第二十話「重なる違和感と届かぬ警鐘」
安土の朝は静かだった。
いつもの朝だ。蔵の外に出て、城内の空気を確かめる。人の動きを見る。清蔵が来るのを待つ。それだけが、今の俺の日課になっていた。
戦場には出ていない。
走れないわけではない。硬化も発火も、まだ使える。しかし以前のように動き続けることは、体が受け付けなくなっていた。長い行軍は足に来る。疾走の後の消耗が、以前より深い。
信長が「無理はするな」と言った。
俺はその言葉に従っていた。従いながら、見ることだけは続けていた。
城に来る武将を見る。使者を見る。廊下を行き交う家臣を見る。念話の届く距離に来た者の内側を、できる限り読む。戦場で動けなくなっても、それだけはやめていなかった。
(動かないが、見ている)
それが今の俺だ。
清蔵が来たのは、昼前だった。
いつものように各地の報告を持ってきた。清蔵はすでに五十に近い。髪に白いものが増えたが、目の鋭さは変わっていない。
報告の中に、明智光秀の話があった。
接待の失敗だという。信長の命で担当していた、徳川家康への接待に問題があったらしい。具体的な内容まではわからないが、信長が怒ったという話だ。
俺は黙って聞いた。
(あの男が、そんな初歩的な失敗をするか)
明智光秀は、城に来るたびに俺が見てきた人物だ。細部まで抜かりがない。言葉の選び方、礼の仕方、場の空気の読み方、全てに隙がない。計算が体に染み込んでいる種類の人間だ。
そういう男が、接待を失敗する。
単発なら偶然だ。誰でも失敗はする。しかし何かが引っかかった。
(なぜ今か)
その引っかかりを、俺は頭の隅に置いた。
翌日、清蔵がまた来た。
今度は羽柴秀吉からの援軍要請だという。備中で毛利と戦っている秀吉が、信長に援軍を求めてきた。
俺はその話を聞いて、少し止まった。
秀吉のことは、長く見てきた。犬千代、いや利家が追放されていた時に世話をしていた男だ。城下で何度も顔を見た。調略と実務で動く人間で、功績を独占する動きをしてきた男だ。
自分でやれることは自分でやる。人に頼ることを好まない。それが秀吉という人間の動き方だと、俺は長年の観察で理解していた。
その男が、援軍を要請した。
(あの男が、人に頼るか)
昨日の光秀の話と、今日の秀吉の話が、頭の中で並んだ。
二つとも、その人間らしくない動きだ。
俺は整理した。
光秀は失敗をした。しかし光秀は失敗をしない種類の人間だ。
秀吉は援軍を求めた。しかし秀吉は人に頼らない種類の人間だ。
偶然が重なることはある。しかしこれは、偶然にしては重なりすぎている。
俺はさらに思考を進めた。
二つの「ありえない動き」が同じ時期に起きている。それぞれは無関係に見える。しかし繋いで見ると、何かの形になる気がした。
何の形かは、まだわからない。
その翌日、清蔵からまた話があった。
信長が上洛するという。秀吉への援軍として、自ら動くらしい。護衛は少数だ。本隊は後から合流するが、先発は薄い。
俺の頭の中で、また何かが動いた。
(警備が薄すぎる)
信長は常に動く。それはわかっている。しかし今の状況で、護衛を最小限にして動く。大軍に囲まれたらどうするか。
(大軍なら、近くにいる必要がある)
その思考が来た瞬間、昨日からの引っかかりが一つの形になった。
光秀。
光秀は、どこにいる?
接待を失敗して、信長から叱責を受けた光秀。その光秀が、今、兵をどこに置いているか。
清蔵から聞いた報告を頭の中で遡った。光秀が兵をまとめて動いているという話が、断片的にあった気がした。
(繋がっているのか)
仮説が形になった。
証拠はない。断片をつなげた推測だ。間違っている可能性の方が高い。
しかし……
(こんな違和感が、連続で起きるものなのか?)
清蔵を呼んだ。
念話で整理した情報を伝えた。光秀の接待失敗。秀吉の援軍要請。信長の少数での上洛。光秀の兵の動き。それらを繋げると、何か見えてくるかもしれないと言った。
清蔵が黙って聞いていた。
それから答えた。
「考えすぎではないでしょうか」
声は静かだった。否定するためではなく、整理するための言葉だという空気があった。
「光秀様の接待失敗は、詳細まではわかりません。秀吉殿の援軍要請は、状況次第では自然な判断かもしれません。信長様の動きは、いつものことでもあります」
清蔵が続けた。
「それぞれを別に見れば、不自然ではありません」
論理的だった。正しかった。
俺は証拠を持っていない。持っているのは引っかかりだけだ。断片を繋げた形だけだ。清蔵が「不自然ではない」と言えば、俺には返す言葉がない。
(証拠がない。直感しかない)
俺は言った。
『今回だけ、信長に同行させてほしい』
清蔵が少し驚いた顔をした。
『万が一への備えだ。俺の違和感が間違っていれば、それでいい。しかし外れていなかった時に、俺がいなければ何もできない』
清蔵が頷いた。「伝えます」と言った。
翌日、清蔵が文書を持ってきた。
信長からの返答だった。
清蔵が読み上げた。短かった。
「無理するな。休め」
それだけだった。
俺は文書を見た。文字は読めない。しかし清蔵の声で意味は届いた。
同行は認められなかった。
理由は言葉にされていなかった。しかし意味はわかった。俺は今、戦力として数えられていない。老いた者として、安全な場所に置かれている。
信長の判断だ。
間違っていない。俺の体の状態を、信長は正確に把握している。
しかし……
夜になった。
城の中が静かになった。
誰も危機を感じていない。清蔵は「考えすぎ」と言った。信長は「休め」と言った。俺の違和感を、誰も共有していない。
論理的には問題がない。
それはわかっている。俺が持っているのは証拠ではない。断片を繋げた仮説と、長年の観察から来る感触だけだ。
(俺の考えすぎなのか?)
そう思う。
(俺が間違っているのか?)
そうかもしれない。
しかし……
警報が止まらない。
清洲にいた頃から、俺は人の動きを見てきた。言葉の裏を読んできた。戦場で気配を察してきた。その積み重ねが今、何かを言っている。
戦場で敵の援軍を感じた時と同じ感覚だ。証拠はなかった。しかし土煙の方向が違った。足音の数が変わっていた。それを繋げて、信長に伝えた。
あの時は正しかった。
今も、同じ感覚がある。
しかし今回は、誰も聞かない。俺自身も、確信が持てない。
俺以外、誰も同じ方向を見ていない。
(それとも……)
蔵の中で、俺は目を開けたままでいた。
眠れなかった。
窓の外に安土の夜が広がっていた。静かだった。何も起きていない。普通の夜だ。
しかし、警報は止まらなかった。




