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最強付与術師リオルは付与したくない  作者: 逆瀬ゆうり


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2/30

針鳴りの回廊 前半ー付与術師、罠にだけは容赦しない

 王都冒険者ギルドには、いくつかの不文律がある。


 酒場で寝た冒険者には毛布をかけてやること。

 新人の初成功は、なるべく大げさに祝ってやること。

 受付嬢の前で依頼書を破らないこと。


 そしてもうひとつ。


 迷宮帰りの冒険者が、妙に真面目な顔で「床が強かった」と言い出したら、深く追及してはいけない。


「……で、つまり報告をまとめると」


 受付嬢のエリナは、書類に羽ペンを走らせながら言った。


「霧鳴りの迷宮第一層に、本来第二層以降の魔物であるロックゴーレムが出現。臨時パーティ四名により討伐。負傷者なし。討伐方法は……床と空気と小石」


「はい」


 リオルは真面目に頷いた。


「床と空気と小石です」


「……」


 エリナは少しだけ天井を見た。


 冒険者ギルドの仕事は、だいたい常識外れとの戦いである。


 燃える剣を振り回す剣士。

 自分の魔法で自分を吹き飛ばす魔術師。

 なぜか熊と結婚しかけた獣使い。


 そういう者たちを日々相手にしている受付嬢は、強い。


 しかし、床と空気と小石でゴーレムを倒したという報告は、なかなか処理しにくかった。


「リオルさん」


「はい」


「あなた、本当に人へ付与していないんですよね?」


「していません!」


 リオルは即座に答えた。


 その勢いがあまりに強かったため、隣にいたリゼが肩を跳ねさせた。


「声、大きい」


「ご、ごめん」


 リオルは小さくなった。


「でも、そこは大事なので」


「大事なのはわかったけど、受付で叫ぶほどではないわ」


 赤いローブの少女、リゼは呆れ顔で腕を組んでいる。


 その隣で、大盾を背負ったガルドが低く笑った。


「まあ、リオルにとっては信仰みたいなものだろう。人には付与しない。床にはする」


「床を神聖視してるみたいに言わないでください」


 リオルは少し困った顔をした。


 白い修道服のミナが、ふわりと微笑む。


「でも、床さんには助けていただきましたね」


「ミナさんまで床さん呼びを……」


「感謝は大切ですから」


「そういう問題でしょうか」


 リオルは首をかしげた。


 ミナはにこにこしている。

 悪気はない。

 たぶんない。


 ロックゴーレム討伐から二日。


 リオル、リゼ、ガルド、ミナの四人は、臨時ではなく正式なパーティとして登録することになった。


 ただし、パーティ名はまだ決まっていない。


「パーティ名は《爆炎の星》がいいと思うのよ」


 リゼが自信満々に言った。


「却下だ」


 ガルドが即答した。


「なんでよ!」


「俺とミナとリオルの要素がない」


「じゃあ《爆炎と盾と癒しと床》」


「床の主張が強すぎる」


 ミナが頬に手を当てる。


「《皆さん無事に帰りましょう会》はどうでしょう?」


「依頼帰りの町内会みたいね」


 リゼが言った。


 リオルは少し考えてから口を開いた。


「《付与なし安全調査隊》は」


「絶対に嫌」


 リゼの拒否は速かった。


 ガルドが頷く。


「だが、方向性は悪くない。無事に帰るのは重要だ」


「いや悪いわよ。冒険者パーティよ? もう少し格好よさが欲しいでしょ」


「格好よさより生存率だ」


「両立しなさいよ!」


 そんなやり取りを、受付嬢のエリナは微笑ましそうに見ていた。


 そして、ふと表情を引き締める。


「皆さん、ちょうどよい依頼があります」


 エリナは一枚の依頼書を取り出した。


 羊皮紙には、赤い印が押されている。


【調査依頼】

【対象:針鳴りの回廊】

【推奨:C級以上】

【内容:第一区域から第二区域入口までの安全確認】

【備考:罠多数。魔物少数。近年未踏査】


 リゼが依頼書を覗き込む。


「針鳴りの回廊?」


 ガルドの表情が少し硬くなった。


「聞いたことがある。古い仕掛け迷宮だな」


「仕掛け迷宮?」


 リオルが聞くと、エリナが説明した。


「はい。魔物の数はそれほど多くありませんが、罠が非常に多い迷宮です。床、壁、天井、扉、宝箱、通路の影……ありとあらゆる場所に仕掛けがあります」


「床にも?」


 リオルが真剣に聞いた。


「床にも」


「壁にも?」


「壁にも」


「空気にも?」


「……空気は、わかりません」


「なるほど」


 リオルは深刻に頷いた。


 リゼが横目で見る。


「あんた、今ちょっと楽しそうじゃない?」


「そんなことないよ」


「罠なら人に付与しなくていいから、やりやすいとか思ってない?」


「……」


「図星じゃない」


 リオルは視線を逸らした。


 人に付与するのは怖い。

 装備に付与するのも、少し怖い。

 けれど、罠ならどうだろう。


 罠の好感度が上がることはない。


 床のステータスボードに【リオル:+1】が表示されても、床はリオルを好きになったりしない。


 いや、そもそも床にはステータスボードがない。


 たぶん。


 リオルは念のため、ギルドの床を見た。


「床に感情は……ないよね」


「何を確認してるのよ」


 リゼが呆れた。


 エリナは説明を続ける。


「今回の目的は、迷宮奥にあるとされる古代書庫への経路確認です。針鳴りの回廊は、かつて魔導師たちが実験場として使っていた場所だと言われています」


 その言葉に、リオルの目が動いた。


「古代書庫」


「はい。まだ奥までは確認されていませんが、魔術関連の資料が残っている可能性があります」


「原初の魔導書に関係する資料も、ありますか?」


 エリナは少し考えた。


「断言はできません。ただ、古代魔術に関する記録があるなら、何らかの手がかりになるかもしれません」


 リオルは依頼書を見つめた。


 原初の魔導書。


 彼が探している、付与術の根源を記した伝説の書。


 それさえあれば、自分がこれまで周囲に与えてしまったと思い込んでいる好感度上昇を、元に戻せるかもしれない。


 もちろん、そんな好感度上昇は存在しない。

 存在するのは、リオルの優しさに周囲が自然と好意を抱いてきた事実だけだ。


 だが本人は、まだ知らない。


「受けます」


 リオルは言った。


 リゼが肩をすくめる。


「まあ、古代書庫って響きは悪くないわね。魔術資料もありそうだし」


 ガルドも頷いた。


「罠が多いなら、盾役の出番だ」


「無理に受けなくて大丈夫です」


 リオルが即座に言った。


「ガルドさんが怪我をする可能性があります」


「冒険者だからな」


「でも」


「俺は盾役だ。危険があるなら、前に立つ」


 ガルドの声は落ち着いていた。


 それは無謀ではない。

 役割に対する、静かな覚悟だった。


 リオルは少しだけ黙った。


 誰かが危険を背負うのを見るのは苦手だ。

 けれど、それを全部取り上げることが正しいのかは、まだわからない。


 ミナがそっと言う。


「リオルさん。危ない時は、皆さんで止めましょう」


「……はい」


 リオルは頷いた。


 リゼが明るく手を叩く。


「決まりね。じゃ、今回は罠を相手にするわけだから、作戦会議しましょう」


「作戦ならあります」


 リオルが言った。


 三人が一斉に彼を見る。


「人には付与しません」


「それはもう知ってる!」


 リゼの声がギルドに響いた。


   ◇


 針鳴りの回廊は、王都から馬車で半日ほど離れた山間にあった。


 入口は、岩壁にぽっかり空いた長方形の門。

 門の左右には、針のように細い石柱が何本も並んでいる。


 風が吹くたび、石柱の隙間から高い音が鳴った。


 ひゅうううん。


 まるで無数の針が震えているような音。


「なるほど。針鳴りって、こういう意味ね」


 リゼが耳を押さえた。


「嫌な音だわ。集中を乱される」


 ガルドは大盾を下ろし、入口を見据える。


「音で侵入者の感覚を狂わせる仕組みかもしれん」


 ミナが周囲を見回した。


「空気が少し冷たいですね」


「魔力濃度も高いです」


 リオルは入口付近の石床にしゃがみ込んだ。


 床には細かい溝が走っている。

 単なる装飾ではない。

 薄い魔力が溝を流れている。


「この迷宮、床自体が仕掛けの一部になってます」


「床さんが敵側か」


 ガルドが言った。


「床さん呼びはやめましょう」


 リオルは真顔で返した。


 リゼがくすっと笑う。


「床と敵対した付与術師って、歴史上初じゃない?」


「できれば床とは良好な関係でいたいです」


「床への感情が重いのよ」


 リオルは鞄から白い粉を取り出した。


「何それ?」


「石灰粉です。微細な気流や床の傾斜を見るために使います」


「準備いいわね」


「罠は人より安心なので」


「その言い方、ちょっと危ないわよ」


 リオルは入口の床に、ぱらぱらと粉を撒いた。


 粉は不自然に一方向へ流れた。

 風ではない。

 床の溝が、粉をゆっくり吸い込んでいる。


「踏むと作動するタイプですね」


 ガルドが前に出ようとした。


「なら、俺が踏んで確認する」


「だめです」


 リオルが即座に止めた。


「確認のために人が踏む必要はありません」


「しかし、罠の威力を把握するには」


「石で十分です」


 リオルは近くの小石を拾い、入口の床に投げた。


 ころん、と石が転がる。


 次の瞬間。


 床の溝から、細い針が無数に飛び出した。


 しゃきんっ!


 針は足首の高さまで伸び、すぐに引っ込んだ。


 ミナが口元を押さえる。


「踏んでいたら……」


「足を貫かれていました」


 リオルは静かに言った。


 ガルドは少しだけ眉を下げた。


「助かった」


「よかったです」


 リオルは本当に安堵していた。


 その表情を見て、ガルドは何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。


 自分が前に立つこと。

 リオルがそれを止めること。

 どちらが正しいかは、状況によって変わる。


 今は、リオルが正しかった。


 リゼがスティックで床を指した。


「で、どうするの? このままだと入れないわよ」


「付与します」


 リオルは入口の床へ手を向けた。


「極所付与」


 淡い光が、床の溝に沿って広がる。


「対象、入口から二十歩分の床表面。性質指定――圧力変化の鈍感さ。二十四時間、増大」


 リゼが目を瞬いた。


「圧力変化の鈍感さ?」


「踏まれても、踏まれたと認識しにくくします」


「そんなことできるの?」


「床が圧力で罠を作動させているなら、床側の感度を下げればいいので」


「床側の感度……」


 リゼは少し遠い目をした。


「本当に、あんたの付与って発想がおかしいわ」


「褒めてますか?」


「半分くらいは」


 ガルドが大盾を構え、慎重に一歩踏み出した。


 針は出ない。


 二歩目。

 三歩目。


 何も起きない。


「行ける」


 ガルドが言った。


「ただし、二十歩分だけです」


 リオルは続けた。


「それ以降は未確認です。僕が先に粉を撒きます」


「待ちなさい」


 リゼがリオルの襟を掴んだ。


「なんであんたが先に出ようとするのよ」


「罠を見たいので」


「罠に対して好奇心を出さない」


「でも、人に付与しないためには、仕掛けの構造を理解する必要が」


「わかった。気持ちはわかった。でも前に出すぎない」


 リゼの声は少し強かった。


 リオルは目を丸くする。


「心配してくれているんですか?」


「……パーティメンバーなんだから、普通でしょ」


 リゼは顔をそらした。


 リオルは一瞬、困ったように黙った。


 今のは付与の影響ではない。

 まだ彼女には、何も付与していない。


 なら、これも本物なのだろうか。


 そう考えかけて、リオルは首を振った。


 今は迷宮攻略中だ。

 考えるのは後にする。


「わかりました。前に出すぎません」


「よろしい」


 リゼは満足げに頷いた。


 ミナが小さく笑った。


「少しずつ、息が合ってきましたね」


「そうか?」


 ガルドが言う。


「俺には、リゼがリオルを叱る係に見える」


「誰が叱る係よ!」


「実際、助かっています」


 リオルが真面目に言うと、リゼはさらに顔を赤くした。


「もういいから進むわよ!」


   ◇


 迷宮内部は、まっすぐな回廊が続いていた。


 壁は灰白色の石。

 天井は高く、細い金属管がいくつも走っている。


 歩くたびに、どこかで小さな音が鳴る。


 ちりん。

 ちりん。

 ちりん。


 風鈴のようでもあり、針が硝子を叩く音のようでもあった。


「音で距離感が狂うな」


 ガルドが言った。


「足音の反響も変です」


 リオルは耳を澄ませた。


「壁の中に空洞があります。たぶん、音を反射させる管が入っている」


「それが罠と関係あるの?」


 リゼが尋ねる。


「可能性はあります。音で侵入者の位置を測っているのかもしれません」


「つまり、うるさくしたらまずい?」


「はい。特にリゼさんの魔法は――」


「爆発音三倍ね。わかってるわよ」


 リゼは少し不満そうに唇を尖らせた。


「でも、私から爆発を取ったら何が残るの?」


「魔法の才能」


「……そういう真顔の返しはずるいわね」


 リゼは小さく咳払いした。


 リオルは気づいていない。

 リゼが少しだけ嬉しそうにしていることに。


 しばらく進むと、通路が三つに分かれていた。


 左の通路は暗い。

 中央の通路は妙に明るい。

 右の通路には、床一面に細かな模様が描かれている。


「いかにも選ばせる気満々ね」


 リゼが言った。


 ミナが目を閉じる。


「魔力の流れは、中央が一番強いです」


 ガルドが右の床模様を見る。


「模様は古代文字か?」


 リオルはしゃがみ込み、模様を確認した。


「これは文字ではなく、足運びの誘導線です」


「足運び?」


「たぶん、正しい順番で踏むと安全に進めます。間違えると罠が作動する」


 リゼが眉を寄せる。


「じゃあ右が正解?」


「そう見せている可能性もあります」


「面倒くさいわね、罠ダンジョン」


「はい。面倒くさいです」


 リオルはどこか嬉しそうだった。


 リゼはじっと見た。


「やっぱり楽しんでない?」


「そんなことは」


「目がいつもより少し輝いてる」


「罠は人の心を変えないので」


「その安心理由が独特すぎるのよ」


 リオルは三つの通路の前に石灰粉を撒いた。


 左の通路では粉が手前に戻ってくる。

 中央の通路では粉が上に舞い上がる。

 右の通路では粉が模様に沿って細く流れていく。


「中央は上昇気流。天井に何かあります」


 リオルは小石を中央へ投げた。


 小石が床に落ちる前に、天井から細い網が落ちてきた。


 しゃらららっ。


 金属糸の網だった。


 小石は網に触れた瞬間、細かく切断された。


 リゼの顔が引きつる。


「人間だったら?」


「細切れです」


「さらっと言わないで」


 ミナが胸元を押さえる。


「中央は避けましょう」


 ガルドは左の通路を見る。


「左は?」


 リオルは左へ小石を投げた。


 何も起きない。


「安全そうに見えるな」


 ガルドが言った直後、左の通路の奥から、低い風切り音が聞こえた。


 ぶんっ。


 巨大な振り子刃が、暗闇の中を横切った。


 さらに、その刃は音もなく戻ってくる。


 ぶんっ。


「見えにくい上に、時間差か」


 ガルドが唸った。


「左も危険ですね」


 リオルは右の通路を見た。


「右が一番、仕組みとしては親切です」


「親切な罠って何?」


「解けるように作られています」


「解けない罠よりはマシね」


 リオルは床模様をじっくり観察した。


 模様は針、鐘、月、鍵、目、羽の六種類。

 それぞれが不規則に並んでいる。


「踏む順番は、おそらく音階です」


「音階?」


「入口の石柱が鳴っていた音と対応しています。針、鐘、月、鍵、目、羽。それぞれが音を表している」


 リゼが目を細める。


「よく覚えてたわね」


「音が気になったので」


「私は嫌な音としか思わなかったわ」


「音感は人それぞれです」


 リオルは少し考え、指で空中に順番をなぞった。


「入口で鳴っていた音は、針、針、鐘、月、鍵、鐘、羽……たぶんこの順です」


 ガルドが床を見る。


「それを踏んで進めばいいのか」


「はい。ただし、全員が同じ順番で踏む必要があるかは不明です」


「俺が先に行く」


「だめです」


「またか」


「今回は僕が床を調整します」


 リオルは右通路の床へ手を向けた。


「極所付与」


 淡い光が、模様の上を滑る。


「対象、模様床の反応音。性質指定――正解時の響きやすさ。二十四時間、増大」


 リゼが首をかしげた。


「安全にするんじゃないの?」


「まず正解を確認します。踏んだ時に正しい音だけ大きく響くようにしました」


「罠を楽器にしたの?」


「結果的には」


「本当に床と仲いいわね」


 リオルは小石を使って、模様を順に押していく。


 針。

 ちん。


 針。

 ちん。


 鐘。

 こん。


 月。

 りん。


 鍵。

 かん。


 鐘。

 こん。


 羽。

 ふわりと軽い音。


 その瞬間、通路の奥で石扉が少しだけ開いた。


「正解です」


 リオルは安堵した。


 リゼが感心したように息を吐く。


「すごいじゃない。戦わない時のあんた、かなり頼れるわね」


「戦う時も床と空気が頼れます」


「自分を数に入れなさいよ」


 ガルドが床模様を見ながら言った。


「順番はわかった。だが、俺の鎧だと踏み間違えそうだ」


「では、踏むべき模様だけ滑りにくくします」


「また床か」


「はい」


 リオルは模様の一部にだけ付与をかけた。


「対象、正解模様の表面。性質指定――足裏への主張。二十四時間、増大」


 リゼが顔をしかめる。


「足裏への主張?」


「踏むと『ここです』とわかる感じです」


「そんな曖昧な性質もいけるの?」


「僕が認識できれば」


「やっぱりずるいわ」


 四人は一列になって進んだ。


 先頭はガルド。

 次にリオル。

 その後ろにリゼ。

 最後尾にミナ。


 正解の模様を踏むたび、靴底にわずかな感触が返ってくる。


 針。

 針。

 鐘。

 月。

 鍵。

 鐘。

 羽。


 全員が無事に通り抜けた。


 後ろで石扉が静かに閉まる。


 ミナが息を吐いた。


「緊張しました」


「大丈夫でしたか?」


 リオルが振り返る。


「はい。足元が教えてくれたので、助かりました」


「よかったです。人には付与していないので安心です」


 ミナは小さく微笑んだ。


「リオルさんは、本当にそこを気にされるんですね」


「はい。とても」


「いつか、その理由を聞いてもいいですか?」


 リオルは一瞬、言葉に詰まった。


 理由。


 自分が付与した相手は、自分への好感度が上がってしまう。

 そう信じていること。


 人の心を変えるのが怖いこと。


 本物の友情が欲しいこと。


 それを話したら、変だと思われるだろうか。


 重いと思われるだろうか。


「……いつか」


 リオルは小さく答えた。


「ちゃんと、話せるようになったら」


「はい」


 ミナはそれ以上、踏み込まなかった。


 その距離感に、リオルは少しだけ救われた。


 リゼも何か言いたげだったが、黙っていた。


 ガルドは前方を見たまま言う。


「話すのは、帰ってからでいい。今は生きて出ることだ」


「はい」


 四人は再び歩き出した。


 人間関係が大きく変わったわけではない。

 劇的に絆が深まったわけでもない。


 けれど、ほんの少しだけ。


 リオルは、自分の事情をいつか話してもいいかもしれないと思った。


   ◇


 回廊の先には、小さな広間があった。


 中央には石の台座。

 その上に、古びた金属箱が置かれている。


 いかにも宝箱だった。


「開ける?」


 リゼが聞いた。


「開けません」


 リオルは即答した。


「迷宮の中央に置かれた箱は、基本的に罠です」


「夢がないわね」


「命の方が大事です」


「それはそう」


 ガルドが箱を観察する。


「鍵穴が三つある」


 ミナが壁を見る。


「壁にも同じ印があります。針、鐘、月……先ほどの模様と似ていますね」


 リオルは広間に粉を撒いた。


 粉は台座の周囲だけ避けるように流れた。


「台座の周囲に、見えない膜があります」


「膜?」


「魔力の境界です。踏み込むと作動するかもしれません」


 リゼがスティックを向ける。


「遠くから壊す?」


「壊した瞬間に罠が発動する可能性があります」


「じゃあどうするの?」


 リオルは少し考えた。


 箱を開けたいわけではない。

 けれど、迷宮の仕組みを理解するには、ここを調べる必要がある。


 リオルは台座ではなく、広間の壁へ手を向けた。


「極所付与」


 淡い光が、壁面に浮かぶ古代印に宿る。


「対象、壁の刻印に残る魔力痕。性質指定――過去反応の見えやすさ。二十四時間、増大」


 壁の刻印が淡く光った。


 そこに、かすかな映像のようなものが浮かび上がる。


 過去にこの部屋で罠が作動した時の、魔力の流れだ。


 床から針。

 天井から網。

 壁から矢。

 さらに、箱を開けた者の影に反応して、背後から刃が出る。


 リゼが顔をしかめた。


「殺意の詰め合わせじゃない」


「試験ですね」


 リオルは呟いた。


「これは侵入者を殺すためだけの罠ではありません。正しい手順を知らない者を排除する仕組みです」


「正しい手順は?」


 ミナが尋ねた。


「箱を開けるのではなく、箱に触れずに答えを示す」


「答え?」


 リオルは壁の刻印を順に見た。


 針、鐘、月、鍵、目、羽。

 そのうち、鍵の刻印だけが他より少し深い。


「この部屋の答えは、鍵です」


 ガルドが首をひねる。


「鍵穴が三つあるからか?」


「いえ、鍵を開けるという意味ではなく、鍵を不要にするという意味だと思います」


「どういうこと?」


 リゼが聞く。


 リオルは広間の床へ手を向けた。


「この台座周囲の膜は、触れると罠を起動する。でも、膜自体が箱を守っているわけではなく、侵入者が箱に近づいたかどうかを判定している」


「つまり?」


「判定を鈍らせます」


 リオルは静かに言った。


「対象、台座周囲の魔力膜。性質指定――侵入判定の忘れっぽさ。二十四時間、増大」


「忘れっぽさ?」


 リゼが思わず聞き返した。


 魔力膜が、ふわりと揺れた。


 リオルは小石を投げ入れる。


 小石は膜を通過し、箱のそばに落ちた。


 何も起きない。


「よし」


「今、罠に物忘れを付与したの?」


「はい」


「発想が最低に最高ね」


 リゼは感心しているのか呆れているのかわからない顔をした。


 リオルはさらに、箱の鍵穴へ視線を向けた。


「箱は開けません。ただ、中に何があるかは確認できます」


「どうやって?」


「中身そのものではなく、箱の隙間を」


 リオルは箱の蓋と本体のわずかな隙間へ付与した。


「対象、箱の蓋の隙間。性質指定――内側の光の漏れやすさ。二十四時間、増大」


 箱の隙間から、淡い青い光が漏れた。


 その光が床に文字を映す。


【第一区域通過者へ】

【針は道を示し、鐘は時を告げる】

【月は隠し、鍵は開かず、目は見すぎる】

【羽は落ちる者を救わない】


 ミナが読み上げた。


「詩のようですね」


 ガルドが腕を組む。


「意味があるのか」


 リオルは文字を見つめた。


「次の区域のヒントです。特に最後」


「羽は落ちる者を救わない、か」


 リゼが嫌そうに言った。


「落とし穴でもあるの?」


「おそらく」


 リオルは頷いた。


「しかも、浮遊や羽の魔法に頼ると危険なタイプかもしれません」


「どうして?」


「わざわざ『救わない』と書いてあります。羽の印は安全に見せかけた罠の可能性が高い」


 リゼは眉を寄せた。


「性格悪い迷宮ね」


「はい」


 リオルは素直に同意した。


 その時、広間の奥の石扉がひとりでに開いた。


 罠を起動せず、箱の中の文字を読んだことが正解だったらしい。


 ガルドが感心したようにリオルを見た。


「お前がいると、罠が戦う前に白旗を上げているように見えるな」


「白旗は上げていません。まだ敵意があります」


「真面目だな」


 リゼがにやりと笑う。


「でも、リオル向きの迷宮って感じはするわね。相手が罠なら、遠慮なく変な付与できるでしょ」


「変な付与ではありません」


「忘れっぽい魔力膜」


「必要な付与です」


「足裏への主張」


「安全確保です」


「床の鈍感さ」


「罠対策です」


「ほら、変じゃない」


「……」


 リオルは少し黙った。


「変でも、皆さんが怪我をしないならいいです」


 その言葉に、リゼは返事を詰まらせた。


 からかうつもりだった。

 だが、リオルの言葉があまりにまっすぐで、続けにくくなった。


「……まあ、それは助かるけど」


 リゼは小さく言った。


 ガルドもミナも、何も言わなかった。


 広間の空気が、少しだけ柔らかくなる。


 それは仲間としての劇的な絆ではない。

 ただ、危険な迷宮の中で、互いの考え方をひとつ知っただけ。


 それでも、十分だった。


   ◇


 奥の扉を抜けると、通路は急に狭くなった。


 壁の金属管が増えている。


 天井には、小さな穴が無数に空いている。


 床には、羽の印。


 リゼが足を止めた。


「出たわね。羽」


 ガルドが盾を前に出す。


「落とし穴か」


 リオルは石灰粉を撒いた。


 粉は床の羽印に触れた瞬間、すっと下へ消えた。


「床に隙間があります」


「見えないな」


「かなり精巧です。床板が薄い」


 リオルは小石を落とす。


 小石が羽印に触れた瞬間、床が開いた。


 その下には、暗い穴。


 そして、穴の壁面から無数の針が突き出していた。


 さらに、穴の中では風が上向きに吹いている。


「上昇気流?」


 ミナが不思議そうに言った。


「落ちても浮き上がれるように見せているんです」


 リオルの声が硬くなる。


「でも、たぶん違う。上昇気流に乗ると、壁の針に押し付けられる」


 リゼが顔をしかめた。


「羽は落ちる者を救わない、ってそういうこと」


「はい」


 ガルドが通路の幅を測る。


「跳び越えるには距離がある」


「魔法で足場を作る?」


 リゼが言った。


「音が罠を呼ぶかもしれません」


「じゃあ、また床?」


 リオルは頷いた。


「床です」


 彼は落とし穴の縁へ手を向けた。


「対象、穴の左右の壁面。性質指定――横方向への支えやすさ。二十四時間、増大」


 壁面が淡く光る。


「これで、壁を足場にできます」


「壁走りするの?」


 リゼが驚く。


「いえ。ガルドさんの盾を橋にします」


 ガルドが自分の大盾を見た。


「俺の盾か」


 リオルは慌てて言う。


「もちろん、盾そのものには付与しません。盾を支える壁に付与します」


「俺は気にしないが」


「僕が気にします」


「そうか」


 ガルドは短く頷いた。


 リオルが本気で嫌がることを、無理に押すつもりはなかった。


 ガルドは大盾を外し、落とし穴の上に斜めに渡した。

 左右の壁が盾をがっちり支える。


 即席の橋ができた。


「一人ずつ渡りましょう」


 リオルが言う。


「僕が最後に行きます」


「だめ」


 リゼが即答した。


「でも、盾を回収するには」


「最後はガルドでしょ。盾の持ち主なんだから」


「しかし」


 ガルドが口を開く。


「俺が最後でいい。盾は俺が回収する」


「でも危険です」


「危険をゼロにはできない。だが、役割は分けられる」


 ガルドはリオルを見た。


「お前は罠を見つける。リゼは遠距離で対応する。ミナは治療を見る。俺は最後に残って支える。それでいい」


 リオルは反論しかけた。


 だが、ガルドの目は静かだった。


 自分を犠牲にしたいわけではない。

 役割を果たしたいだけ。


 リオルは、その違いをまだうまく受け止めきれない。


 それでも。


「……わかりました」


 リオルは小さく頷いた。


「ただし、危なくなったらすぐ言ってください」


「ああ」


「絶対です」


「約束する」


 ガルドの返事を聞いて、リオルはようやく橋を渡った。


 続いてミナ。

 リゼ。


 最後にガルドが盾へ足をかける。


 その瞬間、天井の穴から、細い針が落ちてきた。


「上!」


 リゼが叫ぶ。


 リオルは反射的に手を向けた。


 人ではない。

 針に。

 空間に。


「極所付与!」


 彼の声が通路に響く。


「対象、落下中の針群の周囲空気。性質指定――下方向への進みにくさ。二十四時間、増大!」


 針の落下速度が急激に落ちた。


 まるで水中に沈むように、ゆっくりと漂う。


 ガルドはその隙に盾を引き抜き、こちら側へ跳んだ。


 着地。


 直後、落とし穴の床が完全に閉じる。


 遅れて、針がかすかな音を立てて床に落ちた。


 ちりん、ちりん。


 全員、無事だった。


 ミナが胸を撫で下ろす。


「よかった……」


 リゼはリオルを見た。


「今の、すごかったわ」


「針に付与したわけではなく、空気にしました」


「そこはもういいから」


「大事なので」


「はいはい」


 リゼは軽く息を吐いた。


 そして、少しだけ真面目な声で言う。


「でも、助かった。ありがと」


 リオルは一瞬、目を瞬いた。


「……どういたしまして」


 たったそれだけのやり取り。


 けれど、リオルにとっては少し不思議だった。


 付与で好感度を上げたわけではない。

 空気と針をどうにかしただけ。


 それでも、リゼはありがとうと言った。


 その言葉を受け取っていいのか、まだわからない。


 でも、受け取らないのは失礼かもしれない。


 リオルはそう思って、少しだけ頷いた。


   ◇


 その後も、針鳴りの回廊は容赦がなかった。


 壁から矢が出る通路では、リオルが「矢の直進への自信」を下げた。


 結果、矢は途中でふにゃりと曲がり、壁に刺さった。


「矢の自信って何よ」


「直進性のことです」


 リゼが突っ込む。


 天井がゆっくり降りてくる部屋では、リオルが「天井の降りる気まずさ」を増やした。


 結果、天井は途中でぎぎぎ、と止まった。


「天井、気まずくなったの?」


「降下機構の抵抗を増やしただけです」


 ガルドが笑う。


 床が突然滑る坂になる通路では、リオルが「床の親切心」を増やした。


 結果、坂の途中に足を引っかけやすい微細な凹凸が生まれ、全員が転ばずに進めた。


「今度こそ感情じゃない?」


 ミナが首をかしげる。


「僕がそう認識しただけで、実際は摩擦と凹凸です」


「リオルさんの認識、面白いですね」


「面白いでしょうか」


「はい。とても」


 リオルは困ったように黙った。


 褒められると、どう返していいかわからない。


 付与の影響ではないとわかっていても、完全には信じきれない。


 だが、ミナの言葉には不思議と圧がなかった。


 ただ、そう思ったから言った。

 それだけの穏やかさがあった。


 回廊を進むほど、四人の歩調は少しずつ合っていった。


 ガルドが前で危険を受け止める。

 リオルが罠を読み、床や空間へ付与する。

 リゼが音を抑えながら、小さな魔法で遠くの仕掛けを動かす。

 ミナが全体の状態を見て、無理が出ないように声をかける。


 派手な戦闘はない。

 強大な魔物も出ない。


 だが、罠ダンジョンの攻略は、戦いとは別の緊張があった。


 少しでも気を抜けば、一瞬で命を落とす。

 しかも相手は、痛みも恐怖も知らない仕掛け。


 リオルにとって、それはやりやすい相手であると同時に、恐ろしい相手でもあった。


 罠は説得できない。

 罠は謝ってくれない。

 罠は止まらない。


 だからこそ、見抜くしかない。


 広い円形の部屋に出た時、リオルは足を止めた。


「ここ、変です」


 部屋の中央には何もない。

 壁には六つの扉。


 それぞれの扉に、針、鐘、月、鍵、目、羽の印が刻まれている。


 床は滑らかな黒石。

 天井は高く、暗い。


 リゼが周囲を見回す。


「また選択式?」


「たぶん違います」


 リオルは床に粉を撒いた。


 粉は動かない。


 風もない。

 魔力の流れも薄い。


 あまりにも静かだった。


「罠がないように見える」


 ガルドが言った。


「それが変です」


 リオルは低く答えた。


 ミナが扉の印を見る。


「先ほどの箱の文字では、『目は見すぎる』とありましたね」


「はい」


 リオルは六つの扉のうち、目の印を見た。


 その瞬間。


 目の印が、わずかに動いた。


「見ないでください!」


 リオルが叫んだ。


 三人は反射的に視線を逸らした。


 直後、目の扉から細い光線が放たれた。


 光線はリオルたちの足元をなぞり、黒い床に赤い線を描く。


 赤い線は、ゆっくりと円になった。


 円の内側にいた四人の周囲で、床が沈み始める。


「落ちるぞ!」


 ガルドが盾を構える。


 リオルはすぐに床へ手を向けた。


「対象、沈下中の床の縁。性質指定――周囲との未練。二十四時間、増大!」


 沈みかけていた床が、がくんと止まった。


 リゼが叫ぶ。


「未練!?」


「床が周囲から離れにくくなりました!」


「もう何でもありじゃない!」


 だが、完全には止まらない。


 床はぎしぎしと音を立てている。

 下には暗い空洞が見えた。


 リオルの額に汗が滲む。


「この床、切り離し式です。付与で粘らせていますが、長くはもちません」


 ガルドが周囲を見る。


「どの扉に行く?」


「目はだめ。羽もだめです」


 リオルは短く答えた。


「針は道を示し、鐘は時を告げる。月は隠し、鍵は開かず、目は見すぎる、羽は落ちる者を救わない」


 ミナが繰り返す。


「鍵は開かず……鍵の扉は、開けてはいけない?」


「はい。月は隠す。つまり月の扉は隠し通路か、または隠された罠」


 リゼがスティックを握る。


「針は道を示すなら、針の扉?」


「たぶん」


 リオルは頷いた。


「でも、鐘は時を告げる。時間制限がある可能性があります」


 床がまた少し沈んだ。


 ガルドが盾を地面に突き立て、全員を支える。


「考える時間は少ないぞ」


 リオルは針の扉を見た。


 扉の針印は、まっすぐ上を向いている。


 しかし、よく見ると針の先端がわずかに傾いていた。


 右ではなく、左。


「針は道を示す……針の扉そのものではない」


 リオルは視線を動かす。


 針印の先が示しているのは、針の扉の隣。


 鐘の扉。


「鐘です!」


 リオルが叫んだ。


「鐘の扉へ!」


 リゼが小さな風魔法を放つ。


 爆発ではない。

 音を抑えた、静かな風。


 風が扉の取っ手を押す。


 鐘の扉が開いた。


 同時に、部屋のどこかで鐘の音が鳴る。


 かぁん。


 床の沈下が止まった。


 リオルはさらに付与を重ねる。


「対象、床と鐘の扉までの空間。性質指定――足場としての説得力。二十四時間、増大!」


 沈みかけた床と扉の間に、見えない踏み場のような感覚が生まれる。


 ガルドが先に動き、ミナを支える。

 リゼが続き、最後にリオルが走る。


 四人が鐘の扉を抜けた瞬間、背後の床が落ちた。


 重い音が、深い穴の底から響く。


 ごおおん。


 扉が閉じる。


 暗闇。


 しばらく、誰も声を出せなかった。


 やがてリゼが、壁に背を預けて息を吐いた。


「……危なかった」


「はい」


 リオルも膝に手をついた。


 ミナが全員の顔を確認する。


「怪我はありませんか?」


「俺は問題ない」


 ガルドが答える。


「私も平気」


 リゼが言った。


 リオルも頷く。


「大丈夫です」


 ミナはほっとしたように微笑んだ。


「よかったです」


 その表情を見て、リオルは少しだけ胸が痛くなった。


 もし自分の判断が遅れていたら。

 もし付与が間に合わなかったら。


 誰かが落ちていた。


 誰かが傷ついていた。


 その事実が、今さらのように重くのしかかる。


「すみません」


 リオルは小さく言った。


 リゼが眉をひそめる。


「なんで謝るの?」


「危険な判断をしました」


「危険な場所に来てるんだから、全部安全な判断なんて無理でしょ」


「でも」


 ガルドが低い声で言った。


「リオル。お前の判断で助かった」


「……」


「それは事実だ」


 ミナも頷く。


「私もそう思います」


 リゼが腕を組む。


「反省は帰ってから。今は進むか戻るか決める。それでいい?」


 リオルは三人を見た。


 誰も責めていない。

 誰も、彼の力だけを見ているわけではない。


 それが少し、怖かった。


 同時に、少しだけ温かかった。


「……はい」


 リオルはゆっくり頷いた。


「進みましょう。ここまで来たなら、第二区域の入口までは確認できます」


 リゼが笑う。


「よし。じゃあ、床に未練を持たせる付与術師さん、案内よろしく」


「その呼び方はやめてください」


 リオルは困ったように言った。


 けれど、その声にはほんの少しだけ余裕が戻っていた。


   ◇


 鐘の扉の先は、長い下り階段だった。


 階段の壁には、古い文字が刻まれている。


 リオルは歩きながら、その一部を読み取った。


【第一区域、選別の回廊】

【第二区域、審問の間】

【心なき力、通るべからず】

【答えなき者、針の眠りにつけ】


「心なき力……」


 ミナが呟いた。


「どういう意味でしょう」


「この迷宮を作った人たちは、力だけの侵入者を嫌っていたのかもしれません」


 リオルは壁文字を指でなぞった。


「罠も、単純に強いだけでは突破できないようになっています。観察して、考えて、手順を守る必要がある」


 リゼが鼻を鳴らす。


「つまり、脳筋お断りってことね」


 ガルドが静かに言う。


「俺を見るな」


「見てないわよ」


「今、確実に見た」


「盾が大きいから視界に入るのよ」


 リオルは小さく笑いそうになった。


 その瞬間、足元の階段がかすかに震えた。


 四人は同時に止まる。


 下の方から、低い音が響いた。


 かん。


 かん。


 かん。


 鐘の音。


 だが、さっきの扉の音とは違う。


 もっと重い。

 もっと深い。


 迷宮そのものの奥で、何かが目を覚ますような音だった。


 ガルドが盾を構える。


「魔物か?」


 リゼが魔力を探る。


「まだ遠い。でも、大きい反応がある」


 ミナの表情も引き締まった。


「嫌な感じがします」


 リオルは階段の先を見下ろした。


 暗い。

 しかし、その奥で青白い光が明滅している。


 壁文字の最後の一文が、淡く光った。


【審問者、起動準備】


 リオルは息を呑んだ。


「審問者……」


 リゼが小さく言う。


「それ、たぶん次の区域の番人よね」


「はい」


 リオルは頷いた。


 まだ姿は見えない。


 だが、迷宮の奥で確かに何かが動き始めている。


 第一区域は、罠による選別。

 そして第二区域は、審問。


 ただの罠ダンジョンではない。


 この先には、侵入者を試す何かがいる。


 ガルドが言った。


「今日は、第二区域入口の確認までが依頼だったな」


「はい」


 リオルは慎重に答えた。


「無理に奥へは入りません。まず入口の構造だけ確認して、戻ります」


 リゼが意外そうに見た。


「突っ込むって言わないのね」


「危険ですから」


「そこは本当に一貫してるわね」


 リオルは階段の先へ一歩進んだ。


 その瞬間、下方の闇から青白い光が広がり、巨大な扉の輪郭が浮かび上がった。


 扉には、六つの印が円形に刻まれている。


 針。

 鐘。

 月。

 鍵。

 目。

 羽。


 そして中央には、見たことのない七つ目の印。


 人の手のようにも、開いた本のようにも見える紋章。


 リオルの胸が、強く鳴った。


 その紋章の奥から、かすかに声のようなものが響く。


【問う】

【汝の力は、誰がためにある】


 リゼが息を止めた。


 ガルドが盾を構える手に力を込める。


 ミナが祈るように胸の前で手を組んだ。


 リオルは、扉の中央を見つめた。


 誰がためにある。


 その問いは、罠ではなかった。

 魔物の威嚇でもなかった。


 まるで、リオル自身へ向けられているようだった。


「僕の力は……」


 リオルは言いかけて、口を閉じた。


 まだ答えられない。


 人に付与したくない。

 心を変えたくない。

 誰も傷つけたくない。

 本物の友情が欲しい。


 それらは全部、本当だ。


 けれど、力が誰のためにあるのか。

 リオルはまだ、その答えを知らない。


 扉の奥で、もう一度鐘が鳴った。


 かぁん。


 第二区域の扉は、静かに閉ざされたまま。


 審問者は、まだ姿を現さない。


 だが、その存在だけが、冷たい圧となって四人の前に立ちはだかっていた。


 針鳴りの回廊、前半。

 罠の選別は、終わった。


 そして次に待つのは――。


 力の意味を問う、審問の番人だった。

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