ゴブリン村編-2 王冠に宿る、怖がりの知恵
オークキング・ヴァルガが去ったあと、ゴブリン村には重い沈黙が残っていた。
さっきまで枝の上からこちらを見ていた子どものゴブリンたちも、今は家の陰に隠れている。
大人のゴブリンたちは槍を握っているが、その手は震えていた。
無理もない。
相手は、歴代でもかなり強い部類のオークキング。
巨大な戦斧を持ち、怪力だけでなく武術まで使う。
そしてこちらの王は、木の台の上で王冠を押さえながら、今にも泣きそうな顔をしている小柄なゴブリンだった。
「グリム……半秒もたない……」
ゴブリンキング・グリムは、何度目かわからない言葉を繰り返した。
リゼが腕を組む。
「半秒って、自分で言うにはだいぶ具体的ね」
ギギが真顔で言った。
「たぶん、最初の斧、見えない。だから半秒」
「部下の方もだいぶ具体的ね」
ミナはグリムの前にしゃがみ、目線を合わせた。
「グリムさん。まだ三日あります」
「三日で、グリム、強くなる?」
「……急に筋肉を増やすのは難しいです」
「終わり……」
「でも、戦い方を考えることはできます」
ミナがそう言うと、グリムは少しだけ顔を上げた。
リオルも頷く。
「オークキングと同じ土俵で力比べをしたら、勝てないと思います」
「うん……」
「でも、縄張りバトルの勝敗条件は、相手を殺すことではないんですよね」
ギギが頷いた。
「うん。王と王、戦う。負けた、言ったら終わり。動けないも終わり。逃げたも終わり」
ガルドが言う。
「つまり、相手に負けを認めさせるか、戦闘続行不能にするか、撤退させるか」
「はい」
リオルは割られた倒木を見た。
ヴァルガの斧筋は完璧だった。
力も速さも技量もある。
正面から打ち合えば、グリムに勝ち目はない。
だが、勝ち目がないことと、打つ手がないことは違う。
リゼがスティックを肩に担いだ。
「で、リオル。どうするの? いつもの世界への変な付与?」
「まだ決められません」
「珍しく慎重ね」
「いつも慎重です」
「まあ、人に付与しない件に関してはね」
リオルはグリムを見た。
ゴブリンキング本人に付与することはできれば避けたい。
たとえ相手がゴブリンでも、心や身体を勝手に変えることへのためらいは同じだ。
だが、村を守るには何かが必要だった。
グリムを強い別人にするのではなく、グリムのまま立たせる方法。
そのヒントを探さなければならない。
「まず、グリムさんのことを知りたいです」
リオルは言った。
「戦闘訓練ではなく、普段どうやって村を守っているのかを見せてもらえますか」
グリムは目をぱちぱちさせた。
「戦わない?」
「はい。今は戦いません」
「それなら……少しできる」
グリムは台からそろそろと降りた。
王冠がずれそうになり、慌てて両手で押さえる。
その姿は、とても王らしくは見えなかった。
けれど村のゴブリンたちは、笑わなかった。
むしろ心配そうに彼を見ている。
それだけで、リオルには少しわかった。
グリムは強いから王なのではない。
守ろうとしてきたから、王として見られているのだ。
◇
グリムがまず案内したのは、村の外周だった。
丸太柵は低く、強い魔物なら簡単に壊せる。
だが、よく見ると柵の前には浅い溝が掘られていた。
その溝は一直線ではなく、蛇行している。
ガルドがしゃがんで確認する。
「突進を殺すための溝か」
グリムはこくこく頷いた。
「大きい魔物、まっすぐ来る。溝、足、ずれる。少し遅くなる」
「深く掘らないのはなぜだ」
「深いと、子ども落ちる。あと、雨で崩れる」
ガルドは感心したように頷いた。
「よく考えている」
グリムは驚いた顔をした。
「よく?」
「ああ。防衛は、強い壁を作ればいいというものではない。自分たちが使えない壁は邪魔になる」
グリムは少しだけ背筋を伸ばした。
次に案内されたのは、見張り台だった。
木の枝を組んだ小さな足場。
高くはないが、森の中を広く見渡せる位置にある。
ギギが説明する。
「キング、ここ、決めた。風、こっち来る。匂い、早い。鳥、急に飛ぶ、見える」
リゼが上を見上げる。
「地味だけど、いい位置ね。森の入口と獣道が両方見える」
「グリム、高いところ怖い。でも、ここなら怖い、少し」
「怖いのに登るの?」
ミナが尋ねると、グリムは王冠を押さえて小さく頷いた。
「怖いから、先に見る。見えない方が、もっと怖い」
リオルは、その言葉を胸の中で繰り返した。
怖いから、先に見る。
それは弱さではない。
危険を早く知るための感覚だ。
さらに村の奥には、食料庫があった。
木の実、干し肉、薬草、雨水を溜めた壺。
数は多くないが、きちんと分類されている。
グリムは枝で地面に印を書いた。
「木の実、三日分。干し肉、二日分。子ども多い時、先に子ども。病気いる時、薬草ここ」
ミナが驚いたように言った。
「備蓄量を把握しているんですね」
「数える、得意」
「すごいです」
グリムはまた、目を丸くした。
褒められることに慣れていないらしい。
リゼは小声でリオルに言った。
「戦いは弱いけど、村長としてはかなり優秀じゃない?」
「はい」
リオルは頷いた。
「少なくとも、彼の怖がりは村の仕組みになっています」
最後に案内されたのは、村の中央にある小さな広場だった。
そこには、木の棒や石が並べられている。
訓練場らしい。
グリムは短い木剣を持った。
「グリム、戦う練習もした。でも、弱い」
「見せてもらえますか」
リオルが言うと、グリムは青ざめた。
「見る?」
「危なくない範囲で大丈夫です」
ギギが相手役になった。
ギギもゴブリンなので強くはない。
だが、グリムよりはずっと動ける。
「いく」
ギギが木槍を軽く突き出す。
グリムは悲鳴を上げながら、目をつぶって横に飛んだ。
木槍は当たらない。
しかし、グリムはそのまま転び、王冠が地面に落ちた。
「……」
リゼが黙った。
ミナも言葉を選んでいる。
ガルドは腕を組み、真剣に見ていた。
グリムは地面に座り込み、王冠を拾った。
「ほら……弱い」
ギギが少し気まずそうに言う。
「でも、今、避けた」
「たまたま」
グリムはしょんぼりする。
リオルは今の動きを思い返した。
目をつぶっていた。
転んだ。
無様だった。
けれど、避けた。
しかも、ギギの突きをかなり早い段階で察知していた。
「もう一度、お願いします」
リオルが言った。
グリムは泣きそうになった。
「もう一度……?」
「はい。ただし、今度は目をつぶらなくて大丈夫です。怖かったら、怖いと言ってください」
グリムは木剣を握り直した。
ギギがもう一度、ゆっくり突きを出す。
「ひゃっ!」
グリムはまた横へ跳ぶ。
今度は転ばなかった。
ただ、王冠がずれて目にかかり、そのまま尻もちをついた。
リゼが思わず言う。
「王冠、邪魔じゃない?」
グリムは王冠を押さえた。
「でも、キング、王冠いる」
「そりゃそうだけど」
リオルは王冠を見た。
木の枝と小さな骨、乾いた草紐で作られた粗末な王冠。
装飾としては不格好だ。
重心も悪い。
動けばずれる。
だが、その王冠には、多くの手が加わっていた。
結び直された跡。
補修された枝。
子どものゴブリンがつけたらしい小さな木の実の飾り。
焦げ跡。
泥の跡。
ただの飾りではない。
村の記録だ。
リオルは静かに尋ねた。
「その王冠は、誰が作ったんですか」
グリムは王冠を見つめた。
「前のキング、持ってた。でも壊れた。みんな、直した。ギギ、枝。子ども、実。おばば、草紐。グリム、王冠重い。でも、みんな、くれた」
ミナが小さく微笑んだ。
「村の王冠なんですね」
「うん」
グリムは王冠を胸に抱えた。
「これあると、逃げちゃだめ、思う。でも重い。ずれる。見えない。怖い」
リオルの中で、何かが引っかかった。
王冠は、グリムを縛っているのか。
それとも、支えているのか。
今はまだ、重すぎる。
でも、もし王冠が彼を邪魔しないなら。
もし、村の声を伝えるものになるなら。
リゼがリオルを見た。
「思いついた?」
「まだ、形にはなっていません」
「でも、何か見つけた顔してる」
「はい」
リオルは王冠を見た。
「たぶん、グリムさんに付与する必要はありません」
グリムが不安そうに聞く。
「付与?」
「あなた自身を強く変えるものではありません」
リオルはゆっくり言った。
「王冠や、旗や、村の声。あなたが王として持つものに、できることがあるかもしれません」
グリムはよくわからないという顔をした。
無理もない。
リオル自身も、まだ完全にはわかっていなかった。
◇
その夜、リオルたちはゴブリン村に泊まることになった。
もちろん、村の中ではなく、外周の見張り台近くに簡易の寝床を借りる形だ。
ゴブリンたちは人間を完全には信用していない。
リオルたちも、無用な不安を与えないよう距離を取った。
夕食として出されたのは、木の実を潰した団子と、薄いきのこ汁だった。
リゼは団子を見つめる。
「……思ったより素朴ね」
ギギが誇らしげに言う。
「木の実、うまい。ちょっと渋い」
「ちょっと?」
リゼが一口食べ、微妙な顔になった。
「かなり渋い」
ミナはゆっくり味わって言った。
「でも、栄養はありそうです」
ガルドは普通に食べている。
「悪くない」
「ガルド、何でも食べるわね」
「食える時に食う」
リオルも団子を食べた。
確かに渋い。
だが、不思議と温かかった。
食事のあと、村の中央でゴブリンたちが小さな声で歌い始めた。
決して上手ではない。
音程も不安定だ。
だが、リズムがあった。
鳴子を鳴らす時の拍子。
見張りが合図を送る時の音。
子どもを避難穴へ誘導する時の短い掛け声。
それらが混ざった歌だった。
ミナが静かに聞いている。
「これが、村の声でしょうか」
ギギが頷く。
「昔から。こわい時、歌う。声あると、みんないる、わかる」
リゼが腕を組んだ。
「応援というより、位置確認なのね」
「はい」
リオルは広場の方を見た。
グリムは台の近くで、王冠を抱えて座っている。
歌を聞きながら、目を閉じて震えていた。
怖いのだろう。
けれど、逃げてはいない。
村の声を聞いて、そこにいる。
リオルは、ふと理解した。
グリムの強さは、戦う力ではない。
怖さを消す力でもない。
怖いまま、危険を見て、逃げ道を作り、みんながどこにいるかを覚えている力。
なら、消すべきではない。
グリムの怖さは、彼の目だ。
彼の王冠は、その怖さを村のために使うための印だ。
「……付与できるものが、わかったかもしれません」
リオルが呟くと、リゼが隣に来た。
「何?」
「グリムさんの強さを増やすのではなく、彼の怖がりが村の知恵として働くようにします」
「具体的には?」
「王冠です」
リオルはグリムの王冠を見た。
「王冠に残っている村のみんなの手。補修の跡。歌。鳴子。逃げ道の記憶。それらを、戦いの中で見失わないようにする」
ミナが静かに言った。
「グリムさんがひとりで戦っているのではなく、村と一緒に立っていると感じられるように」
「はい」
ガルドが問いかける。
「それでオークキングに勝てるか」
「まだ足りません」
リオルは正直に答えた。
「王冠だけでは、ヴァルガの斧を避けきれません。もう一つ、必要です」
「もう一つ?」
「彼が得意なことです」
リゼが考える。
「逃げ道を覚えること?」
「はい。逃げるのではなく、危険な位置を早く知って、そこから外れること」
リオルは地面に枝で円を描いた。
「縄張りバトルの会場が古戦場なら、地面には石や溝や古い武器の跡があるはずです。そこに、グリムさんの“逃げ道を見る力”を助ける付与ができるかもしれません」
「本人じゃなくて、足場に?」
「はい。足場に」
リゼが笑った。
「出た、床の味方」
「床は重要です」
「知ってる」
リオルは続ける。
「グリムさんの王冠には“村の声を見失わない性質”。会場の地面には“危ない場所と逃げる場所を知らせる性質”。そして、村の声には……」
リオルは歌を聞いた。
不揃いで、弱くて、震えている。
でも、消えていない声。
「“王がまだ立っていると伝わりやすい性質”」
ミナは小さく頷いた。
「応援が、支えになるんですね」
「はい。ただし、心を無理に変えるものではありません。グリムさんがもう持っているものを、見失いにくくするだけです」
ガルドが腕を組む。
「それなら、外部介入には当たらないか」
「微妙です」
リオルは正直に言った。
「だから、ゴブリン村とグリムさん自身の許可が必要です。それに、決闘の規則に触れない範囲でなければなりません」
リゼがにやりと笑う。
「真面目ね」
「大事です」
「うん。そこがリオルらしいわ」
リオルは少しだけ目を伏せた。
その言葉を、以前より素直に受け取れるようになっている自分に気づく。
◇
翌朝。
リオルはグリムと村の長老らしき老ゴブリン、そして見張り役のギギを前にして、考えを説明した。
グリムは最初、話の半分も理解できていなかった。
「つまり……グリム、強くなる?」
「急に強くはなりません」
「やっぱり終わり……」
「終わりではありません」
リオルは慌てて続ける。
「あなたの怖がりを消すのではなく、怖いからこそ見えるものを見失わないようにします」
グリムは首をかしげた。
「怖い、役に立つ?」
「はい」
リオルは村の柵を指さす。
「溝。見張り台。避難穴。備蓄。鳴子。全部、あなたが怖がったから作れたものですよね」
「……うん」
「なら、その怖さは村を守る力です」
グリムは黙った。
長老ゴブリンが、しわがれた声で言った。
「グリム、いつも震える。でも、最初に気づく。森の変、風の変、子の熱、食べ物の減り。強い王、前にいた。だが、気づく遅い。グリム、弱い。でも、村、残した」
グリムの目が揺れた。
「おばば……」
「弱い王、悪くない。弱い知る王、村にはいる」
リゼが小声で言う。
「いいこと言うじゃない、おばば」
ミナも静かに頷いた。
リオルはグリムの王冠を見た。
「王冠に付与するには、あなたの許可が必要です。あなた自身ではなく、王冠です。でも、その王冠はあなたにとって大切なものです」
グリムは王冠を抱えた。
「付与、したら、グリム、リオル好きになる?」
リオルは固まった。
リゼが吹き出しそうになる。
「そこ、本人に刺さる質問ね」
リオルは真剣に答えた。
「その可能性があると思って、僕は人に付与したくありません」
「でも、王冠?」
「はい。王冠に付与しても、あなたの心を変えないようにしたいです。だから、あなたが嫌ならしません」
グリムはしばらく考えた。
そして、王冠をそっと差し出した。
「グリム、怖い。でも、村、もっと怖い。村なくなる、もっと怖い。だから、王冠なら、いい」
リオルは両手で王冠を受け取った。
軽い。
だが、グリムには重かったのだろう。
村のみんなが直した王冠。
王として逃げないための印。
けれど、視界を塞ぎ、重く、ずれやすいもの。
リオルは、まず王冠の物理的な問題を見る。
草紐の結び目。
木の枝の角度。
内側の当たり。
「まず、付与の前に調整が必要です」
「調整?」
ギギが聞く。
「はい。これは鍛冶ではありませんが、装備品のメンテナンスと同じです。王冠がずれるなら、付与以前の問題です」
リゼが笑った。
「昨日の鍛冶屋回が生きてるわね」
「回?」
「なんでもない」
リオルは村のゴブリンたちに協力してもらい、王冠の内側に柔らかい布と草紐を足した。
重心を少し後ろへずらし、視界を塞いでいた飾りを横へ移す。
子どもゴブリンがつけた木の実は、外さずに位置だけ変えた。
グリムがかぶると、王冠は以前より安定した。
「落ちない……」
グリムが驚く。
「前、見える」
「それは最初から直した方がよかったんじゃない?」
リゼが言うと、ギギが気まずそうに目を逸らした。
「王冠、えらいもの。触る、怖い」
「なるほど。神聖すぎて不便になってたのね」
リオルは王冠へ手を向けた。
「では、付与します」
村のゴブリンたちが息を呑む。
グリムも目を閉じた。
「極所付与」
淡い光が、王冠の補修跡に宿る。
「対象、王冠に残る村人たちの補修跡と結び目。性質指定――王がひとりではないことを思い出させる重さ。二十四時間、増大」
王冠が淡く光った。
重くする付与ではない。
重さの意味を変える付与。
グリムは王冠を押さえた。
「……重い。でも、前の重い、違う」
「どう違いますか」
「ずしん、じゃない。ぽん、っている」
「ぽん?」
リゼが首をかしげる。
グリムは言葉を探した。
「頭の上、みんなの手、ぽんって乗ってる。重い。でも、下に押さない。後ろから、いる」
ミナが微笑んだ。
「支えられている感じでしょうか」
「うん。たぶん」
リオルはほっと息を吐いた。
「次に、王冠の内側です」
彼は王冠そのものではなく、王冠とグリムの頭の間にあるわずかな空間へ手を向けた。
「対象、王冠と頭の間の空気。性質指定――視界を邪魔せず、怖いものを早く見せる透明さ。二十四時間、増大」
グリムが目を開けた。
「……見える」
「何が見えますか」
「ギギの槍、動く前、肩、見える。リゼ、火、出そうな指、見える。ガルド、大きい盾、怖い。でも、どこ動くか、少し見える」
ガルドが頷いた。
「予兆を拾いやすくなったか」
「はい。本人の感覚を変えたのではなく、王冠の内側の空気が視界の邪魔をしないようにしました」
リゼが小声で言う。
「またギリギリを攻めるわね」
「直接付与ではありません」
「その理屈、だんだん理解できてきた私も怖い」
さらにリオルは、村の鳴子へ付与した。
「対象、村の鳴子の音。性質指定――危険ではなく、位置を知らせる音としての聞き分けやすさ。二十四時間、増大」
鳴子が鳴る。
かろん、ころん。
グリムはすぐに顔を上げた。
「東、子ども。西、ギギ。南、おばば」
村のゴブリンたちが驚きの声を上げる。
グリムはもともと音に敏感だった。
その敏感さを、王冠と鳴子が整理した。
怖い音ではなく、村の位置を知らせる声へ。
リオルは最後に、村の小さな旗へ手を向けた。
布切れを縫い合わせた、緑と茶色の旗。
決闘の日、王の後ろに立てるものだという。
「対象、村の旗の影。性質指定――王の後ろに村がいることを地面へ映す濃さ。二十四時間、増大」
旗の影が、少しだけ濃くなった。
グリムはそれを見つめた。
「後ろ、いる」
「はい」
リオルは言った。
「あなたが見るべきものは、オークキングの斧だけではありません。あなたの後ろにいる村もです」
グリムは震えていた。
でも、昨日とは少し違った。
震えながらも、王冠を押さえる手に力が入っていた。
◇
その日の午後、簡単な訓練が始まった。
勝つための攻撃訓練ではない。
避ける。
距離を取る。
足場を見る。
相手の肩や腰を見る。
怖くなったら、後ろの旗と鳴子の音を確認する。
グリムは何度も転んだ。
何度も悲鳴を上げた。
ギギの木槍に驚いて尻もちをつき、リゼの小さな火花に飛び上がり、ガルドの盾の音に涙目になった。
それでも、少しずつ変化があった。
最初は半秒ももたなかった。
次は一秒。
次は二秒。
次は、ギギの突きを見てから避けた。
リゼが手を叩く。
「今の、ちゃんと見て避けたわよ!」
グリムは荒い息を吐きながら震えている。
「こわい……でも、見えた」
ミナが水を渡す。
「それでいいんです。怖くないふりをしなくていいんです」
ガルドが言う。
「戦場で怖さを失う必要はない。怖さで止まらなければいい」
グリムはこくこく頷いた。
「怖い。でも、止まらない。たぶん、少し」
リオルは訓練場の地面を見た。
古戦場ではない。
だが、地面の小石や足跡に付与をすれば、グリムの逃げ道を見る力を助けられる。
決闘当日、会場を確認できれば、さらにできることがある。
問題は、規則だ。
外部者の直接介入にならないよう、決闘前に場を整える必要がある。
リゼが隣に来る。
「まだ足りない顔ね」
「はい。オークキングは強いです。グリムさんが避けられるようになっても、いずれ追い詰められる」
「じゃあ、勝ち筋は?」
「ヴァルガに、グリムさんを侮れないと思わせること」
「倒すんじゃなくて?」
「たぶん、倒せません」
リオルは正直に言った。
「でも、縄張りバトルの勝ちは、相手に認めさせることでも成立します」
リゼは目を細めた。
「つまり、オークキングが“この村を従えるより、別の形で付き合う方が得だ”と思えばいい」
「はい」
「それ、戦いというより交渉ね」
「グリムさんの本当の強さは、村を維持する力です。そこを見せられれば」
リゼは少し笑った。
「いいじゃない。弱すぎるゴブリンキングが、強すぎるオークキングに“こいつは潰すより残した方がいい”って思わせるわけね」
「はい」
「面白くなってきたわ」
その時、訓練場の端で、グリムがまた転んだ。
王冠は落ちなかった。
グリムは地面に手をつき、顔を上げる。
そして、小さく言った。
「まだ、立つ」
村のゴブリンたちが、息を呑んだ。
ギギが槍を下げる。
「キング……」
グリムは震えている。
膝も笑っている。
でも、立ち上がった。
リオルはそれを見て、ようやく少しだけ確信した。
勝てるかどうかは、まだわからない。
だが、グリムはもう半秒で終わる王ではない。
怖がりの王冠は、村の声を乗せて、彼の頭上にしっかりと収まっていた。
◇
夜。
決闘まで、あと二日。
ゴブリン村では、鳴子の音が静かに響いていた。
かろん、ころん。
その音を聞きながら、グリムは王冠を抱えて眠っている。
リオルは見張り台の下で、古戦場の地図をギギから聞き取っていた。
「ここ、石多い。ここ、昔の穴。ここ、草、すべる。ここ、骨ある」
「ありがとうございます。足場がかなり重要になります」
リゼが隣で伸びをする。
「明日は古戦場の下見ね」
「はい」
ガルドが言った。
「ヴァルガも来る可能性がある」
「そうですね」
ミナは少し心配そうに村を見る。
「オークキングは、グリムさんの変化に気づくでしょうか」
「気づくと思います」
リオルは答えた。
「強い戦士ほど、相手の目や足運びを見るはずです」
リゼがにやりと笑う。
「じゃあ、見せてやらないとね。弱い王様の、弱いままの強さ」
リオルは王冠の付与を思い返した。
王冠。
鳴子。
旗。
足場。
ゴブリンキング本人ではなく、彼が王として持つもの。
そこに付与することで、グリムの怖がりは消えない。
むしろ、彼自身の強みとして働き始める。
これが、ヒントだった。
人を変えずに、その人が持つ意味を整える。
いや、ゴブリンの場合も同じだ。
相手を別人にするのではなく、相手が自分のまま立てるようにする。
リオルは空を見上げた。
森の枝の向こうに、星が見える。
明後日、弱すぎるゴブリンキングは、強すぎるオークキングと向き合う。
勝てる保証はない。
だが、何を付与すべきかは見えてきた。
王冠に宿る村の手。
鳴子に宿る村の声。
旗が落とす村の影。
そして、怖がりの王が誰よりも早く見つける、逃げ道。
その全部が揃った時、グリムはただ逃げるだけの王ではなくなる。
逃げ道を知っているからこそ、みんなを生かす王になる。
リオルは小さく呟いた。
「次は、古戦場です」
森の奥で、遠くオークの角笛が鳴った。
決闘の日が、近づいていた。




