第六話「言葉と役目と夜の影」
清蔵の教え方は、相変わらず丁寧だった。
毎朝、日が昇ってから半刻ほど。蔵の前に座って、清蔵が言葉を発し、俺が聞く。最初は物の名前だけだったものが、今は短い文になってきた。
「来い」「止まれ」「危ない」「右」「左」「敵」「逃げろ」。
これらは今や、念話なしでも意味がわかる。音と意味が、ほぼ反射的に結びつくようになった。
それ以外の言葉は、まだ断片的だ。全部聞けばおおよその意味がわかることもあるが、速い会話についていくのは難しい。
話すことについてだが、
熊族は、そもそも人間とは発音器官が違うので俺は人間の言葉を話すことは出来ない。
元の世界でもそうだったが、ここでもそれは変わらないようだ。
念話は俺が見えている相手にしか効かないことを考えると、それでも話している人間の言葉の意味を知ることは重要だ。
清蔵はそれで十分だという顔をしていた。実務家らしい割り切り方だ。完璧を求めず、使える水準を目指す。
「今日はここまでにしましょう」
清蔵がそう言って立ち上がった。この言葉も今では聞き取れる。俺は軽く頭を下げた。
清蔵が少し目を細めた。俺が言葉を理解したことに気づいた時の顔だ。毎回それをやるので、俺も慣れてきた。
(この男に教わって良かった)
素直にそう思う。
午前の訓練が終わった後、信長が俺を呼んだ。
庭の中央に立って、家臣を数人連れていた。何かを確認するような空気だ。
信長が俺を見た。
「城の中で一番速く動けるのはお前だ、熊」
念話ではなく、声で言った。周囲に聞かせる言い方だ。
「有事の際、城内で何かあれば、お前が最初に動く。それがお前の役目だ」
俺は少し考えてから答えた。
『構わない。ただし何かあれば俺に伝える手段を用意しろ。蔵の中にいれば気づかない場合がある』
信長が清蔵に視線を向けた。清蔵が頷いた。念話越しに二人のやり取りの意味が届いてくる。「合図の方法を決める」「鐘か、あるいは人を走らせるか」という内容だ。
結論は早かった。蔵の近くに常時一人、見張り兼伝令を置く。何かあれば即座に俺に走らせる。俺が城内のどこにいても、最短で伝わるように経路も決める。
「これでいいか」と信長が念話を飛ばしてきた。
『十分だ』
「ならそれで行く」
こうして俺の役割が、はっきりと言葉になった。
機動戦力。城内で何かあれば最速で動く駒。
(道具と言っていた割に、役目は重いな)
そう思いながら、悪い気はしなかった。役割があるということは、ここにいる理由があるということだ。
昼過ぎ、廊下の角で犬千代と鉢合わせした。
向こうも俺を見て、一瞬足を止めた。
「また蔵から出てきたのか」
念話なしでも、おおよその意味はわかった。声音と「蔵」という単語が聞き取れた。揶揄の色がある。
犬千代が続けた。「飼われているのも慣れたか」という意味の言葉だと思う。完全には聞き取れないが、言いたいことは察せられた。
俺は少し間を置いた。
今まで犬千代の挑発には特に返してこなかった。返す手段が限られていたのもあるし、わざわざ相手にする必要もないと思っていた。
しかし今日は少し違う気分だった。
念話を飛ばした。
『繋がれているのはお前の頭だろう』
犬千代が眉を上げた。
念話の意味が届いたかどうかはわからない。しかし俺が何かを返したということは伝わったらしく、犬千代の顔に「こいつ、言い返したのか」という表情が出た。
一拍置いて、犬千代が鼻を鳴らした。
何か言って、廊下を歩き去った。怒ったわけではないらしい。どちらかといえば、少し面白そうな顔だった。
(面倒なやつだ)
しかし俺も、少し気が晴れていた。
夜になった。
蔵の中で横になって、俺は目を閉じていた。眠ってはいない。この世界に来てから、俺は夜も半分耳を立てたまま過ごすようになっていた。習慣だ。
城が静まり返っている。遠くで虫が鳴いている。見張りの足音が規則正しく聞こえる。
その足音が、乱れた。
俺は目を開けた。
足音が速くなる。複数の人間が動いている。それから声が上がった。何を言っているかは距離があってわからないが、緊張した声だ。
間もなく、蔵の外で足音が止まった。伝令だ。扉を叩く音がして、慌てた声が飛んでくる。
「熊、来い、北、曲輪」
単語が聞き取れた。「来い」「北」「曲輪」。それだけで十分だった。
俺は立ち上がって扉を押し開けた。
城の北側に向かいながら、俺は周囲の気配を探った。
人の動きがある。使用人ではない。動き方が違う。息を殺して移動している。夜の闇に溶け込もうとしている。侵入者だ。
北の曲輪の手前で、犬千代と出くわした。
夜着ではなく、すでに刀を佩いていた。俺を見て一瞬眉を動かしたが、すぐに正面に向き直した。念話を使えない相手だが、今は言葉がなくてもわかる。同じものを追っている。
俺は鼻で気配を辿った。
二人いる。一人は北の曲輪の塀際、もう一人は少し離れた物陰だ。分かれて動いている。逃げ道を探しているか、あるいは合図を待っているか。
俺は犬千代に向かって、頭を北東に向けた。それから西に視線を移した。
犬千代が少し考えてから、俺の視線の先を見た。わかったかどうかわからないが、頷いた。
俺は西に向かった。疾走は使わない。音を立てずに、しかし速く動く。
物陰の気配が動いた。俺に気づいたか、あるいは別の合図を受けたか、塀の方へ向かおうとしている。
俺は疾走を短く使った。
一瞬で距離が詰まる。物陰から飛び出した人影が、俺の前腕に行く手を塞がれた。軽く体を押しつけるだけで、相手の動きが止まる。俺の体重をまともに受ければ、人間は動けない。
「ここだ」と俺は思ったが、声に出す言葉がまだない。仕方なく低く唸った。
その声が届いたのか、向こうから犬千代の声がした。
北東の方から、短い打撃音が聞こえた。それから静かになった。
しばらくして犬千代が来た。もう一人の侵入者を引きずっていた。
犬千代が俺の前腕の下に転がっている人影を見た。それから俺を見た。
何か言った。
俺には完全には聞き取れなかったが、「速かった」という意味の言葉が含まれていた気がした。
二人が確保された後、家臣たちが駆けつけた。
平手も来た。状況を把握して、指示を出す。手際がいい。こういう場面での平手は頼りになる人間だとわかった。
しばらくして信長が現れた。
夜中だというのに、顔に眠気がない。状況を一通り聞いて、確保された二人を見て、それから俺と犬千代を見た。
「やったのはお前たちか」
犬千代が「はい」と答えた。
信長が少しの間、黙って二人を見比べた。
「熊は使えた。犬千代は早すぎた」
犬千代の眉がぴくりと動いた。
信長が続けた。念話も交えながら。「機動で追い込んで、前線で仕留める。役割が分かれれば形になる。ただ犬千代、お前が先に突っ込むと包囲が崩れる。次は待て」
犬千代が「……はい」と答えた。不服そうだったが、言い返しはしなかった。
信長が俺に念話を飛ばした。
「言葉が聞き取れたか」
『「来い」「北」「曲輪」。それだけで十分だった』
「そうか」
信長の念話に、短い満足の色があった。
「清蔵の仕事が出た」
それだけ言って、信長は家臣と共に去った。
後に残ったのは俺と犬千代だった。
家臣たちも引き上げて、北の曲輪は静かになった。遠くで虫の声が再び聞こえ始める。
犬千代が刀を鞘に収めた。俺の方を向かずに、空を見上げた。
それから言った。
聞き取れる単語が混ざっていた。「さっき」「悪くなかった」…そういう意味だと思う。声音が、いつもの棘より少し低かった。
素直じゃない評価だ。しかし評価だ。
俺は少し考えてから、念話を飛ばした。
『お前も悪くなかった。突っ込みすぎだったがな』
犬千代が念話の意味を受け取ったかどうかはわからない。しかし声音は伝わったらしく、鼻を鳴らした。
「何か言ったか」と犬千代が言った。意味が聞き取れた。
『褒めてやった』
犬千代がこちらを向いた。眉を寄せている。念話の意味は届いていないだろうが、俺が何かを言い続けているということは伝わっている。
「……お前、最近よく喋るな」
この言葉は、ほぼ全部聞き取れた。
そうか、と俺は思った。犬千代から見ると、最近俺が「よく喋る」ように見えているらしい。念話が届いていなくても、俺が何かを返しているという事実だけで、そう見える。
犬千代が踵を返した。歩き出しながら、また何かを言った。
「次は俺の方が先に着く」という意味だと思う。完全には聞き取れなかったが、声音から読めた。
俺はその背中を見送った。
蔵に戻って、藁の上に横になった。
天井を見上げながら、今夜のことを整理した。
伝令の言葉が聞き取れた。「来い」「北」「曲輪」…それだけで動けた。念話がなくても、戦力として機能した。清蔵が積み上げてきたものが、今夜初めて実戦で使えた。
役割があった。城内の機動戦力として動いて、実際に役に立った。信長が「熊を呼べ」と思える場面で、俺はその期待に応えた。
犬千代と、言葉らしきものを交わした。喧嘩でも拒絶でもない。ぎこちなくて、噛み合っていない部分も多かったが、「次は俺の方が先に着く」と言うやつは、俺を完全に無視はしていない。
(念話がなくても、ある程度通じる)
(戦でも動ける)
(役割ができた)
この世界に来た当初、俺には何もなかった。言葉も知識も、居場所も。蔵に転がり込んだ異物だった。
今は違う。
完璧ではない。言葉はまだ不自由だ。この世界のことも、まだほとんど知らない。
それでも…
ここに俺がいる理由がある。
俺を「熊」と呼ぶ主がいる。面倒な犬が隣にいる。言葉を教える実務家がいる。苦労人の傅役がいる。
(悪くない場所だ)
俺は目を閉じた。
見知らぬ世界の夜が、静かに更けていった。




