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第九話「止まらぬ者と届かぬ諫言」

 城の空気が、また変わっていた。

 あの時の夜とは種類が違う。あの時は「静かすぎる緊張」だった。今回は違う。重い。沈んでいる。城全体が、何か重いものを飲み込もうとしているような空気だ。

 俺はその変化に、数日前から気づいていた。

 原因の中心は、平手だった。

 平手政秀。信長の傅役として、ずっとこの城にいた人物だ。苦労人の顔で、信長の無茶を受け止め続けてきた男だ。俺がこの城に来た最初の日から、ずっとそこにいた。

 その平手が、最近おかしい。

 出歩かない。言葉が減っている。廊下で会っても、いつもの疲れた顔ではなく、もっと深いところに落ちた顔をしている。周囲の家臣たちも、平手に対して距離を取り始めていた。近づかない、というより、近づけない、という感じだ。

 何かが決まっている者の顔だ、と俺は思った。

 (これは普通ではない)


 その日の昼過ぎ、俺は城内を歩きながら断片的な会話を拾った。

 家臣二人が、廊下の角で声を潜めて話していた。俺の耳には届く。

 「殿は変わらぬ」

 「あの御方では……」

 声が落ちた。次の言葉が聞き取れなかった。しかしその後、もう一人が言った。

 「最後の手だ」

 俺は足を止めずに通り過ぎた。

 最後の手。

 その言葉が頭の中に残った。完全な文脈はわからない。しかし前後の言葉と、平手の様子と、城の空気を繋げると、何かが見えてくる気がした。

 (時間がない)

 そういう感覚があった。あの時の夜とは違う。あの時は「待てば動きが見える」感覚だった。今回は違う。何かが、すでに動き出している。


 犬千代と稽古場で鉢合わせたのは、その後だった。

 犬千代も、今日は様子がおかしかった。木刀を持ったまま、稽古に身が入っていない。視線が時々、城の奥の方に向く。

 俺が念話を飛ばした。

 『平手のことが気になっているか』

 届かない。しかし俺の様子から何かを察したらしく、犬千代が口を開いた。

 「何かあるなら叩き潰せばいい」

 いつもの犬千代らしい言葉だ。しかし今日は、声の奥に確信がなかった。自分でも「それが正解かどうかわからない」という迷いが、かすかに混じっていた。

 俺は犬千代を見た。

 この男は、叩き潰せる相手と叩き潰せない問題の区別が、まだうまくできない。敵が目の前にいれば迷わない。しかし見えない問題には、どう動けばいいかわからない。

 今回は、叩き潰せる相手がいない。

 いるとすれば信長だ。しかし犬千代は信長を叩き潰せない。叩き潰そうとも思っていない。だから手が出せない。

 (それでは遅い。いや、どう動いても、もう遅いのかもしれない)

 その考えが浮かんだ瞬間、俺は自分でも驚いた。

 間に合わないという確信が、どこからともなく来ていた。


 夕刻が近づいた頃、俺は蔵に戻ろうとして、足を止めた。

 匂いだ。

 かすかだが、確かにある。血の匂いではない。しかし人が限界を超えた時の、体から滲む何かの匂いだ。

 方向は、城の奥だった。

 俺は走った。疾走は使わなかった。使う必要があるかどうか、まだわからなかった。しかし普段より速く、城の廊下を進んだ。

 部屋の前に、家臣が二人立っていた。俺の姿を見て顔が変わった。しかし止めなかった。止める言葉が出なかったのかもしれない。

 俺は部屋の前で立ち止まった。

 扉は閉まっていた。

 その前に立って、俺は動けなかった。

 匂いが変わっていた。

 静かな室内だった。物音がしない。しかし静けさの質が、眠っている者の静けさとは違う。

 俺にはわかった。

 もう終わっている。

 扉を開けなかった。開ける必要がなかった。開けたところで、俺にできることは何もない。

 俺はその場に座った。廊下の端で、扉を向いたまま、動かなかった。

 しばらくして、足音が来た。


 信長だった。

 家臣が何人か後に続いていたが、信長は一人で廊下を歩いていた。俺を見たが、何も言わなかった。

 扉の前に立った。

 少しの間、そこにいた。

 中に入らなかった。

 家臣が何か言った。信長は聞いていなかった。ただ扉を見ていた。驚いていなかった。怒っていなかった。ただ、見ていた。

 やがて信長が俺の隣に来て、壁に背を預けた。

 俺はしばらく待ってから、念話を飛ばした。

 『止めるべきだったか』

 信長が答えるまで、少し時間がかかった。

 「止まる者ではない」

 声が静かだった。感情がないわけではない。しかし感情が、どこか遠いところにある声だった。

 「止めて変わるなら、あの男は死なぬ」

 俺はその言葉を聞いた。

 『どういう意味だ』

 信長が少し間を置いた。

 「あれは正しい」と信長は言った。「平手の言っていたことは、全部正しかった」

 俺は黙って続きを待った。

 「だが俺は従わぬ」

 信長の声に、後悔はなかった。しかし何かがあった。それが何なのか、俺にはうまく言葉にできなかった。

 「正しい道を示された。しかし俺の向かう先が違う。あの男はそれを知っていた。だから…」

 そこで信長が止まった。

 続きは言わなかった。

 言う必要がないと思ったのか、言えなかったのかは、わからなかった。


 俺は平手のことを思い返した。

 最初に会った日から、ずっとそこにいた。信長の無茶を受け止めて、苦労人の顔で、それでもそこにいた。

 あの男は信長を止めようとしたのではないかもしれない、と俺は思った。

 止まらないことはわかっていた。それでも、何かを伝えようとした。言葉では届かないから、最後の手段を使った。

 届いたのかどうかは、わからない。

 しかし平手は、それしかできなかったのかもしれない。

 (見えていた。しかし防げなかった)

 これは戦だったと、俺は思った。刃は交わっていない。しかし確かに、ここで何かが終わった。

 あの時の夜、俺は「見えない綻びを見過ごさないこと」が役目だと思った。

 しかし今回は、見えていても防げなかった。

 見えていても、届かない戦がある。そういうことだ。


 信長がやがて立ち上がった。

 家臣たちに指示を出し始めた。淡々と、やるべきことをやる声だった。

 俺も立ち上がった。

 城の廊下を歩きながら、周囲を見た。

 家臣たちの顔が変わっていた。

 今まで「測る目」をしていた者たちが、それぞれ違う顔になっていた。何かを決めた顔。何かを諦めた顔。何かから目を逸らした顔。

 平手がいなくなった。

 それだけで、城の中の空気が一つの形に固まっていく。旧い世代の声が消えた。信長に従う者と、去る者だけが残る。

 信長は今、完全に一人で立っている。

 誰かに諫められることもなく、誰かに止められることもなく。

 (孤独な主だな)

 そう思いながら、俺はその後を歩いた。

 隣にいることが俺の役目なのかどうかは、まだわからない。しかし今夜は、そこにいようと思った。

 戦は、刃を交えた時だけに起きるものではない。

 見えても、防げない戦がある。

 それでも、見続けること。

 それが今の俺にできる、唯一のことだった。


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