第十六話「登れぬ道と守られぬ場所」
夜になった。
長良川の上流、川岸に二人で立った。水の音が近い。流れが速い。月明かりに川面が光っている。
俺はルートを確認した。この川を下れば稲葉山の裏手に出る。山道を使うより時間が読める。見張りに見つかるリスクも低い。
念話を飛ばした。
『ここから下る』
犬千代が川を見た。流れの速さを確認している。一拍あった。
「……本気か」
俺はすでに入水していた。
冷たかった。しかし問題ない。流れに逆らわず、体の向きを調整しながら下る。水の中での体の使い方は、元の世界で遺跡の水没区画を潜った時に覚えた。
後ろで水音がした。犬千代が入ってきた。
流れが想定より速かった。
俺は問題なかった。体重があり、四本の足で流れに踏ん張れる。水を掴む爪もある。流れを読んで体を傾ければ、それなりに制御できた。
犬千代は違った。
念話越しに気配が届く。必死に泳いでいる。流れに引かれて体勢が崩れる。岩に掴まりながら進んでいる。
一度、流されかけた。
俺は下流で待って、流れてきた犬千代の襟首を前足で引っ掛けた。岩陰に引き込む。
犬千代が岩に掴まって、荒い息をついた。
しばらくして、また動き出した。文句は言わなかった。
川岸に上がった時、犬千代はずぶ濡れだった。体力を削られた顔をしていた。
俺は濡れていたが、それだけだ。
(人間は水に弱いな)
稲葉山の裏側に出た。
静かだった。
静かすぎた。
俺は耳を立てた。鼻を動かした。
見張りはいる。気配がある。しかしそれは全て、前の方向を向いていた。街道側、山の正面側、人が来る側、その方向だけに集中していた。
裏側には、ほとんど注意が向いていない。
理由はわかった。崖だ。
稲葉山の裏側は急斜面だった。人間が登れる傾斜ではない。見張りを置く必要がないと判断されている。「来られない」という前提が、この場所を守りから外していた。
(人が来れぬ場所は、守られていない)
俺は崖を見上げた。
前足で岩を掴んだ。
崖に取り付いた。
爪が岩を掴む。体重を分散させながら、足場を一つ一つ確かめて登る。急傾斜だが、四本足で体重をかければ安定する。途中で岩が崩れかけた場所を避けて、別のルートを選ぶ。
犬千代が後に続いた。
最初の数手は問題なかった。しかし傾斜がきつくなるにつれて、息が上がり始めた。足場を探して、手を伸ばして、体を引き上げる。岩が滑って、一瞬体が落ちかけた。
俺は上で待った。急かさなかった。
犬千代が追いついた。息が荒かった。手のひらに擦り傷ができていた。
それでも登ってきた。
そういう男だ、と俺は思った。
本丸の近くに出た時、俺は少し拍子抜けした。
(これで着くのか)
あっさりしていた。見張りの死角をいくつか抜けただけで、ここまで来られた。難攻不落と言われる城の本丸のすぐそばに、こうも簡単に立てるとは思っていなかった。
犬千代も同じ感想だったらしく、周囲を見回して何も言わなかった。言葉が出なかったのかもしれない。
岩陰に落ち着いて、犬千代が服を絞り始めた。
川で濡れたままだ。焚き火は使えない。風と体温で乾かすしかない。犬千代が上着を脱いで絞り、岩に広げた。
俺は自分の毛並みを振って水を飛ばした。
念話を飛ばした。
『人間は不便だな』
犬千代が睨んだ。
しかし何も言わなかった。服を絞る手を続けた。
それでいい。
少し落ち着いてから、本丸を観察した。
天守の規模、建物の配置、人の動き。見えるものを全部頭に入れた。
念話を飛ばした。
『守りの兵は多くて百だな。本丸だけなら、もっと少ない』
犬千代が小声で言った。「それだけか」
『山の上にいる分、外から補充できない。水も食料も、全部下から運ぶしかない構造だ。長く持たない』
犬千代が周囲を見回した。
俺は続けた。
『今ここに百いれば、落とせるな』
「どうやって百も連れてくる」
『静かに来れる奴ならな』
犬千代が少し考えた。「このルートを知っている者が必要か」
俺は頷いた。
警備についても伝えた。
『警備はある。ただし人が来る場所しか見ていない。裏の崖は死角だと思っている。俺たちが今ここにいるのが、その証拠だ』
犬千代が黙って聞いていた。
しばらくして口を開いた。「なら、斎藤竜興を斬れば終わりか」
俺は少し間を置いた。
『終わらん』
「なぜだ。当主が死ねば……」
『当主を斬るだけで国が手に入るなら、戦はいらん。首を取っても、家臣が残る。城が残る。土地が残る。それを全部抑えなければ、国にはならない』
犬千代が黙った。
反論しなかった。考えている顔だった。
俺は本丸をもう一度見た。
堅い城ではない。
信長に「堅い」と言われた時から、俺はそれを疑っていた。今夜ここに来て、それが確認できた。
麓は堅い。正面も堅い。
だが、本丸は守られていない。
攻め方を知られていないだけだ。
裏の崖が登れると知っている者がいれば、夜の川を下れる者がいれば、見張りの死角を読める者がいれば、この城は一夜で落ちるかもしれない。
(攻め方を知られていないだけだ)
その一文が、今夜俺が得た全てだった。
念話を飛ばした。
『十分だ。戻る』
犬千代が服を確認した。まだ湿っていたが、動ける程度には乾いていた。
「……わかった」
文句を言わなかった。
それが少し、意外だった。前の話ならここで「もう少し見たい」と言っていたかもしれない。しかし今夜は従った。
これ以上いれば発見のリスクが上がる。情報としては十分だ。その判断を、犬千代も理解したのかもしれない。
来たルートで戻った。
崖を下り、川岸に出た。今度は川を遡るのではなく、山道を使って迂回した。川下りは夜だから使えたルートだ。昼間に同じことをすれば見つかる。
山を抜けて、安全な距離まで来たところで俺は一度振り返った。
稲葉山の山影が、夜の空に黒く浮かんでいた。
(落とせる城だ)
(落とせない理由が、見当たらん)
信長はそれを知りたかった。俺はそれを確かめてきた。
答えは出た。
犬千代が隣に来て、同じ方向を見た。何も言わなかった。しかしその顔は、来る前とは少し違う顔をしていた。
何かを見た者の顔だ。
俺は前を向いて、歩き出した。




