
この場所は、もう危険な殺しの鏡ではない。
金毛吼は、燃えなくなった鏡を守護する役目を引き受けたのかもしれない。
リゼは少しだけ笑った。
「じゃあ、お願いね。鏡番さん」
金毛吼は、尻尾の先に小さな火を灯して返事をした。
リオルは念のため、鏡の周囲を確認する。
魔力は安定している。
熱吸収も停止。
反射燃焼もない。
「問題なさそうです」
ガルドが言う。
「なら、帰るか」
「はい」
ミナも頷いた。
「洞窟内の異常が消えたなら、ギルドにも報告しないといけません」
リゼはもう一度、炎の鏡を見た。
そして、金毛吼へ軽く手を振る。
「また来るかも。その時は爆発音九倍を聞かせてあげる」
金毛吼は一瞬、耳を伏せた。
リオルがすぐに言う。
「やめてあげてください」
「冗談よ」
「本当に?」
「……たぶん」
「リゼさん」
リゼは笑って、指輪をそっと外した。
右手から指輪が離れると、周囲の空気の震えが収まる。
彼女はそれを大切そうに小袋へしまった。
「普段はつけないわよ。さすがにね」
「安心しました」
「でも、持ってるだけで嬉しい」
リゼはそう言って、少しだけ胸を張った。
その笑顔は、炎の指輪そのものよりも眩しく見えた。
◇
洞窟の帰り道は、驚くほど楽だった。
第一火室の炎の壁は、熱が落ち着き、普通に間隔を見れば通れた。
第二火室の黒芯の炎は消え、寒さもない。
鏡面の扉も、ただの鈍い金属板に戻っている。
あれほど苦労した道が、嘘のように静かだった。
リゼが少し不満そうに言う。
「帰り、簡単すぎない?」
「危険が消えたので、良いことです」
リオルが答える。
「そうなんだけど、あれだけチートな相手に勝った方法が、詠唱パックを流して外で待つって、地味すぎない?」
「安全で効果的でした」
「そこは否定できないけど」
ガルドが低く笑う。
「地味な勝利ほど、生きて帰れる」
「帰路の灯らしいですね」
ミナが言った。
リオルは少し照れたように目を伏せる。
「鏡の処理能力を信頼した賭けではありました」
リゼがにやりとする。
「炎の鏡、可哀想だったわね。せっせと衝撃波を燃やして、爆発音だけ聞かされ続けて」
「確かに、少しだけ」
ミナが苦笑する。
「でも、洞窟を崩さないためには必要でした」
「そうね。鏡、真面目だったのよ」
リゼは指輪の入った小袋を撫でた。
「だから、勝ったのはちょっと申し訳ない。でも嬉しい」
リオルはその横顔を見た。
リゼは天才マジシャンだ。
無詠唱という、とんでもなく強いユニークスキルを持っている。
だが彼女が一番喜んだのは、便利さではなく、自分らしさだった。
爆発音三倍。
笑われても、うるさいと言われても、彼女が嫌いにならなかったもの。
その音で、炎の鏡を攻略した。
リオルは少しだけ思う。
付与術も、そうなのかもしれない。
自分が恐れている力にも、いつか自分らしい使い方が見つかるのかもしれない。
誰かを縛るのではなく、誰かが自分のまま進むために。
炎の指輪を持つリゼのように。
◇
洞窟を出ると、夕暮れの風が吹いていた。
リゼは外へ出た瞬間、小袋から指輪を取り出した。
夕日にかざす。
赤い石が、きらりと光る。
「……本当に取れたんだ」
彼女の声は、いつもより少し静かだった。
ミナが微笑む。
「よかったですね」
「うん」
ガルドが言う。
「使う時は事前申告だ」
「わかってる」
リオルも言った。
「耳栓と周辺確認が必要です」
「はいはい」
「あと、洞窟、街中、密林、雪崩の起きそうな山、魔物の多い場所では禁止です」
「禁止事項、多くない?」
「爆発音九倍なので」
「それはそう」
リゼは指輪を見つめ、にやっと笑った。
「でも、いつか一回は全力で鳴らすわ」
「安全な場所でお願いします」
「もちろん」
「本当に?」
「たぶん」
「リゼさん」
リゼは笑った。
その笑い声は、爆発音よりずっと穏やかだった。
リオルたちは、火喰い山を後にした。
炎の洞窟は静かになり、その奥では金毛吼が燃えなくなった鏡を守っている。
炎の指輪は、リゼの小袋の中で淡く光っている。
実用性は、正直かなり厳しい。
けれど、それでもよかった。
なぜなら、その指輪はただの道具ではない。
リゼが、自分の爆発音三倍を堂々と好きでいるための証だった。
そして、炎の鏡に爆発音三倍で勝ったという、最高に彼女らしい勝利の記録だった。




