第二十三話「終わりに向かう者と残される者」
清蔵が来たのは、山を下りてから数日後のことだった。
前田利家の元に落ち着いて、俺は蔵に近い部屋の隅で横になっていた。足の痛みは引いていなかった。魔力の消耗も、思ったより深かった。
清蔵が座って、静かに話し始めた。
光秀が滅びた。
短期間だったという。信長が生きていると知れ渡った瞬間に、光秀を支える者たちが動揺した。各地の武将が信長の旗の下に集まった。光秀には時間がなかった。
俺は黙って聞いた。
(終わったな)
(戦はもう決まった)
戦場で見ていない。走り回っていない。清蔵の言葉を横になったまま聞いているだけだ。しかしそれが今の俺の場所だった。
戦の終わりを、戦場で見なかった。
それでいいと思った。
清蔵の報告が続いた。
織田信忠が死んだ。
信長の息子だ。本能寺と同じ夜に、別の場所で。逃げる間もなかったという。
清蔵が淡々と語った。装飾のない報告だった。だからこそ重かった。
俺は少しの間、黙った。
(助けられなかった)
本能寺で信長を連れ出した時、俺には信忠のことが頭になかった。信長一人を背に乗せて、崖を下りて、逃げた。
(あの時、もう少し早ければ)
しかし早ければ、信忠のところまで行けたかどうかも、わからない。老いた足で、夜の中を、別の場所まで。
わからない。だから後悔の形が定まらない。
それが余計に重かった。
俺はその思いを、長く引きずらないことにした。引きずっても信忠は戻らない。それだけのことだ。
信長が変わった。
自分は前線に出ないと決めたらしい。三法師が成長するまで、後見に回るという。
清蔵からその話を聞いた時、俺は少し考えた。
前に出ていた男が、引いた。
清洲で吉法師と呼ばれていた頃から、この男はいつも前に出ていた。稽古場の先頭、出陣の先頭、判断の先頭。誰よりも前にいた。
それが、引いた。
本能寺の夜に何かが変わったのかもしれない。死を一度くぐった男が、違う判断をするようになった。
俺はそれ以上考えなかった。変わったことは確かだ。それでいいと思った。
俺の体は、戻らなかった。
足の痛みが抜けない。疾走を使うと、すぐに息が上がる。長い距離を歩くことも、以前より難しくなった。
本能寺の夜の無理が、最後の何かを使い切った。そういう感触だった。
走れない。
戦場には戻れない。
役割が変わった。衰えを感じた。そして今、その終着点に来ていた。
思ったより静かだった。
これが来た時、もっと何かを感じるかと思っていた。しかし実際には、ただそこにある、という感じだった。
信長が来たのは、ある昼のことだった。
一人で来た。近習もなかった。部屋の前に立って、入ってきた。
俺の横に座った。
しばらく二人で黙っていた。
それから俺は念話を飛ばした。
『俺は、もう長くない』
言葉にするのは初めてだった。
信長が俺を見た。否定しなかった。
少しの間があった。
信長が言った。
「統一を見せてやる」
俺は信長の顔を見た。
この男らしい言葉だった。慰めでもない。約束でもない。ただそれをやると言っている。
俺は念話を飛ばした。
『急ぐな』
信長が少し眉を動かした。
『急げば、ろくなことにならん』
信長が黙った。
俺は続けた。
『本能寺がそうだった。先を急ぎすぎた。警備を軽くした。俺の言葉を聞かなかった』
怒っているわけではない。責めているわけでもない。ただ、言っておきたかった。
『国を手に入れても、その後がある。その後をどうするかは、急いで手に入れた後では考えられない。ゆっくり固めた方がいい』
戦を長く見てきた者の言葉だ。老いた者の視点だ。正しいかどうかはわからない。しかし俺が見てきたことから出た言葉だ。
信長がしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「覚えておく」
それだけだった。
それで十分だった。
国内に大きな敵はなくなった。
各地の情勢を清蔵が伝えてくれる。戦はまだある。しかし統一は時間の問題だと、清蔵は言った。
俺は安堵した。
この世界に来た時、戦が続いていた。信長と共に歩いた時間、ずっと戦があった。その戦が、終わりに向かっている。
見届けられないかもしれない。しかし向かっていることは確かだ。
それでいいと思った。
ある静かな昼、俺は目を閉じたまま、過去のことを思い出していた。
森の中で、小さな黒い熊に念話を飛ばした日。腹が減った、という返事しか来なかった日。
少年が茂みから飛び出してきた日。固まった後に、じりじりと近づいてきた日。
「俺と来い」と言われた日。
清洲城の門前で、槍を構えた家臣たちを吉法師が一喝で黙らせた日。
稲生の原で、犬千代が前だけを見て突っ込んでいった日。
稲葉山の崖を、犬千代と二人で登った夜。
桶狭間の雨の中を、全体を見ながら動き続けた日。
本能寺の夜、信長を背に乗せて崖を飛んだ瞬間。
断片が来ては消えた。全部は思い出せない。しかし来るたびに、それが本物だったという感触があった。
(いい生だったな)
声に出せないから、念話でもなく、ただ頭の中で思った。
元の世界では、親父の英雄譚と兄貴たちの武勇の陰にいた。比べられ続けた。だから遠くへ行こうと思った。旅の扉に飛び込んだ。
落ちた先に、うるさい小僧がいた。
(悪くなかった)
夕方になった。
信長が部屋の前を通った。立ち止まって、中を見た。
俺と目が合った。
信長は何も言わなかった。俺も念話を飛ばさなかった。
信長がまた歩き出した。
その背中を、俺は見ていた。
前に出ることをやめた男の背中だ。しかしまだ真っ直ぐだ。折れていない。
(続きは、あいつがやる)
俺は目を閉じた。
安土の夕暮れが、静かに落ちていった。
戦国熊王伝・完
戦国熊王伝もようやく完結までこぎつけることができました。
戦国時代に熊を放り込んでみようと思って始めたわけですが、思っていたのとは大分変わってしまいました。
魔法は便利そうなものを設定していたのですが、発火と硬化は最後まで出番なし。
熊五郎は武将ではないですし、本人に特別な智謀があるわけでもなく、政治知識も未来知識もない前提ですから、おのずとやることに限界がありました。
ですので、人を見る事に特化したところを切り口として進める事になりました。
そのため、後半は時代をかなり走ってますが、熊五郎の役割が他の誰かに変わったと言う事でご容赦ください。
それでも、最後までお読みいただいたことに感謝します。
ありがとうございました。




