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第三話「名を継ぐ者と斬る小僧」

 俺がこの世界に来て数日が過ぎた。

 朝、蔵の外に出て、俺は足を止めた。

 いつもと空気が違う。

 昨日と同じ城のはずなのに、人の動きが違った。使用人が足早に廊下を行き交い、武士たちが普段より背筋を伸ばして歩いている。誰もが何かを準備しているような、あるいは何かを待っているような、そういう張り詰めた気配が、城全体に満ちていた。

 吉法師はまだ来ていない。

 (昨日と空気が違うな)

 俺は庭の片隅で座ったまま、城の様子を観察した。原因はわからないが、何かが起きようとしているのは確かだ。

 しばらくして、昨日と同じように吉法師が来た。「稽古場に来い」とだけ言って、さっさと歩き出した。

 念話越しには、いつもより少し緊張した空気があった。本人は顔に出していないが。

 俺は黙って吉法師についていく。


 稽古場には、すでに数人の少年がいた。

 年の頃はまちまちだが、吉法師と近い。身なりからして、家臣の子か近習見習いか、吉法師の周囲に置かれた、同年代の若者たちだろうと俺は見当をつけた。

 俺が姿を現した瞬間、彼らの動きが止まった。

 二、三人が後ずさる。一人が悲鳴に近い声を上げた。まあいつものことだ。俺は気にせず端の方に座った。

 その中で、一人だけ違う反応をした者がいた。

 後ずさらなかった。

 声も上げなかった。

 ただ、真っ直ぐに俺を見た。

 体格がいい。同年代の中でも頭一つ抜けている。細身だが、無駄のない筋肉がついているのが毛並み越しでもわかる。目つきが鋭く、警戒と好奇心が半々に混ざったような視線だった。

 その少年が、ゆっくりと俺に近づいてきた。

 「……なんだ、あれは」

 念話は使っていない。声の意味はわからないが、そんな感じだろう。

 少年の足が止まった。俺との距離、およそ三歩。

 間合いを測っている、そう気づいた瞬間、少年の手が腰の木刀に伸びた。

 速かった。

 迷いがなかった。一切の予備動作なく、真っ直ぐに俺の首筋へ向かって打ち込んでくる。

 俺は体を半身にひねった。木刀が空を切る。

 少年が舌打ちして、すぐに二撃目を繰り出す。今度は低い、足元への払い。

 俺は前足を軽く持ち上げてやり過ごした。念のため前腕に硬化を薄くかけておいたが、使う必要もなかった。

 三撃目が来る前に、声が飛んだ。

 「やめろ、犬千代」

 吉法師の声だった。念話ではなく、はっきりした声で。

 犬千代と呼ばれた少年が、ぴたりと止まった。

 俺は前足を下ろして、犬千代を見た。

 (面倒なタイプだな)

 怖いから斬りかかったのではない。確かめたかったのだ。どう動くか、何者なのか、脅威かどうかを自分の体で直接確認しようとした。それはそれで筋の通った反応ではあるが、いきなり斬りかかるのは乱暴が過ぎる。

 犬千代が口を開いた。念話は通じていないが、声の意味は吉法師が念話で補足してくれた。

 「こんな化け物を城に置く気か」

 吉法師は涼しい顔で答えた。

 「俺のものだ」

 犬千代が黙った。不満と警戒が顔に貼り付いたまま、しかし従った。吉法師への忠義か、あるいは吉法師を信じているのか、どちらかはわからないが、口答えはしなかった。

 (忠義はあるらしい。ただし素直ではない)

 俺は犬千代の横顔を見ながらそう評した。


 稽古が始まった。

 犬千代の動きを見て、俺は少し目を細めた。

 昨日の吉法師とは違う種類の強さだ。吉法師が鋭さと速さで圧倒するなら、犬千代は力と胆力で押してくる。まだ荒削りだが、土台にある才能は本物だ。何より、怯まない。吉法師の打ち込みを正面から受けて、それでも前に出てくる。

 ただし、二人の力量差は明確だった。吉法師が本気を出せば、犬千代では追いつかない。

 (あの年齢でこれか……この城には規格外が揃っているのか)

 そんなことを考えていると、稽古場に新しい人間が現れた。


 年かさの男だった。

 五十がらみか、あるいはもう少し上か。髪に白いものが混じり、顔に刻まれた皺は長い年月を物語っていた。しかし背筋が真っ直ぐで、歩き方に迷いがない。武士として長く生きてきた者の、静かな重みがある。

 男が現れた瞬間、稽古場の空気が変わった。少年たちが姿勢を正す。犬千代でさえ、わずかに背筋が伸びた。

 男は稽古場をゆっくりと見渡した。俺のところで視線が止まる。

 驚きはなかった。すでに話を聞いていたのだろう。ただ、静かに、しかし隅々まで観察するような目で俺を見た。

 恐怖ではなく、警戒だ。しかも冷静な警戒。感情に流されていない。

 (まともな大人がいたか)

 俺は少し安堵した。この城に来てから、俺を見て理性的な反応をした大人はいなかった。

 男が吉法師に向かって何かを言った。念話越しに意味が届く。「若様、稽古中に失礼いたします」という出だしから、丁寧だが言うべきことははっきり言う口調だとわかった。

 続いて犬千代に視線を向けて、短く諫める言葉をかけた。犬千代が「はい」と答えて、不本意そうにしながらも頭を下げた。

 それから男は吉法師に向き直った。

 「若様、そのようなものを城中に置くのは…」

 吉法師が遮った。

 「問題ない」

 間を置かなかった。

 男がため息をついた。完全否定はしない。だが納得もしていない。その微妙な間に、長年この主と付き合ってきた苦労が滲んでいた。

 再び俺に目を向ける。今度はもう少し長く。

 何を見ているのか、俺にはわかった。脅威かどうかではない。この得体の知れない存在が、吉法師にとってどういう意味を持つのかを、見定めようとしている。

 俺は動かずにその視線を受けた。

 男がやがて視線を外した。吉法師に何事かを告げてから、稽古場を去っていく。

 吉法師が念話を飛ばしてきた。

 「平手だ。俺の傅役をしている。うるさいが、悪い男ではない」

 傅役というのは、吉法師の教育係であり、補佐役であり、あらゆる意味でこの若君の面倒を見てきた人物ということだろう。

 (なるほど、それであの苦労人の顔か)

 俺は密かに同情した。


 稽古が終わって間もなく、家臣の一人が稽古場に現れた。

 吉法師に向かって深く頭を下げ、静かに告げる。

 「お時間にございます」

 その一言で、場の空気が一段変わった。

 少年たちが顔を見合わせる。犬千代が背筋を正した。平手がどこからともなく現れ、吉法師の傍らに控えた。

 吉法師は一瞬だけ俺を見た。

 念話は来なかった。ただ視線だけが届いた。「待っていろ」という意味だと俺は受け取った。

 吉法師が歩き出した。平手と家臣が続く。他の少年たちも後に従う。犬千代が最後に、もう一度だけ俺を振り返ってから、その列に加わった。

 稽古場から人が消えた。

 俺は一人残された。


 庭の隅に移動して、俺は座った。

 城の中が、静かになっていた。

 人の動きが止まっている。さっきまで忙しなく行き交っていた使用人たちが、どこかに消えたかのようだ。遠くから、かすかに何かの声が聞こえる。厳かな、儀式めいた響きだった。

 (何かが起きているな)

 それだけはわかった。しかし何なのかはわからない。

 俺には知識がなさすぎる。この世界の習わし、この国の文化、人間たちの儀礼、何もかもが手探りだ。

 風が吹いた。

 城の木々が揺れた。

 俺はただ、待った。


 どのくらい経っただろう。

 足音が聞こえた。

 複数の足音だが、その中心にいる一人の足音が、違った。

 俺は顔を上げた。

 庭の向こうから歩いてくる人影を見た。

 吉法師だ。

 見た目は変わっていない。同じ顔、同じ体格。しかし…

 歩き方が違った。

 昨日までより、一歩一歩が重い。重いというのではない、確かだ。地面を踏みしめる足の置き方が、まるで別の人間のようだった。

 視線が違った。

 まっすぐ前を見ている。それは昨日もそうだったが、今日の視線にはもっと遠くのものを見ている深さがあった。子供が前を見るのではなく、先を見る者の目だった。

 空気が違った。

 何かを受け取ってきた者の、静かな重さが全身に纏わりついていた。

 同じ姿のはずなのに、別の生き物に見えた。

 俺の隣で、犬千代が一瞬だけ戸惑う顔をした。それからすぐに、深く頭を下げた。

 平手が静かに控えている。その顔には、安堵とも感慨ともつかない表情が浮かんでいた。

 吉法師が、いや、その人物が俺の前で足を止めた。


 俺は黙って見上げた。

 相手も少しの間、黙っていた。

 それから念話が来た。

 「……変な目で見るな」

 『変な目ではない。ただ、昨日と違うと思っただけだ』

 「そうか」

 短い答えだった。しかし声の奥に、照れに近い何かがあった。

 俺は少し間を置いてから続けた。

 『呼ばれ方が変わったな。さっき家臣たちが、昨日とは違う呼び方をしていた』

 相手が少し目を細めた。

 「気づいたか」

 『耳はいい』

 「吉法師は幼名だ」念話の声が、静かに告げた。「元服した者が改める、子供の頃の仮の名だ。俺はもうその名を使わない」

 俺はその言葉を聞いて、この世界なりの習わしがあるのだと理解した。

 『では、これからは何と呼ぶ』

 「信長だ」

 短く、しかし確かな重みのある答えだった。

 「織田信長。それが俺の名だ」

 俺はその名を頭の中で繰り返した。信長。

 『信長……か』

 「だがその名を軽々しく呼ぶものではない。諱というのはそういうものだ」

 俺には「諱」という言葉の正確な意味はわからなかった。だが念話越しに伝わるものがあった。その名は特別な場面にしか使わない、ということだ。

 『では俺はどう呼べばいい』

 信長が少し考えた。

 「人前では殿と呼べ。俺の立場を示す呼び方だ」

 領主の息子、それが信長の立場だと俺はすでに知っていた。殿という呼び方がその立場に相応しいということも、言われればわかる。

 『念話の中でも殿でいいか。』

 信長が一瞬、口元を動かした。笑ったのかもしれない。

 「好きにしろ」

 『では殿にする。吉法師という名は子供の名前だと言っただろう。今のお前に使うのは変な気がする』

 「……余計なことを考えるな」

 念話越しに、かすかな照れが伝わった。子供の名を「子供の名前」と言われるのは少々癪だったらしい。

 俺はその反応を心の中にしまっておいた。


 日が傾き始めた頃、信長は庭の外、城壁の上から遠くを眺めていた。

 俺はその隣に座った。

 信長の視線の先には、広がる野と、その向こうに続く土地があった。念話越しに彼の意識の向かう先がわかる。遠い、もっと遠い場所を見ている。

 「このままでは終わらん」

 信長が静かに言った。声には出さず、念話だけで。

 『何が』

 「全部だ」

 少しの間があった。

 「戦になる。いずれ必ず」

 俺はその言葉を聞いて、返す言葉を考えた。

 励ますべきか。問い返すべきか。しかしどちらも違う気がした。

 信長は答えを求めていない。ただ、声に出す相手が必要だったのだ。人間に対しては言えない言葉を、俺になら言える、そういうことかもしれない。

 『そうなった時は言え』

 「何をする」

 『前に言っただろう。相談があれば聞く。命令だけは勘弁だと』

 信長が小さく笑った。今度ははっきりわかった。

 「言ったな、そんなことを」

 『約束だ。忘れるなよ、殿』

 「殿、か」

 信長はその呼び方を口の中で転がすように繰り返した。

 「……悪くない」

 遠くで、犬千代が何かを叫んでいた。おそらく城内で誰かと口論しているのだろう。平手の疲れた声がそれを宥める。いつも通りの城の夕暮れだ。

 信長がまた遠くを見た。

 その横顔は、今朝俺が蔵の前で見た吉法師の顔とは、もう別のものだった。

 この人物がこれからどこへ向かおうとしているのか、俺にはまだわからない。

 だが…

 (悪い相棒ではない)

 俺はそう思いながら、同じ方向を見た。

 見知らぬ世界の、夕暮れ時だった。


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