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第五話「力の使い方と噛みつく犬」

 稽古場の空気が変わっていた。

 元服前は、ここはまだどこか「少年たちが腕を磨く場所」という雰囲気があった。真剣ではあるが、どこかに余白があった。

 今はない。

 信長が立つだけで、場が締まる。近習たちの目が変わる。稽古の一つ一つに、遊びの要素が消えた。

 俺への視線も変わった。

 最初の頃は「珍しい獣」を見る目だった。次に「殿の所有物」として処理された。今は違う。家臣たちが俺を見る目に、値踏みの色が混じっている。戦力として使えるかどうかを、それぞれの基準で測っている目だ。

 平手は相変わらずそこにいた。ただし顔の疲労感が以前より増していた。管理する対象が増えた者の顔だ。俺は密かに同情した。

 信長が俺の前に来た。

 「始めるぞ、熊」

 『わかった』

 こうして俺の訓練が始まった。


 最初は疾走の制御だった。

 家臣が野に目印を置く。旗を立てた杭を等間隔に並べ、その間を「指定した速度」で走れという。

 やってみると、これが思ったより難しかった。

 疾走の魔法は、本来「出す」か「出さないか」の感覚で使っていた。速度を細かく調整するという発想が、そもそもなかった。

 最初の走りは速すぎた。旗を三本通り過ぎた頃には指定の距離を超えていた。

 信長が「遅くしろ」と言った。

 次は遅すぎた。馬とほとんど変わらない。

 「意味がない」

 俺は速度の感覚を探った。魔法の出力を、水の蛇口を絞るように少しずつ調整する。出しすぎず、絞りすぎず、その中間の帯を手探りで見つけていく。

 五度目の走りで、ようやく安定した。

 信長が「それだ」と言った。念話越しに「その速度を体に覚えさせろ」という意図が伝わった。

 繰り返した。同じ距離を、同じ速度で。体に刻む作業だ。単調だが、これをやらなければ実戦では使えない。

 十度目になると、誤差がほとんどなくなった。

 (なるほど、こういう訓練か)

 俺は内心で感心した。力があっても制御できなければ意味がない。当たり前のことだが、それを即座に訓練に落とし込む発想が、この男らしかった。


 次は急停止と方向転換だ。

 疾走しながら、家臣の合図で即座に止まる。あるいは指定した方向に切り返す。

 停止の方は、体への負担が大きかった。全速に近い速度から急停止すると、地面が抉れる。前足が土に深く食い込み、後足が滑る。体の慣性を殺すのに、相当な力がいる。

 二度三度繰り返すうちに、停止の衝撃を逃がす体の使い方を見つけた。膝を柔らかく使い、重心を後ろに素早く移す。地面は抉れるが、体の負担が減る。

 方向転換は停止より難しかった。速度を殺しきらずに向きだけ変える。これは体の構造上、無理な角度がある。俺の体は大きく重い。小回りは利かない。

 何度か試して、「実戦で使える転換角度」の限界がわかった。

 信長はそれを黙って見ていた。失敗しても何も言わない。成功した時だけ短く「それでいい」と言う。


 硬化の確認は、家臣が木槍と丸太を用意した。

 まず前腕だけに硬化をかけて、丸太の打撃を受ける。手応えとしては問題ない。しかし硬化を強めすぎると、その腕の動きが鈍くなる。

 全身に硬化をかけてみると、今度は全体の動きが落ちた。歩くのも一苦労になる。鉄の鎧を全身に纏ったような感覚だ。

 (防御と機動は両立しない、か)

 結論は出ていた。硬化は「受けると決めた瞬間に、受ける部位だけ」に絞る。それが最も効率がいい。

 「攻撃を受ける前に硬化できるか」と信長が聞いた。

 『見えれば、できる。見えなければ難しい』

 「鉄砲に撃たれてから気づいても遅い場合があるな」

 『だから見える位置に立つ必要がある。あるいは硬化できる者に鉄砲を向けさせる状況を作るか』

 信長が少し考えた。「使いどころがある」と言った。


 連携の訓練は短かった。

 信長が背に乗り、俺が走りながら指示に従って動く。右に寄れ、速度を上げろ、止まれ、それだけだが、これを実戦速度でやるのは難しい。

 信長の指示のタイミングと俺の動作のタイミングが、まだ噛み合わない部分がある。指示が来てから反応するのでは遅い。先を読んで動くか、あるいは合図の形を決めるか。

 「今日はここまでだ」と信長が背から降りた。

 まだ完全ではない。だがどこに問題があるかはわかった。次の訓練で詰めていけばいい。

 そう思っていた時、横から声が飛んだ。


 「そんなまどろっこしいことをしてどうする」

 犬千代だった。

 稽古場の端で腕を組んで見ていたらしい。その顔に、我慢の限界が来たと書いてあった。

 信長が振り返った。「何か言いたいか」

 「実戦でそんな余裕があるか」犬千代が言った。念話越しに意味が届く。「敵は待ってくれない。指示が来てから動いていたら、その前に首が飛ぶ」

 「だから今やっている」

 「やり方が違う」犬千代が前に出た。「実際に当たってみなければわからないことがある」

 「それはその通りだ」信長が言った。少し間があった。「ならやってみるか」

 犬千代が俺を見た。

 俺も犬千代を見た。

 「俺がやる」と犬千代が言った。

 信長が俺に念話を飛ばした。「やれ。ただし殺すな」

 『言われなくてもわかっている』

 犬千代が木刀を手にして、俺の前に立った。


 間合いを取って、二人で向き合った。

 家臣たちが輪を作る。平手が何か言っているが、誰も聞いていない。

 犬千代が動いた。

 速かった。踏み込みに迷いがない。木刀が真っ直ぐ俺の顔面に来る。

 俺は半身を引いた。木刀が空を切る。

 犬千代が即座に追う。連打だ。止まらない。間髪入れずに次が来る。

 俺は下がりながら捌いた。前足で軌道を逸らし、体を回して角度を変える。攻撃は当たらない。しかし犬千代は怯まない。

 (手数が多いな)

 それが最初の評価だった。加えて、踏み込みの深さが普通ではない。自分の間合いに絶対の自信を持っている動きだ。怖がらない。むしろ近づくことを好んでいる。

 俺は距離を測りながら動いた。疾走は使わない。この狭い輪の中では速度より正確さがいる。

 しばらく攻防が続いた。

 犬千代の呼吸が少し上がってきた。しかし動きは落ちない。むしろ変わってきた。

 フェイントが混ざり始めた。

 右に踏み込む素振りから左に切り返す。踏み込みを深くして俺の反応を引き出してから、実際の打撃を変える。最初より明らかに洗練されてきている。

 (ただの猪ではないな)

 俺は評価を少し上げた。

 戦いながら考える頭がある。相手の反応を見て、その場で対応を変える。荒削りだが、本物の才能の片鱗だ。

 犬千代が一瞬、間合いを広げた。

 罠だ、と気づいた時には犬千代が踏み込んでいた。わざと隙を見せて俺の動きを止め、その間に距離を詰めた。

 木刀の先端が俺の顎の下、わずか一寸のところで止まった。

 入った。完全にではないが、実戦なら有効打になる位置だ。

 その瞬間、俺は何かを切り替えた。

 意識的にではない。本能に近い。

 圧を出した。

 息を吸った。体の奥から何かを引き出した。殺気、とでも言うべきか、元の世界で遺跡の奥に潜り込んだ時、本物の危険と向き合った時に出てくる、あの感覚だ。

 空気が変わった。

 犬千代の木刀が止まった。

 目が変わった。さっきまでの闘志が、一瞬だけ別のものに塗り替えられた。

 本能が告げている。これ以上踏み込むな、と。

 犬千代の足が、わずかに後ろに引いた。本人も気づいていないかもしれない、無意識の後退だ。

 「そこまで」

 信長の声が飛んだ。

 俺は圧を引いた。犬千代の目に闘志が戻ってきた。しかしその目には、さっきと少し違うものが混ざっていた。


 犬千代が息を整えながら、木刀を下げた。

 信長が二人の間に来た。

 「両方使える」と信長は言った。

 念話ではなく、声で。その場全員に聞かせるように。

 「熊は機動と制圧。犬千代は前線突破。別の刃だ。並べて使えば崩せる」

 犬千代が不満げな顔をした。まだ何かを言いたそうだ。しかし口を開きかけてから、閉じた。

 認めた部分があるのだろう。完全ではない。だが無視はできない何かを、あの一瞬に感じたはずだ。

 「もう一度やる」と犬千代が言った。

 信長が「今日はここまでだ」と答えた。「続きは明日以降だ」

 犬千代が舌打ちした。しかし従った。

 (面倒なやつだ)

 俺はそう思いながら、同時に思った。

 (しかし、嫌いではない)

 恐怖で引いた者を俺は何度も見てきた。犬千代はあの一瞬に怯んだが、すぐに目に闘志が戻った。本能の警告より自分の意思を優先しようとする、その性質は、俺の一族の戦士に近いものがあった。


 稽古が終わって、家臣たちが引き上げ始めた。

 平手が深いため息をつきながら去っていく。信長が家臣と何か話しながら離れた。

 犬千代が俺の前に来た。

 輪が解けた後の静かな稽古場で、二人だけになった。

 犬千代が俺を見て言った。念話は通じていない。しかし声の意味は、ここ数日で少しずつ積み上がってきた言葉の感覚と、声音から読み取れた。

 「次は本気で来い」

 敵意だ。しかしそれだけではない。何か別のものが混じっていた。

 俺は犬千代を見返してから、念話を飛ばした。

 『死にたくなければやめておけ』

 犬千代が眉を上げた。念話の意味が届いたかどうかはわからない。しかし声音は伝わったらしく、鼻で笑った。

 何かを言って、背を向けた。

 俺はその背中を見送った。

 脅しのつもりだった。しかし嘘でもなかった。あの圧の先に本気があることは、俺自身がよく知っている。

 同時に、完全に拒絶した気もしなかった。

 (まあ、いい)

 遠くで信長がこちらを見ていた。満足そうな顔をしていた。念話が来た。

 「使える」

 それだけだった。

 俺はため息をついた。

 道具と呼ばれ、熊と呼ばれ、今度は「使える」と言われた。

 腹を立てるべき言葉が続いているような気もするが、なぜかその気になれなかった。

 この男は正直だ。それだけのことだと、今ではわかっている。

 俺は蔵に向かって歩き出した。

 見知らぬ世界で、俺は初めて「戦力」として数えられた。

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