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第七話「初陣と走る影」

 朝から城の空気が違った。

 いつもの慌ただしさとは種類が違う。使用人が走っている。武士たちが武具を確認している。馬が何頭も引き出されて、厩の前が騒がしい。兵が集まり、列を作り、誰もが同じ方向を向いている。

 訓練ではない。

 俺はそれを、最初の一呼吸で察した。匂いが違う。音が違う。人の体から出る緊張の気配が、いつもの稽古場のものとは全く異なる。

 これは本番だ。

 蔵の前で状況を眺めていると、信長が来た。

 武具を身に着けていた。普段の稽古着ではない、実戦用の装備だ。それだけで場の空気が一段締まった。近習たちが背筋を伸ばす。

 信長が俺の前に立って、短く言った。

 「出るぞ、熊。戦だ」

 念話の意味が届く。俺は少し考えてから聞いた。

 『俺はどう動く』

 それが最初に確認すべきことだった。戦とは何かは訓練でおおよそわかっている。しかしこの男がどう俺を使うつもりなのかは、聞かなければわからない。

 信長が答えた。

 「前に出るな。先に行って見てこい。敵と援軍の動きを拾え」

 偵察だ。

 俺は頷いた。疾走で先行し、情報を持ち帰る。戦闘には加わらない。それが俺の役割だということは、改めて聞いてみれば当然の判断だと思った。

 (この男は俺を正しく使う)

 そう思いながら、出陣の準備を見守った。


 今回の戦は、吉良・大浜を急襲するための出陣だった。

 城を出たのは昼前だった。

 兵の列が道を進む。俺はその先頭よりさらに前、単独で街道を走った。疾走は使わない。今は馬よりわずかに遅い程度の速度で、道の状況を確かめながら進む。

 城の外は広かった。

 当たり前のことだが、改めて実感した。城内での生活が続いていたせいで、外の世界の広さを忘れかけていた。田が広がり、村があり、山の稜線が遠くに見える。空が、城の中から見るよりずっと大きい。

 道の脇に人の姿がある。農作業をしていた者たちが、兵の列を見て家の中に引っ込んでいく。子供が柵の隙間から覗いている。

 (これが戦国の世か)

 この世界に来てから城の中にいることが多く、外の様子を見る機会が少なかった。今初めて、この世界がどんな場所なのかを体で感じていた。

 先を急ぎながら、俺は街道の様子を確認した。道の状態、見通しの良し悪し、分岐点の位置。人の流れに不自然な点がないか、煙や物音に警戒すべき兆候がないか。

 問題はなかった。

 信長の元に戻り、念話で報告した。

 『街道に動きなし。道は問題ない。前方に迂回路あり』

 信長が頷いた。「先を続けろ」と言った。

 俺はまた走り出した。


 行軍の途中、犬千代の不満が聞こえた。

 念話は届かないが、声の意味は断片的にわかる。「先に行かせろ」「様子見など不要」前に出たくて仕方ない。犬千代らしい言葉だ。

 信長が短く制した。

 「まだだ。見えてから斬れ」

 犬千代が黙った。従ったが、納得はしていない顔だ。

 俺は先行しながら、その光景を頭の中で反芻した。

 信長は見てから動く。俺が情報を持ち帰るたびに、それを即座に判断に使う。感情で動かない。前に出たいという衝動より、見えている情報を優先する。

 (この男の戦い方はそういうものか)

 犬千代は先に突っ込む。信長は先に見る。どちらが正しいとは言えないが、信長が俺を使う理由はその戦い方にある。見てから動くために、見てくる者が必要なのだ。

 俺は自分の役割の意味を、走りながら理解した。


 吉良大浜に近づいた頃、俺は速度を落とした。

 気配がある。人の気配、火の気配、馬の匂い。敵の陣だ。

 俺は高台に上がって、下を見渡した。

 思ったより少ない。

 兵の数が想定より少ない。配置も、油断が見える。見張りが薄い箇所がある。整然とした陣ではなく、どこか緩んだ空気がある。

 奇襲が成立する。

 俺は信長の元に戻り、念話で報告した。

 『数は多くない。見張りも薄い』

 信長が少しの間、黙った。

 それから言った。

 「踏み込む」

 迷いがなかった。俺の報告を受けて、即座に決断した。しかしそれは俺の言葉だけで動いたのではない。俺の情報を元に、信長自身が判断したのだ。

 「犬千代、行け」

 犬千代が「はい」と答えた時の声は、これまで聞いた中で一番はっきりしていた。


 俺は戦闘には加わらなかった。

 少し離れた高台から、見渡せる位置に陣取った。戦闘の様子が見える。同時に周囲の気配を全方向に向けて探れる。これが今の俺の持ち場だ。

 下では犬千代が突っ込んでいた。

 一番先頭だった。当然のように。迷いなく、最短距離で、真っ直ぐに敵陣に向かっていく。混乱が広がる。敵が対応する前に、もう次の一手が来ている。

 荒削りだが、それが逆に敵の読みを外す。どこに来るかわかっていても、速すぎて対処が間に合わない。

 (あれはあれで才能だな)

 認めながら、俺は周囲への意識を切らさなかった。

 戦闘が始まって、しばらく経った頃だった。


 異変を感じたのは、遠くからだった。

 土煙だ。

 微かだが、確かにある。戦場の土煙とは方向が違う。別の場所から来ている。

 俺は耳を立てた。

 足音。大勢の足音が、まだ遠い場所で動いている。馬の蹄の音も混じっている。戦場の喧騒に紛れて、普通の耳では気づかない。

 しかし数が違う。

 今戦っている兵とは別の、新しい人の流れだ。

 (援軍)

 確信した瞬間、俺は信長の元に向かった。疾走を使った。一瞬で距離が詰まる。

 『別の動きあり。数が増える』

 信長の顔が変わった。

 目が鋭くなって、素早く周囲を見渡した。それからすぐに口を開いた。

 「引く」

 一言だった。

 家臣が「しかし今は優勢…」と言いかけた。信長が遮った。

 「引く。今すぐだ」

 命令だった。議論の余地を与えない声だ。

 伝令が走り出した。撤退の合図が飛んだ。


 撤退は速かった。

 信長の指示が的確で、混乱なく兵が引き始める。俺は最後尾付近に回って、追撃の有無を確認した。

 疾走で後方を往復しながら、敵の動きを追う。

 追ってくるかもしれない。追ってこないかもしれない。それがわかるのは俺だけだ。

 援軍の動きを見ていた。合流しようとしている。しかし混乱した中での合流は時間がかかる。追撃の態勢が整う前に、我々が距離を稼げるかどうか…

 俺は速度を上げながら信長に報告し続けた。

 『まだ来ない。整えている』

 少し後。

 『動き出した。ただし速くない』

 信長が判断する。「このまま押し切れる」という確信が念話越しに伝わった。

 犬千代が後ろを振り返りながら歩いているのが見えた。追いたいのか、追われているのかを確かめたいのか、どちらもあるだろう。

 しかし命令に従っていた。

 不満そうではあったが。

 結局、追撃は来なかった。

 援軍が態勢を整えた時には、我々はすでに十分な距離を稼いでいた。


 城への帰路、日が傾き始めていた。

 兵の足取りが、行きより軽かった。戦に勝って、損害も少なく、帰れる。それだけで人間というのは軽くなるものらしい。

 信長が馬上から俺に声をかけた。

 「見えていたな」

 念話ではなく、声で。

 俺は少し考えてから答えた。

 『気配が違った。土煙の方向が戦場と違った』

 信長が頷いた。

 「それでいい」

 それだけだった。大げさに褒めない。ただ「それでいい」と言う。

 この男の評価はいつもそうだ。過不足がない。それが逆に、信頼できる言葉に聞こえる。

 少し遅れて、犬千代が俺の横に並んだ。

 歩きながら、前を向いたまま言った。

 言葉の全部は聞き取れなかった。しかし「役には立つらしいな」という意味の言葉が含まれていた。声音が、いつもより低かった。

 棘がなかった。

 完全な称賛でもない。しかし認めた言葉だ。

 俺は前を向いたまま、念話を飛ばした。

 『お前こそ、ちゃんと引いたじゃないか』

 犬千代には届いていないだろう。しかしそれでいい。


 城に戻った夜、蔵の中で横になりながら、俺は今日のことを振り返った。

 戦場にいた。

 しかし刃を交えなかった。誰かを傷つけなかった。ただ走り、見て、伝えた。それだけだ。

 それでも、役に立った。

 援軍の気配を察知しなければ、信長の撤退判断はもっと遅れていた。あるいは遅れなかったかもしれない。この世界の戦のことは、俺にはまだわからない。

 ただ、俺が見て、俺が伝えたことが、確かに何かに繋がった。

 斬ることだけが戦ではない。

 走って見て伝えることも、戦の一部だ。剣を交えなくても、戦場で役割を果たせる。

 (戦は斬るだけではない、そういう戦い方もある)

 俺は目を閉じた。

 元の世界では、親父の英雄譚と、兄貴たちの武勇の話を聞き続けた。戦うことが強さで、強さが価値だという空気の中にいた。

 この世界で俺が見つけた役割は、そのどれでもなかった。

 しかし、悪くない。

 見知らぬ世界の夜が、静かに更けていった。


史実の1547年吉良大浜の戦いです

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