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第二十二話「落ちる獣と拾う者」

 山の中を進みながら、俺は後方の気配を測り続けた。

 近づいている。

 じわじわと、しかし確実に距離が縮まっていた。分散した足音が複数ある。一方向ではなく、左右にも広がっている。包囲を狭める動きだ。

 数は多くない。機動部隊だ。大軍ではなく、速く動ける少数が追っている。しかし統率されていた。行き当たりばったりではなく、方向を読んで動いている。

 (光秀の手だ)

 逃げ切れる相手ではない。このまま進み続ければ、いずれ追いつかれる。俺の足が以前の速度で動けるなら話は別だが、今の体では長くない。

 信長が黙ってついてきた。状況を理解している顔だった。


 前方が開けた。

 木々が途切れて、視界が広がった。

 崖だった。

 断崖絶壁だ。下が見えない。夜の暗さの中に、深い切れ込みが広がっている。左右を見た。険しい斜面が続いていた。回避できる地形ではない。

 後方から足音が近づいている。

 信長が崖の縁に立って、下を見た。一言言った。

 「行き止まりか」

 感情が乗っていない声だった。状況を確認しているだけだ。

 俺は左右と後方を素早く確かめた。

 戻れば囲まれる。左右は通れない。正面は崖だ。

 選択肢は一つだった。


 俺は信長を振り返った。

 念話を飛ばした。

 『掴まれ』

 信長が一瞬俺を見た。崖を見た。また俺を見た。

 躊躇しなかった。

 背に体を密着させた。両手で毛皮を掴んだ。体重を俺に預けた。

 俺は崖の縁に立った。

 一瞬、何も音がなかった。後方の足音も、風も、全部が遠くなった気がした。

 俺は踏み切った。


 落ちた。

 重力が一気に体を引いた。信長の体重が加わって、加速が速かった。風が顔を打った。体が引き裂かれる感覚があった。

 浮遊を使った。

 魔力が走った。しかし出力が安定しなかった。以前なら木の葉が落ちるように制御できた。今は違う。魔力が波打って、減速が一定にならない。

 完全な浮遊ではない。落下を殺すだけで精一杯だった。

 速度が落ちた。落ちたが、止まらない。地面が見えてきた。角度がずれた。

 (まずい)

 修正しようとした。魔力が揺れた。体が回転した。

 地面が来た。


 衝撃が来た。

 前足から着いた。しかしバランスが崩れた。体が横に流れた。地面を転がった。

 岩に脇腹が当たった。息が詰まった。

 止まった。

 しばらく動けなかった。息を整えようとした。肺が言うことを聞かなかった。足が重かった。特に前足の左側が、痛みを発していた。

 信長の声がした。

 「無事か」

 念話を飛ばした。

 『殿は』

 「問題ない」

 信長が立ち上がる気配がした。着地の衝撃を受けても、すぐに動く。この男の体の頑丈さは変わっていない。

 俺は立ち上がろうとした。足に力が入った。左前足に痛みが走った。しかし立てた。

 (助かった)

 しかし終わっていない。


 上から声が聞こえた。

 崖の縁に人影があった。松明の光が見えた。俺たちが崖を下りたことを把握している。

 足音が分かれる気配がした。一部が迂回を始めた。崖を降りられる場所を探している。

 時間はある。しかし短い。

 俺は走り出した。

 左前足が痛かった。速度が上がらなかった。以前なら問題のない地形で、足が思うように動かない。

 (ここで捕まるか)

 その思考が来た時、別の気配を感じた。


 遠くで、音がした。

 衝突音だ。人が争う音だ。しかし方向が違う。追撃側の方向だ。

 追撃の足音の一部が、その方向に反応した。包囲が揺れた。一瞬だが、密度が落ちた。

 何かが起きている。

 追撃の横から、別の動きが入った。

 俺はその気配の発生源を探った。

 敵ではない。隠れる動きをしている。少数だ。追撃側に対して圧力をかけながら、しかし全力で戦うのではなく、牽制して動きを乱している。

 (利家の手か)

 確信はなかった。しかし文を送った。警戒を強めろと言った。最悪の場合に備えろと言った。利家がそれを受け取っていたなら、周辺に人を出していてもおかしくない。

 俺は判断した。

 あえて姿を見せた。


 茂みの前に出た。

 気配がした。緊張が走った。複数の人間が周囲にいる。武器を向けている気配がある。しかし動かなかった。

 俺は動かなかった。

 信長も動かなかった。

 しばらくして、茂みから人影が現れた。

 黒装束の男だった。短刀を構えていた。俺と信長を交互に見た。

 信長の顔を確認した瞬間、男の動きが止まった。

 短刀が下がった。

 男が地面に膝をついた。

 「……殿」

 掠れた声だった。

 「前田様の命で、周辺を探っておりました」

 俺は息を吐いた。

 (届いていたか)

 念のため送った文で、助かった。利家は動いていた。俺の言葉を受け取って、人を出していた。


 男が状況を伝えた。

 情報が錯綜しているという。本能寺で何かがあったことは広まっている。しかし信長が死んだという話も出ているらしい。

 信長が静かに言った。

 「ならば、まだ間に合うな」

 男が顔を上げた。

 信長の声に、迷いがなかった。逃げている者の声ではなかった。次を考えている者の声だった。


 俺は動けなかった。

 足の痛みが引かなかった。魔力の消耗が体全体に来ていた。しばらく全力では動けない。

 男がもう一人、茂みから出てきた。二人いた。

 二人が俺の状態を確認した。足を見た。お互いに目配せした。

 一人が俺の左側に回った。歩くのを補助しようとしている。

 俺は少し戸惑った。

 補助される、ということを、これまでほとんど経験したことがなかった。清洲に来た頃から、俺はいつも自分で動いていた。見て、走って、判断して、報告して。誰かに支えられることは、なかった。

 しかし今、足が動かない。

 俺は補助を受け入れた。

 (一人で戦う話ではなくなったな)

 そう思いながら、男の誘導に従った。


 山の中を移動し始めた。

 二人の忍びが先導した。信長が歩いた。俺がその後に続いた。

 追撃の気配は遠くなっていた。利家の人間が牽制を続けているらしかった。完全に消えたわけではない。しかし直接の圧力は一時的に緩んでいた。

 俺は歩きながら、今夜のことを整理した。

 警報が止まらなかった。誰も聞かなかった。しかし動いた。

 本能寺に間に合った。信長を乗せて逃げた。崖を下りた。老いた体が限界を超えた。

 そして、繋がった。

 利家に送った文が届いていた。利家は動いていた。その手の者が、今夜ここにいた。

 逃げ切ったわけではない。まだ追撃は続いている。安全な場所にいるわけでもない。

 しかし次がある。

 利家の元へ向かう道が、今夜開いた。

 (拾われたな)

 俺は思った。老いて、消耗して、一人では動けなくなった俺が、自分の言葉が戻ってきた形で拾われた。

 まだ終わっていない。

 山の夜が深い。足音が続いている。

 次に繋がった。それだけで、今夜は十分だった。


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