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第八話「継ぐ者と静かな判断」

 気づけば、人の言葉はほとんど理解できるようになっていた。

 清蔵の教えと、城の中でのやり取りの積み重ねの結果だ。数年という時間は、俺が思っていたよりずっと多くのものを積み上げていた。

 日常の会話なら、ほぼ問題なく聞き取れる。家臣同士の話、使用人の雑談、稽古場でのやり取り。念話を使わなくても、意味が頭に入ってくる。

 ただし苦手なものはまだある。

 早口の会話は、単語と単語の境目が溶けてしまう。比喩は、言葉の表面の意味と実際の意味がずれているので混乱する。感情の機微、怒っているのか、呆れているのか、悲しんでいるのか、この世界の人間の感情の表し方はまだ完全には読めない。

 それでも、数年前と比べれば別の生き物だ。

 この世界に来た当初、俺には何もなかった。言葉も、居場所も、役割も。今は違う。言葉があり、蔵があり、役目がある。

 そしてあの変わり者の主がいる。

 信長は今年で十八になった。吉法師と呼ばれていた少年は、もうどこにもいない。


 その朝、城の空気が変わったことに気づいたのは、目が覚めてすぐだった。

 静かすぎた。

 いつもと同じ時刻に、いつもと同じ場所で目を覚ました。しかし何かが違う。音の種類が違う。人の動きの質が違う。

 使用人が走っている。しかし声を上げていない。武士が集まっている。しかし言い争っていない。全員が何かを知っていて、しかしそれを口に出すことを控えているような、そういう静けさだ。

 悲しみを抑えた時の、人間の静けさだと俺は思った。

 蔵の外に出て、城内の気配を探った。

 清蔵が遠くから来るのが見えた。足取りが重い。表情が、いつもの実務家の顔ではない。

 俺は清蔵に念話を飛ばした。

 『何があった』

 清蔵が足を止めた。俺を見た。少しの間があってから、短く答えた。

 「信秀様が、ご逝去なされました」

 信秀。信長の父だ。この城の主だった人物だ。

 俺は黙った。

 清蔵が続けた。「信長様が、当主をお継ぎになります」と。それだけ言って、また歩き出した。やるべきことが山積しているのだろう。

 俺は清蔵の背中を見送ってから、城を見上げた。

 (そうか)

 それだけだった。この世界に来た当初から、信長の父の顔をまともに見たことはなかった。接点が少なかった。しかし信長がどんな顔でこれを受け取ったのかは、少し気になった。


 その日から、城の空気はじわじわと変質していった。

 表面は変わらない。家臣たちは信長に頭を下げる。命令に従う。礼を尽くす。

 しかし俺の目には、その「従い方」が二種類に見えた。

 一方は、信長を主として見ている目だ。指示を受けて動く。疑わない。

 もう一方は、測っている目だ。信長の言葉を聞きながら、何かを計算している。頭を下げながら、視線が少し遅れる。膝をつきながら、立ち上がる時の速度が微妙に違う。

 言葉にすれば些細なことだ。しかし積み重なると、俺の鼻が何かを嗅ぎ取る。

 城の中に、二つの流れがある。

 (当主が変わった時、こういうことが起きるのか)

 俺にはこの世界の政治はわからない。しかし動物として、群れの中の力関係の変化は読める。強い個体が入れ替わった後、新しい個体を試そうとする者が必ず出る。人間も同じらしい。

 俺は日々、城内を歩き回りながら、足音の向きと、人が集まる場所と、声のトーンを記憶し続けた。


 異変に気づいたのは、ある夜のことだった。

 蔵の中で半分眠りながら、俺は耳を立てていた。

 見張りの足音が、いつもと違う。

 正確には、いつもいるはずの場所に、足音がない。北の渡り廊下を巡回するはずの見張りが、この半刻、通っていない。

 誤差かもしれない。用を足しに離れているだけかもしれない。

 しかし俺は起き上がった。

 城内を静かに動きながら、気配を探った。北の渡り廊下。その先の裏門。

 そこで、断片的に言葉が聞こえた。

 抑えた声だ。二人、いや三人。俺の耳には届くが、普通の人間には聞こえない距離と声量だ。

 「北」「裏門」「今夜」。

 その三つの単語が、はっきりと聞き取れた。他の言葉は声が小さすぎて混ざった。しかしその三つだけで、俺の頭の中で何かが繋がった。

 北の裏門。今夜。

 (これは偶然ではない)

 明確な証拠はない。何かを企んでいると断言できるものは何もない。しかし、信秀が死んでから続いていた「測る目」の気配と、この深夜の会話が、俺の中で一本の線になった。

 俺は考えた。

 動くべきか。

 命令は来ていない。信長は眠っているだろう。これが誤差なら、俺が動くことで余計な騒ぎを起こすだけだ。

 しかし見過ごして、本当に何かが起きたなら。

 俺は決めた。

 大きくは動かない。


 まず、北の渡り廊下に向かった。

 声のした方向ではなく、少し手前だ。声の主たちから見れば、俺がいることに気づく距離。しかし直接対峙する距離ではない。

 月明かりの中、俺はそこに座った。

 動かなかった。

 ただいた。

 巨大な熊が、夜の廊下の先にいる。それだけだ。声も出さない。動きもしない。ただ、そこにいた。

 しばらくして、向こうの気配が変わった。

 息を飲む気配がした。それから、足音が遠ざかり始めた。慌てた足音ではない。しかし確実に、裏門から離れる方向に向かっていた。

 俺は動かなかった。

 足音が消えるまで待った。

 それから巡回を一周して、異常がないことを確認してから蔵に戻った。

 結局、その夜は何も起きなかった。


 翌朝、信長が来た。

 いつもより早い時刻だった。顔に疲労はあるが、目は冴えている。

 「動いたか」

 唐突な問いだった。しかし俺は驚かなかった。この男が城内の動きを把握していることは、もうわかっている。

 『動いた』

 「なぜそうした」

 俺は少し考えてから答えた。

 『見張りの足音が消えた。夜中に北と裏門という言葉が聞こえた。今夜という言葉も。それぞれは些細なことだが、繋げると気になった』

 信長が黙った。

 俺は続けた。

 『証拠はなかった。だから踏み込まなかった。ただそこにいた。それだけだ』

 信長がしばらく俺を見ていた。何かを確認するような目だった。

 「見張りから報告が上がっていた」と信長は言った。「夜中に熊が廊下にいたと。それだけだ。何も起きなかった」

 俺は頷いた。

 「北の裏門付近の者を、明日から入れ替える」

 それだけ言った。理由は言わなかった。しかし俺には伝わった。信長も何かを察している。証拠のない段階で、静かに手を打つということだ。

 信長が続けた。

 「それでいい。見えていないものを、繋げて判断した」

 少しの間があった。

 「お前は、走るだけではないな。

  見る。そして繋げる。それができる」

 俺はその言葉を受け取った。

 返す言葉を考えたが、見つからなかった。だから黙って頷いた。


 その話を、なぜか犬千代が聞いていた。

 信長が去った後、犬千代が柱の陰から出てきた。盗み聞きしていたわけではないだろうが、聞こえる距離にいたのは確かだ。

 「面倒なことをするな」と犬千代が言った。「斬れば済む話だ」

 俺は犬千代を見た。

 念話を飛ばした。

 『今回は違う。誰を斬る。何の証拠で斬る。斬った後、城の中がどうなる』

 犬千代には届かない。しかし声音は伝わったらしく、「また何か言っている」という顔をした。

 「わからんが」と犬千代が言った。「お前がうろついていたおかげで、面白い話が聞けなかった」

 俺は少し考えてから、念話を飛ばした。

 『聞いてどうするつもりだった』

 届かない。しかし犬千代は俺の様子を見てから、鼻を鳴らした。

 「次は教えろ」

 それだけ言って、歩き去った。

 斬れば済む、と言いながら、次は教えろと言う。この男なりに、何かを理解しているのかもしれない。


 夜、蔵の中で俺は今日のことを整理した。

 戦場ではなかった。

 刃は交えなかった。誰かを捕らえなかった。血も出なかった。

 しかしあれは確かに「戦い」だった。

 刃を交えずに終わる戦がある。見えない綻びを、見過ごさないこと。繋げて判断すること。大きく動かず、しかし動くべき時に動くこと。

 それが今の俺の役目だった。

 信長は当主になった。しかし地盤はまだ固まっていない。測る目が城の中にある。外にも敵がいる。この先、こういう夜が何度あるかわからない。

 俺はそのたびに、走って、見て、繋げて、判断する。

 戦は、外だけで起きるものではなかった。

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