閑話 休息と鍛冶屋と、消えた蒸気
デュラハン編の騒動が終わった翌日。
《帰路の灯》は、休むことになった。
正確には、ミナが朝食の席で両手をつき、普段より少し強めの声で言った。
「今日は、依頼を受けません」
リゼがパンをかじりながら片眉を上げる。
「珍しく強いわね、ミナ」
「強く言わないと、リオルさんが『少しだけ調査を』と言い出しそうなので」
「言いません」
リオルは即座に否定した。
否定したが、鞄の中にはすでに、デュラハンが残した白い欠片と、陽だまり草の小瓶と、雷門の封標片に関するメモが入っている。
リゼがじとっと見る。
「今、鞄の中で調査の準備してる顔してる」
「顔に出ますか」
「出るわよ。最近わかるようになってきた」
ガルドが肉と豆の煮込みを食べながら、低い声で言った。
「休息も仕事だ」
「はい」
リオルは素直に頷いた。
ミナも柔らかく微笑む。
「ただ、装備品の点検はしておきたいです。ガルドさんの盾も、リゼさんのスティックも、かなり無理をしましたから」
「私のスティック、雷猪の時にちょっと焦げたのよね」
リゼがスティックを見下ろす。
赤いスティックの先端には、黒い焦げ跡が残っていた。
「焦げたというか、爆発壺が漏れたというか」
「その壺、実在するみたいに言わないでください」
ガルドの盾も、ひどい状態だった。
デュラハンの槍を受け、雷猪の突進を逸らし、雷門の中心を支えた大盾である。
表面には深い擦過痕が走り、縁の一部はわずかに歪んでいる。
ミナの白い杖にも、小さなへこみがいくつもあった。
「ぽこんしすぎました」
ミナが少し恥ずかしそうに言う。
リゼが笑った。
「ぽこんヒーラー、正式に板についてきたわね」
「正式には困ります」
「でも強いのよね、ぽこん」
「呼び方だけ、なんとか……」
リオルは自分の短剣を確認した。
ほとんど使っていないはずなのに、鞘に細かい傷がある。
付与術で世界そのものに干渉していると、道具も意外と負担を受けるらしい。
「では、鍛冶屋へ行きましょう」
ガルドが言った。
「王都の南工房街に、信頼できる鍛冶師がいる」
こうして、休息日の予定は決まった。
依頼ではない。
戦闘でもない。
ただの装備メンテナンス。
そのはずだった。
◇
王都南工房街は、朝から熱気に包まれていた。
石畳の通りには、金属を叩く音が響く。
煙突からは白い煙が立ち上り、工房の前には剣、鍋、農具、鎧の部品が並んでいる。
ガルドが案内したのは、通りの奥にある古い鍛冶屋だった。
看板には、鉄槌と炎の紋章。
【ボルク鍛冶工房】
中へ入ると、むわっと熱気が押し寄せた。
「おう、ガルドじゃねえか」
奥から現れたのは、太い腕をした中年の鍛冶師だった。
短く刈った赤茶の髪。
煤で黒くなった前掛け。
鋭い目つき。
いかにも頑固そうな人物である。
「ボルク。装備の点検を頼みたい」
「見せてみろ」
ボルクはガルドの盾を受け取るなり、眉を跳ね上げた。
「おいおい。何を受けたらこんな傷になる」
「デュラハンの槍と、雷猪の突進だ」
「昨日の山の騒ぎか。なるほどな」
ボルクは盾の縁を指で叩いた。
こん、こん、と低い音がする。
「芯は無事だ。だが、外縁が少し眠ってる」
「眠ってる?」
リオルが聞く。
ボルクはちらりとリオルを見た。
「金属ってのはな、使い込むと場所によって疲れる。叩かれすぎた部分は、音が鈍る。俺はそれを眠ってると言ってるだけだ」
「なるほど」
リオルは真剣に頷いた。
リゼが小声で言う。
「あんたの“床の未練”とか“影の正直さ”に近い表現ね」
「近いかもしれません」
「近いんだ」
ボルクはリゼのスティックを見て、今度は苦い顔をした。
「こいつは焦げすぎだ。魔術師はすぐ火力で解決しようとする」
「今回はかなり我慢した方よ」
「我慢してこれか」
「爆発壺を割らなかっただけ偉いと思って」
「何だその壺は」
「心の中にあるの」
「工房に持ち込むな」
ミナの白い杖も点検される。
ボルクは杖の小さなへこみを見て、首をかしげた。
「治癒師の杖にしては、妙に打撃痕が多いな」
ミナは視線を逸らした。
「少し、叩く機会がありまして」
「何を」
「地面や空気や魔物などを……」
「治癒師とは」
ボルクは深く考え込んだ。
リオルは慌てて言う。
「ミナさんの打撃は、回復につながるんです」
「余計にわからん」
もっともな反応だった。
ひと通り装備を見たボルクは、炉の前に立った。
「盾の縁は打ち直す。スティックは焦げを落として、魔力の通りを整える。白い杖は……まあ、へこみを戻す」
「お願いします」
ガルドが頷いた。
リオルは炉をじっと見ていた。
赤く燃える炎。
熱された金属。
水槽から立ち上る蒸気。
槌が打ち込まれるたびに飛ぶ火花。
すべてが、役目を持って動いている。
ボルクがそれに気づいた。
「坊主、炉が気になるのか」
「はい。炎の流れと蒸気の動きが、とても複雑なので」
「鍛冶の炎は生き物みたいなもんだ。強すぎれば焼き殺す。弱すぎれば起こせない。蒸気も同じだ。逃がし方を間違えると、金属が歪む」
「逃がし方……」
リオルの目が少し輝いた。
リゼがすぐに言う。
「その顔、何か思いついたでしょ」
「少しだけ」
「危ない?」
「人には付与しません」
「それは知ってる」
ボルクが腕を組む。
「付与術師か」
「はい。ただ、人や装備に直接付与するのは避けています」
「変わってるな。付与術師なら装備を強くしてなんぼだろう」
「装備を持つ人に影響が流れる可能性があるので」
ボルクは数秒黙った。
そしてガルドを見た。
「いつもこんな感じか」
「いつもだ」
「そうか」
短い納得だった。
リオルは炉の前に立った。
「炎そのものではなく、炎と金属の間にある熱の届き方。あるいは、水槽で発生する蒸気の逃げ道に付与すれば、金属への負担を減らせるかもしれません」
ボルクの目が鋭くなった。
「面白い。だが、炉で遊ぶなよ。炎は機嫌を損ねると工房ごと食う」
「はい。小さく試します」
「どれくらい小さく」
「指先ほどの範囲で」
リゼが不安そうに言う。
「その“指先ほど”が、たまに世界を変えるのよね」
「今回は大丈夫です」
「その言葉、信頼しきれないのよ」
リオルは炉ではなく、水槽の上に立ち上る蒸気を見た。
熱した小さな鉄片を水に入れると、じゅう、と音がして白い蒸気が上がる。
リオルはその蒸気の一部へ手を向けた。
「極所付与」
淡い光が、蒸気の中に宿る。
「対象、水槽上に発生した蒸気のごく一部。性質指定――周囲の空気を邪魔せず、すっと退く静けさ。二十四時間、増大」
次の瞬間。
音が消えた。
じゅう、と鳴っていた蒸気の音が、ぷつりと切れた。
白い蒸気の中に、丸い透明な穴が生まれる。
ほんの指先ほどの、小さな空白。
そこだけ、空気も蒸気も存在しないように見えた。
リゼが固まる。
「……何あれ」
ガルドが眉をひそめる。
「穴か?」
ミナが一歩下がった。
「空気が……ない?」
ボルクの顔が、職人の興味と本能的な恐怖で引きつった。
「おい坊主。今、何を作った」
リオルも目を丸くしていた。
「……極所的な、真空状態です」
「真空?」
「空気も蒸気も退きすぎました」
「退きすぎたって何よ!」
リゼが叫んだ。
小さな真空の穴は、周囲の蒸気を吸い込むように歪んだ。
次の瞬間、ぱん、と乾いた音が鳴る。
蒸気が一気に戻り、白い煙が小さく弾けた。
工房の中に、しばし沈黙が落ちる。
ボルクがゆっくりとリオルを見る。
「坊主」
「はい」
「お前、鍛冶場で空を消したな?」
「空気を少し退かせただけです」
「それを空を消したって言うんだよ」
リゼが頭を抱えた。
「休息回なのに、とんでもないもの出てきたわね」
ミナが心配そうにリオルを見る。
「大丈夫ですか? 負担は?」
「僕は大丈夫です。ただ、想定より蒸気が素直に退いてしまいました」
「素直に退くと真空になるのね……」
ガルドは水槽の上の空間を見つめていた。
「使い方を誤れば危険だな」
「はい」
リオルは真剣に頷いた。
「生き物の近くでは絶対に使えません。呼吸に関わりますし、圧力差で怪我をします」
「それを聞けて安心したわ」
リゼが言った。
「思いついた瞬間に戦闘で使い出さないか心配だったのよ」
「使いません」
「ほんとに?」
「人には絶対に使いません」
「魔物には?」
「必要がなければ使いません」
「必要があったら?」
「……範囲と対象を慎重に限定します」
「やっぱり怖いじゃない」
ボルクは腕を組んで考え込んでいた。
そして、突然にやりと笑う。
「だが、面白い」
リゼが嫌な予感のする顔をした。
「鍛冶屋さん?」
「蒸気の抜けを極小で制御できるなら、焼き入れの時に気泡を逃がせるかもしれん。金属の表面に余計な膜を作らず、熱だけを通せる可能性もある」
リオルの目も輝く。
「金属に直接付与せず、炎と蒸気の逃げ道だけを整える」
「そうだ。道具には手を出さず、鍛冶の環境だけを整える。坊主、お前の変なこだわりと相性がいい」
「変なこだわり……」
ミナが小さく笑った。
「でも、リオルさんらしいです」
リオルは少し困った顔をしながらも、否定しなかった。
その後、ボルクの監督のもと、リオルはさらに小さな実験を行った。
炉の炎そのものには付与しない。
炎と金属の間にある、熱の通り道だけ。
「対象、炉内の小鉄片の表面から一ミリ離れた熱の層。性質指定――余計な焦げを置いていかない丁寧さ。二十四時間、増大」
鉄片の表面が、いつもより均一に赤く染まった。
次に、焼き入れの瞬間。
「対象、鉄片表面に発生する蒸気膜の端。性質指定――必要な分だけ道を空ける控えめさ。二十四時間、増大」
今度は真空の穴は生まれなかった。
蒸気が薄く、均一に逃げる。
じゅう、という音がいつもより澄んでいた。
ボルクは鉄片を取り出し、光にかざした。
「……表面が荒れてねえ」
「成功ですか?」
「小片ではな。実用品に使うには、何十回も試す必要がある」
ボルクはリオルを見た。
「だが、これは鍛冶を変えるかもしれん」
「鍛冶を……」
リオルは少し戸惑った。
リゼが横から言う。
「また大ごとになりそうな顔してる」
「大ごとにはしたくありません」
「でも、したことが大ごとなのよ」
ガルドが盾の修理を見ながら言った。
「戦いではなく、物を作るための付与か」
「はい」
リオルは頷いた。
「誰かを強くするのではなく、物が本来の役目を果たしやすくなるように、環境を整える付与です」
ミナが微笑む。
「それも、帰路の灯らしいですね」
「そうでしょうか」
「はい。壊れたものが、また使える場所へ帰るお手伝いです」
リオルは炉の炎を見た。
炎は赤く揺れている。
先ほど真空を生んだ時のような危険な気配はない。
ただ、金属を温め、形を変えるために燃えている。
「……付与は、修理にも使えるんですね」
リオルは静かに言った。
ボルクが鼻を鳴らす。
「当たり前だ。強くするだけが仕事じゃねえ。鍛冶も同じだ。折れた剣を直す。歪んだ盾を戻す。持ち主がまた前に立てるようにする。それが仕事だ」
リオルはその言葉を胸にしまった。
持ち主がまた前に立てるようにする。
自分の付与も、そういうものであればいいと思った。
◇
夕方。
装備の応急整備は終わった。
ガルドの盾は縁の歪みが戻り、音も澄んでいる。
リゼのスティックは焦げが落ち、魔力の通りが軽くなった。
ミナの白い杖も、へこみが目立たなくなっている。
ボルクはリオルへ、小さな鉄片を渡した。
「試作品だ。蒸気抜き付与を使った最初の鉄片。持っていけ」
「いいんですか?」
「お前が持っていた方がいい。うちに置いておくと、俺が徹夜で実験しそうだ」
「休んでください」
「お前もな」
ボルクはにやりと笑った。
「あと、次に工房で真空を作る時は先に言え」
「はい。すみませんでした」
リオルは深く頭を下げた。
リゼが呆れたように言う。
「普通、次に真空を作る予定なんてないのよ」
「研究としては必要かもしれません」
「ほら、また始まった」
ミナがくすっと笑う。
ガルドも盾を背負い直した。
「今日はもう戻るぞ。休息日だ」
「はい」
リオルは試作品の鉄片を鞄にしまった。
そこに、ふと淡い文字が浮かぶ。
【リオル:+1】
リオルは固まった。
「……鉄片にも」
リゼが覗き込んで、肩を震わせた。
「薬草の次は鉄片ね」
「これは付与回数の記録です。たぶん」
「たぶんって言った」
「でも、鉄片に好感度はないはずです」
「薬草の時も似たこと言ってたわよ」
ミナが優しく言った。
「でも、今回は少し落ち着いていますね」
リオルは鉄片を見つめた。
怖くないわけではない。
だが、以前のように青ざめて手放したくなるほどではなかった。
「はい。少しだけ」
ガルドが短く言う。
「記録だ」
「……はい」
リオルは小さく頷いた。
記録。
歩みを残すもの。
鉄片は静かに鞄の中へ収まった。
外へ出ると、工房街には夕焼けが差していた。
戦いのない一日。
それでも、リオルはまたひとつ知った。
付与は、戦場だけの力ではない。
誰かを強くするだけの力でもない。
炎の通り道を整え、蒸気を逃がし、傷ついた装備がまた持ち主の手に戻るよう支えることもできる。
ただし、油断すると局所的に真空を作る。
その点だけは、今後かなり注意が必要だった。
リゼが空を見上げながら言う。
「休息日なのに、最後に真空が出てくるの、やっぱり私たちらしいわね」
ミナが微笑む。
「でも、誰も怪我をしませんでした」
ガルドが頷く。
「装備も直った」
リオルは少しだけ笑った。
「では、良い休息日だったということで」
「そうまとめるのは強引じゃない?」
リゼはそう言いながらも、笑っていた。
四人は夕暮れの王都を歩く。
明日はまた、何かが起きるかもしれない。
原初の書庫。
王なき塔。
白き兜の騎士が残した手がかり。
気になることは山ほどある。
けれど今は、修理された装備の重みと、工房の炎の匂いと、仲間たちの足音だけで十分だった。
休息は、短い。
それでも確かに、彼らの帰る場所を温めていた。




