第十八話「居場所と役割」
稲葉山城が落ちた。
信長はその城を岐阜と呼ぶことにした。本拠を清洲から岐阜へ移すという。
俺も移動した。
荷物と呼べるものはほとんどない。蔵に置いていた藁を新しい場所に運んでもらって、それで終わりだ。
岐阜の城に入った時、俺は城を見上げた。
(落とせる城だ)
そう思いながら、同時に思った。
(だが、俺が落としたわけではない)
俺は裏の崖を登って、本丸の近くまで来た。弱点を見つけた。信長に報告した。しかしその情報は、直接この城を落とすためには使われなかった。竹中半兵衛が別の方法で落とした。信長の調略が内側から崩した。
俺がやろうとしていたことは、すでに誰かがやっていた。
それも一人ではない。別々の役割として、分かれて組み込まれていた。
それでいい、と俺は思った。思いながら、城に入った。
新しい環境は、清洲とは違った。
家臣が増えていた。美濃出身の者も多い。信長の旗下に入った元・斎藤の家臣たちだ。
彼らは俺を見ると、視線を向けた。しかし近づかなかった。
廊下ですれ違うたびに、少し距離が開く。声が止まる。俺が通り過ぎてから、また会話が再開する。
断片的に言葉が聞こえた。
「あれが……」「殿の熊か」
清洲では、俺はいつの間にか城の一部になっていた。熊がいることが日常になっていた。しかしここでは違う。俺は噂として知られているが、実物を見るのは初めての者が多い。
噂と実物は違う。噂は曖昧だ。しかし実物が目の前にいれば、恐怖は具体的になる。
(慣れるまで時間がかかる)
俺は思いながら、気にしないことにした。
城下に出た時は、もっとはっきりしていた。
子供が泣いた。商人が荷物を抱えて固まった。道が自然に空いた。
清洲では、俺が通ると「また来た」という顔をされるようになっていた。怖がられてはいたが、日常の怖さだった。ここは違う。初めて見る者の怖さだ。
(あるいは、慣れない者もいる)
清洲でも最後まで慣れなかった者はいた。しかしここは全員が最初からだ。
しばらくかかるだろうと思った。あるいは、ここにいる間ずっとこのままかもしれない。どちらでも、俺にできることは変わらない。
軍議が開かれた。
俺はいつも通り端に陣取った。信長が前に座り、家臣たちが並ぶ。新しい顔も多い。
周辺の攻略について、話が進んでいった。
地形の話が出た。俺が口を開こうとした。しかし別の家臣が先に言った。忍びがすでに詳細を報告済みだという。俺が言おうとした内容と、ほぼ同じだった。
敵情の話が出た。また口を開こうとした。調略網で把握済みだという話が出た。俺が偵察で得るような情報が、別のルートで揃っていた。
作戦の話になった。熊五郎が割り込める隙を探した。しかし別の家臣が具体的な提案を出した。「それは織り込み済みだ」「別働で進めている」という言葉が続いた。
発言の機会が、消えていった。
俺は結局、一言も発さなかった。
軍議は問題なく終わった。
俺がいなくても、同じ結論に至っていたと思う。
(俺がいなくても回る)
それが今日、俺がこの軍議で得たものだった。
軍議の後、信長が短く声をかけてきた。
「熊五郎」
少し間があった。
「しばらくは待機だ。いざという時だけ動け」
念話ではなく、声で。短かった。
俺は頷いた。
以前は違った。「見てこい」「判断しろ」という使い方だった。俺が先行して、情報を持ち帰って、時に戦局の判断まで提示した。信長はそれを使った。
今は「そこにいろ」だ。
動くな、ではない。しかし自分から判断して動く場面は、以前より少なくなった。信長の軍には、偵察を担う忍びがいる。内通を扱う調略がある。奇襲を行う別働隊がある。それぞれの役割を担う者が揃ってきた。
俺に回ってくる役割は、抑止力だ。いるだけで相手が動きを止める。最後の手段として使われる力だ。あるいは力仕事。誰にもできない動きが必要な時だけ呼ばれる。
それが今の俺の位置だった。
夜、新しい蔵の中で横になった。
清洲の蔵より少し広い。床の補強もしっかりしている。清蔵が移転の際に手配してくれたらしかった。
俺は天井を見ながら、今日のことを整理した。
役割が変わった。
必要とされていないわけではない。信長が「待機だ」と言ったのは、捨てたのではなく、使いどころが変わったということだ。それはわかっている。
しかし以前とは違う。
清洲にいた頃、俺は唯一に近かった。偵察できる者、戦場の神経として動ける者、そういう役割を担えるのが俺だけだった。だから信長は「見てこい」と言った。
今は違う。同じことができる者が、別にいる。俺でなくてもいい場面が増えた。
(唯一ではなくなった)
それが今の正確な評価だ。
腹を立てる気にはなれなかった。当然の変化だ。信長が強くなるにつれて、周囲も強くなる。俺が変わらなければ、相対的に俺の位置は下がる。それだけのことだ。
しかし、俺にしかできないことは、まだあるはずだ。
今の俺には、それが何かが見えていない。しかし見えていないだけで、ないわけではない。
(探せばいい)
焦る話ではない。この世界に来た当初、俺には何もなかった。言葉も役割も居場所も。それでも少しずつ、形ができてきた。
今また、形が変わろうとしているだけだ。
次の形を、探せばいい。
岐阜の夜が、静かに更けていった。




