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第二十一話「走る獣と逃げる主」

 夜明け前、俺は決めた。

 誰も動かないなら、自分で動く。

 警報が止まらない夜を越えて、俺の中で結論が出た。間違っていたとしても、それでいい。動いて何もなければ、俺が恥をかくだけだ。しかし動かずに何かが起きれば、その時は取り返しがつかない。

 俺は行動を始めた。


 最初に文を書かせた。

 清蔵を起こして、俺の念話を文字にしてもらった。清蔵は眠そうな顔をしたが、内容を聞くと目が変わった。

 前田利家宛てだ。

 内容は短かった。光秀の動きに違和感がある。警戒を強めろ。最悪の場合に備えろ。

 それだけだ。

 証拠はない。説明もできない。しかし利家は俺の言葉を全部信じるわけではないにしても、無視はしないだろう。稲葉山に一緒に行った男だ。俺の見方を、ある程度は知っている。

 文を清蔵に持たせた。利家への伝達を頼んだ。

 次に、信長への文だ。

 京には入らない。京近郊の山中で待機する。異変があれば即座に対応する。

 それだけ書いて、清蔵に送ってもらった。

 清蔵が少し間を置いてから言った。「返答は期待しない方が良いかもしれません」

 『わかっている』

 返答がなくても動く。許可がなくても動く。それでいいと決めていた。


 信長からの返答は来なかった。

 来なかったということは、止めてもいないということだ。俺はそれを黙認と受け取って、京に向かって動き出した。

 街道は使わなかった。

 山の中を進む。足が以前より重い。長距離の移動は体に来る。それでも進んだ。

 京近郊の山中に入った頃、俺は見晴らしの良い場所を選んで潜伏した。

 街道が見渡せる場所だ。大軍が動けば、必ずわかる。

 静かだった。

 鳥の声がした。風が木を揺らした。街道を旅人が歩いていた。

 (何も起きなければ、それでいい)

 そう思いながら、耳を立てていた。


 夜になった。

 異変はなかった。

 翌朝も、静かだった。

 俺は自分の違和感を疑い始めた。考えすぎだったのかもしれない。清蔵が言った通りかもしれない。

 そう思い始めた頃だった。

 地鳴りが来た。

 音ではない。振動だ。地面が微かに揺れている。遠くで、大量の足が動いている感触だ。

 俺は立ち上がって、耳を最大限に開いた。

 足音だ。無数の足音だ。馬の蹄も混じっている。鉄の音がする。武装した集団が移動している。

 方向を確かめた。

 京方面だ。

 本能寺の方向だ。

 俺の頭の中で、断片が全部繋がった。光秀の接待失敗。秀吉の援軍要請。信長の少数での上洛。そして今、大軍が本能寺に向かっている。

 (謀反だ)

 確信が来た瞬間、俺はすでに動いていた。


 全速力で走った。

 疾走の魔法を使った。衰えた体から、全部を引き出した。足が痛かった。息が上がった。それでも止めなかった。

 本能寺が見えてきた。

 まだ、始まっていない。光秀の軍が包囲に入っているが、動いていない。

 (今なら間に合う)

 俺は本能寺の塀を越えた。


 中は静かだった。

 まだ誰も気づいていない。

 俺は信長の気配を探した。

 建物の奥だ。俺は廊下を進んだ。近習が俺を見て固まった。俺は止まらなかった。

 部屋の前に来た。

 念話を飛ばした。

 『殿。光秀の軍が来ている。今すぐここを出ろ』

 少しの間があった。

 扉が開いた。

 信長が立っていた。寝衣のままだった。俺を見た。その目に、驚きはなかった。

 「……熊五郎か」

 念話が届いた。声で確認した。

 外から音が来た。光秀の軍が動き始めた。

 時間がない。

 『来い。今なら抜けられる』

 信長が俺を見た。一瞬だった。

 何かを考えた顔ではなかった。決めた顔だった。

 「乗るか」

 『背に乗れ。今すぐだ』

 信長が俺の背に跨がった。

 俺は走り出した。


 本能寺の裏手から出た。

 光秀の軍の包囲が完成する前だった。初動が遅れていた。信長がいなくなったことに、まだ気づいていない。

 その混乱の隙間を、俺は抜けた。

 足が重かった。

 全速力で来た後の体で、また走っている。疾走を使えば速くなるが、消耗が激しい。短距離で出して、また抑えて、また出す。それを繰り返した。

 背に乗った信長が、体を低くしていた。馬より揺れる俺の背に、長年乗り慣れた動きだ。

 (間に合った)

 しかし……

 (逃げ切れるかは、別だ)

 足が言っていた。長くは持たない。


 しばらくして、後方が騒がしくなった。

 光秀側が気づいたのだろう。情報が広がれば、追撃が来る。

 俺は進路を考えた。

 安土城方面は危険だ。街道を読まれている。先回りされる可能性がある。大津方面も同じだ。

 山だ。

 比叡山方面の山中に入れば、大軍は追いにくくなる。地形が複雑だ。俺は山の中での動き方を知っている。

 俺は街道を外れた。山に入った。


 山の中は静かだった。

 追撃の足音が遠くなった。俺は少し速度を落とした。体が限界に近かった。

 信長が背から降りた。

 俺も足を止めた。

 二人で、山の中に立った。

 信長が俺を見た。

 「歳なのに無理させたな」

 俺は少し間を置いてから念話を飛ばした。

 『無理させたのは殿だろう。油断しすぎだ』

 信長が少し笑った気がした。暗い山の中だったが、声音がそう聞こえた。

 「……そうだな」

 少しの間があった。

 信長が言った。「安土は先回りされているな」

 『街道は読まれている。正面から戻るのは無理だ』

 「ならどうする」

 俺は考えた。

 利家への文を送った。利家は警戒を強めているはずだ。もし俺の文が届いていれば、動ける状態にあるかもしれない。

 『こうなったら、利家の所に逃げる』

 それは、最後の選択だった。

 信長が黙った。

 否定しなかった。

 それが答えだった。


 山中を進みながら、俺は頭を動かした。

 利家の元まで、どう行くか。追撃をどう避けるか。信長の体は問題ないか。

 信長は無言でついてきた。文句を言わなかった。急かさなかった。俺の判断に任せていた。

 この男が俺に任せている。

 吉法師と呼ばれていた頃から、信長は俺を使ってきた。道具と呼んだ。熊と呼んだ。それでも任せた。

 今夜も、同じだ。

 (逃げ切るしかない)

 俺は足を動かし続けた。老いた体から、まだ出せるものを引き出しながら。

 山の夜が深かった。追撃の気配が、遠くにあった。


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