表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
15/23

第十五話「抑える者と抑えられぬ者」

 清蔵から支度金を受け取って、俺たちは出発した。

 犬千代はやや不機嫌だった。前日から表情が固い。しかし従っている。従うしかないとわかっているからだ。

 俺は一切気を遣わなかった。

 城下を出る前に念話を飛ばした。

 『行くぞ、馬鹿犬』

 犬千代が足を止めた。振り返って、低い声で言った。

 「その呼び方をやめろ」

 『やめる理由がないな。これが今のお前の名だ』

 犬千代の顔に何かが走った。怒りと、それを抑える力が、同時に動いている顔だ。

 しかし何も言わなかった。歩き出した。

 それでいい。


 俺は街道を使わなかった。

 山の中を進む。最短距離で、障害があれば越えて、傾斜があれば登る。人間が作った道は使わない。人目も避けられるし、距離も縮まる。

 犬千代がついてくるのに少し苦労していた。

 俺の歩幅と犬千代の歩幅は違う。傾斜を俺が一歩で越える場所を、犬千代は三歩かけて登る。藪を俺がそのまま突っ切る場所で、犬千代は迂回路を探す。

 遅れるたびに俺は止まって待った。急かさなかった。ただ待った。

 しばらくして、犬千代が追いついた。息が少し上がっていた。

 俺の様子を見て、何か言った。念話は飛ばしていないが、声音から読めた。「お前の動き方は人間じゃない」という意味だと思う。

 『そうだ。俺は熊だ』

 犬千代が少し黙った。それから、また歩き出した。


 昼を過ぎた頃、俺はまた念話を飛ばした。

 『馬鹿犬、速度を上げろ』

 「その呼び方を……」

 『帰参、やめるか?』

 犬千代が止まった。

 一拍あった。

 「……続けろ」

 声に力がなかった。

 俺は歩き続けた。犬千代がついてくる。

 この呼び方をやめる気はなかった。やめる必要もない。馬鹿犬は馬鹿犬だ。それが変わらない限り、俺の評価は変わらない。変わったら、その時に考える。


 夕方に近づいた頃、二人の間で会話が途切れた。

 移動しながら、俺は犬千代の後ろ姿を見ていた。

 あいつには理由があるはずだ、と俺はずっと思っていた。犬千代が追放されたあの日から、その考えは変わっていない。無意味な行動はしない男だ。衝動的に見えて、戦場では的確だ。

 しかし自分からは言わないだろう。

 こういう男は、聞かれて答えるのではなく、言わざるを得なくなった時に答える。焦って聞いても意味がない。待つことだ。

 俺は黙って歩き続けた。


 山の中に入って、沢の音が聞こえる場所で少し足を止めた。

 水を飲んだ。犬千代も同じようにした。

 俺は何気なく念話を飛ばした。

 『で、何で斬った』

 犬千代が動きを止めた。

 水を飲む手が止まって、こちらを向いた。

 「関係ない」

 『関係ある。お前を使うかどうか、俺が判断する。理由が分からなければ判断できない』

 犬千代が立ち上がった。

 「言う必要はない」

 俺は少し間を置いた。

 『帰参、やめるか?』

 犬千代が黙った。

 水の音だけが聞こえた。

 しばらくして、犬千代が口を開いた。声が低かった。

 「……相手に問題があった」

 俺は何も言わなかった。続きを待った。

 「まつのものが、盗まれた。大事なものだ」犬千代の声に、感情が混じり始めた。しかしすぐに抑えた。「その場に、盗んだ者がいた。見過ごせなかった。殿の御前だとわかっていた。だが、その場でやるしかなかった」

 そこで止まった。

 それ以上は言わなかった。

 俺はその断片を頭の中で並べた。まつのもの。盗まれた。その場でやるしかなかった。

 感情で動いたのではない。筋で動いた。守るべきものがあって、その場にいた者がそれを侵した。だから斬った。

 (やはりそういうことか)

 俺は少しの間、黙った。


 それから念話を飛ばした。

 『理由はわかる』

 犬千代が俺を見た。

 『だがやり方が終わっている』

 「俺は……」

 『聞け』

 犬千代が黙った。

 俺は続けた。

 『我慢しろ』

 「まつのものを盗まれて……」

 『我慢しろ、と言った』

 犬千代が唇を噛んだ。

 『主の前でやるな。それだけだ』

 「だが相手は……」

 『場所を選べ。殺すなら、場所を選べ』

 犬千代が止まった。

 俺は続けた。声音を変えなかった。怒りでも同情でもなく、ただ言葉を並べた。

 『お前が正しいかどうかは関係ない。使えなくなれば終わりだ。どれだけ筋が通っていても、使えない者は切られる。それがこの世界の話だ』

 犬千代が何か言おうとした。しかし言葉が出なかった。

 『斬るなら、使われ続けたまま斬れ。

  そうすれば、お前は切られない。斬った相手だけが消える』

 長い沈黙があった。

 水の音が続いていた。

 犬千代が、ゆっくりと息を吐いた。

 怒らなかった。言い返さなかった。

 ただ、黙った。

 初めて見る顔だった。稽古場でも、稲生の原でも、俺は犬千代が黙ったところを見たことがなかった。この男はいつも前に向かって何かを言う。

 それが、今、止まっていた。


 その後は、二人とも黙って歩いた。

 敵対ではなかった。しかし話す気にもなれなかった。そういう沈黙だ。

 俺は内側で整理していた。

 犬千代には理由があった。完全には理解できない部分もある。まつのものが何だったのか、相手が何者だったのか、俺はまだ全部は知らない。

 しかし筋で動いたということは、わかった。

 感情だけで動く者とは違う。使い方次第では、制御できるかもしれない。

 まだ判断は出していない。

 犬千代は俺の言葉に言い返せなかった。納得したのかどうかはわからない。しかし否定もできなかった。

 それで十分だ。今は。


 日が傾いて、山の傾斜が緩くなってきた頃、木々の間から遠くに山影が見えた。

 長良川の上流にまで来ていた。川の音が遠くに聞こえる。

 俺は立ち止まって、その山影を見た。

 遠い。まだかなり距離がある。しかし形は見えた。山の上に何かがある。

 (あれが稲葉山か)

 信長が「堅い」と言った城だ。しかし俺は「堅くない」と言った。信長もそれを否定しなかった。

 しかし実際に見てみると……

 (妙な形だな)

 何が妙なのか、この距離ではまだわからない。輪郭しか見えない。しかし何かが引っかかった。その「何か」が何なのかは、近づいてみなければわからない。

 犬千代が隣に来て、同じ方向を見た。

 何も言わなかった。


 夜営の場所を決めた。

 沢の近く、岩陰に風が当たらない場所だ。火は使わない。

 俺は地面に横になった。犬千代が少し離れた場所に腰を下ろした。

 念話を飛ばした。

 『明日、近づく』

 犬千代が何も言わなかった。

 しかし頷いた。

 それだけだった。

 夜の山が静かだった。遠くで川が流れる音がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ