第四話「熊の値打ちと走る城」
村井清蔵は、今後も熊五郎の身の回りの世話をするために設定した架空人物です。
元服から数日が経った。
城の空気は、じわじわと変わっていた。
変わったのは信長への態度だ。以前から家臣たちは吉法師に対して礼を尽くしていたが、元服後はその質が違う。廊下ですれ違う時の頭の下げ方、声をかける時の間合い、全てに一段の重みが加わっていた。幼名で呼ばれた少年ではなく、いずれこの城を継ぐ者として、そう見ている目だ。
俺への扱いも変わった。
正確には、整理された。
最初の頃は「化け物」として遠巻きにされていたのが、今では「殿の所有物」として処理されているらしい。恐怖の色は残っているが、それ以上に「殿が置くと決めたもの」という認識が上回った。扱いやすくなったとは言いがたいが、少なくとも夜中に槍を持って来る者はいなくなった。
そして蔵の改修が決まった。
使用人の長が朝に俺の蔵の前に来て、何事かを告げた。念話なしでは意味がわからないが、雰囲気と身振りから「ここをもっとしっかりした造りにする」という話だと察した。床を補強する、出入口を広げる、外側に柵を設ける、職人らしき男が蔵の周りを歩き回って寸法を測り始めた。
(牢屋に近づいてきた気もするが……まあいい)
雨風が凌げれば文句はないし、夜間に侵入者が来にくくなるなら歓迎だ。便利になると思うことにした。
そこへ信長が現れた。
周囲の家臣がさっと頭を下げる。信長はそれを意に介さず俺の前に来て、念話を飛ばした。
「熊、お前の使い道を増やす」
熊、と呼ばれた。
名前ではない。熊、だ。
『……俺には熊五郎という名がある』
「長い。熊でいい」
信長は当然のような顔をしていた。軽い呼び方だが、念話越しに伝わるものがある。この男にとってそれは親しみではなく、戦力としての分類だ。馬は馬、弓は弓、熊は熊、そういう整理の仕方だ。
(まったく、容赦のない男だ)
文句を言う気にもなれず、俺は「で、何をする気だ」と返した。
信長が連れてきたのは、三十前後の男だった。
体つきは武士というより書類仕事に慣れた実務者に見える。顔に余分な感情がなく、状況を素早く読む目をしていた。
男は俺を見た。一瞬だけ表情が揺れた。しかしすぐに戻った。
「村井清蔵と申します」
信長が念話で補足した。「城の実務を回している男だ。頭が回る」
清蔵が信長に向かって何かを言う。念話越しに届く。「この熊に、何をさせるおつもりで」という問いだ。
「言葉を教えろ」
清蔵が固まった。
周囲の家臣がざわついた。「言葉を教える」「熊に」「この男に」という困惑が空気に広がった。
清蔵はしばらく沈黙してから、深く息を吐いた。
「……承知いたしました」
切り替えが速かった。驚きを飲み込んで、即座に実務として受け取った。この男の優秀さが、その一言に出ていた。
清蔵が俺の前に膝をついた。同じ目線に近づこうとする気遣いだろう。それから口を開いて、ゆっくりと言葉を発した。
短い言葉だった。何かを指差しながら言う。空を指して、また言う。地面を指して、また言う。
(ああ、名前を教えているのか)
俺は意図を理解した。空はこう呼ぶ、地面はこう呼ぶ、木はこう呼ぶ。一つずつ、丁寧に音と物を結びつけていく。
念話があれば意思は通じる。だがそれは意思の伝達であって、言葉の理解ではない。この世界で生きていくなら、念話なしでも言葉がわかる方がずっと便利だ。
清蔵が同じ言葉を繰り返す。少し間を置いてから、また繰り返す。
俺は耳を傾けた。音の形を頭に刻む。意味と音を結びつける。
不思議なことに、うっすらと何かが繋がる感触があった。完全にわかるわけではない。だが、音の輪郭と意味の輪郭が、かすかに重なり始める。そういう感覚だ。
(この男、教えるのが上手いな)
焦らない。詰め込まない。一つずつ確実に積み上げていく教え方だ。
信長が念話を飛ばしてきた。
「戦で使うなら、言葉は必要だ。俺がいない場所でも動けるようにする」
俺は清蔵の顔を見ながら、その言葉の意味を考えた。
この男は今後、俺と信長の間を繋ぐ役割を担うのかもしれない。信長が他の城に出向いている時、城内での連絡を通す役割を。
(悪くない判断だ)
少なくとも、頭の回る人間だとわかった。
午後になって、信長が言った。
「外に出るぞ」
城外の、開けた野に出た。稲刈りが終わった後の田んぼが広がり、遠くに山の稜線が見える。
家臣が数人ついてきた。平手もいた。そして犬千代も。
信長が俺の隣に立って、さらりと言った。
「乗る」
平手が即座に何かを言った。止めているのは念話越しにわかる。「危険です」「おやめください」「万が一のことが」
平手らしい、筋の通った反対だ。
信長は聞いていなかった。
犬千代が口を挟む。念話越しに届く。「俺が代わりに試す」という申し出だ。忠義からか、あるいは純粋な好奇心からか。おそらく両方だろう。
「俺が乗る」
信長が短く言い切った。
俺は少しの間、この状況を眺めた。
(まあ、やると思った)
以前魔法を披露した時から、この男がいずれ俺に乗ろうとするのは見えていた。疾走の速さを知って、乗らない理由がこの男にはない。
俺は地面に伏せた。乗りやすいようにしてやった。
信長が躊躇なく背中に跨がった。
「行け」
俺は最初、力加減を試すつもりで走り出した。
試すつもりが、体が動き始めた瞬間、本来の疾走の感覚が戻ってきた。久しぶりに本気に近い速度が出た。
後ろで何かが飛んだ。
止まって振り返ると、信長が十歩ほど後ろの地面に転がっていた。
周囲が騒然とした。平手が駆け寄る。家臣が叫ぶ。
信長は自分で起き上がった。服の泥を払って、俺を見た。
「今のは却下だ」
怪我はないらしい。その顔に焦りも恐怖もなかった。
(……人間というのは意外としぶといな)
俺は少し反省した。力加減を間違えた。
「もう一度」と信長が言った。
今度は大幅に抑えた。歩くよりは速い、小走り程度。
信長が「意味がない」と言った。念話越しに「馬で十分だ」という評価が来た。
三度目。
俺は速度の帯を探った。本気より遥かに遅く、しかし馬より明確に速い、その領域を探す。
見つかった。
野を走る。風が分かれる。信長の体が俺の背中にしっかり収まっている。
止まった。
信長が背中から降りた。少し息を整えてから、静かに言った。
「使えるな」
念話越しに伝わるものがあった。伝令、奇襲、敵の意表を突く動き、この男の頭の中で、俺の使い道が組み上がっていくのがわかった。
「だが長くは続かないな」
『短距離に向いた力だ。長く走れば体への負担が大きい』
「どのくらいだ」
『全力なら十町も持たない。今の速度なら……二・三里が限界だ』
信長が頷いた。「十分だ」と言った。
翌日、職人が呼ばれた。
信長が何かを言う。職人が困惑した顔で俺を見る。また信長を見る。また俺を見る。
「鞍を作れ」
念話越しに意味が届いた。
職人が頭を抱えた。当然だろう。馬用の鞍なら作れる。しかし熊用の鞍など、前例がない。俺の背中の形は馬とは違う。幅も違う、形も違う、毛並みも違う。
しかし信長は「やれ」と言った。それだけだ。
職人が俺の周りをぐるぐると歩き回って、寸法を測り始めた。俺は大人しくしていた。
試作品ができたのは翌日だった。
簡易な作りだが、とりあえず形にしたらしい。
装着してみると、乗れないことはない。しかし走ると揺れた。馬の鞍と違い、俺の背中の動き方が異なるのだ。
信長がそれでも乗った。
揺れた。かなり揺れた。
信長は乗りこなした。
(……本当に、しぶといな)
平手が遠くで何かを言っていた。疲れた顔をしていた。犬千代が「俺にもやらせろ」という顔をしていた。
職人が細部を調整して、また試す。それを繰り返して、三度目の試作でようやく揺れが落ち着いた。
信長が「これでいい」と言った。
「実戦で使う」
職人が複雑な顔で頭を下げた。
夕方になった。
蔵の改修工事が一段落して、職人たちが引き上げていく。床が新しくなり、出入口が広くなり、外側に簡易な柵が設けられた。以前よりずっと頑丈になった。
信長が蔵の前に来て、改修された様子を見回した。
それから俺の隣に立った。
しばらく無言だった。
やがて念話が来た。
「熊、お前は馬ではない」
『知っている』
「だが馬より使える場面がある」
俺は少し考えてから答えた。
『便利な獣扱いだな』
「違うな」
信長が静かに言った。
「道具だ」
間があった。
俺はその言葉を聞いて、しばらく黙った。
道具。
腹を立てるべきかもしれない。あるいは呆れるべきか。しかしこの男の口から出ると、その言葉は侮りではなかった。
(……正直すぎる)
だが同時に、俺は理解した。
この男は感情で物事を決めない。使えるものを使えると言い、使えない場面では使わないと決める。道具と言うのは蔑みではなく、正確な評価だ。むしろ道具として認めるということは、価値を認めるということだ。
俺は元の世界で、いつも兄貴や姉貴と比べられてきた。上でもなく下でもなく、常に「誰かの基準」で測られてきた。
この男は違う。俺を俺として測る。熊五郎という個別の存在として、何ができて何ができないかを見る。
(悪くない)
俺は空を見上げた。
日が落ちて、空の端が赤く染まっていた。
この世界に来てから、まだ日が浅い。言葉もまだわからない。習わしも知らない。歴史も何も持っていない。
それでも…
俺には居場所がある。蔵がある。食事がある。清蔵が言葉を教えてくれる。そして、道具と呼びながら真っ直ぐに使おうとする、変な主がいる。
異物として城に転がり込んだ俺が、今日から戦力として数えられるようになった。
(まあ、悪くない話だ)
信長が踵を返した。
「明日も稽古がある。遅れるな」
『稽古は俺もするのか』
「当然だろ。使うなら鍛える」
俺はため息をついた。
(容赦のない男だ)
しかし、口元が緩んでいた気がした。




