第十五話「抑える者と抑えられぬ者」
清蔵から支度金を受け取って、俺たちは出発した。
犬千代はやや不機嫌だった。前日から表情が固い。しかし従っている。従うしかないとわかっているからだ。
俺は一切気を遣わなかった。
城下を出る前に念話を飛ばした。
『行くぞ、馬鹿犬』
犬千代が足を止めた。振り返って、低い声で言った。
「その呼び方をやめろ」
『やめる理由がないな。これが今のお前の名だ』
犬千代の顔に何かが走った。怒りと、それを抑える力が、同時に動いている顔だ。
しかし何も言わなかった。歩き出した。
それでいい。
俺は街道を使わなかった。
山の中を進む。最短距離で、障害があれば越えて、傾斜があれば登る。人間が作った道は使わない。人目も避けられるし、距離も縮まる。
犬千代がついてくるのに少し苦労していた。
俺の歩幅と犬千代の歩幅は違う。傾斜を俺が一歩で越える場所を、犬千代は三歩かけて登る。藪を俺がそのまま突っ切る場所で、犬千代は迂回路を探す。
遅れるたびに俺は止まって待った。急かさなかった。ただ待った。
しばらくして、犬千代が追いついた。息が少し上がっていた。
俺の様子を見て、何か言った。念話は飛ばしていないが、声音から読めた。「お前の動き方は人間じゃない」という意味だと思う。
『そうだ。俺は熊だ』
犬千代が少し黙った。それから、また歩き出した。
昼を過ぎた頃、俺はまた念話を飛ばした。
『馬鹿犬、速度を上げろ』
「その呼び方を……」
『帰参、やめるか?』
犬千代が止まった。
一拍あった。
「……続けろ」
声に力がなかった。
俺は歩き続けた。犬千代がついてくる。
この呼び方をやめる気はなかった。やめる必要もない。馬鹿犬は馬鹿犬だ。それが変わらない限り、俺の評価は変わらない。変わったら、その時に考える。
夕方に近づいた頃、二人の間で会話が途切れた。
移動しながら、俺は犬千代の後ろ姿を見ていた。
あいつには理由があるはずだ、と俺はずっと思っていた。犬千代が追放されたあの日から、その考えは変わっていない。無意味な行動はしない男だ。衝動的に見えて、戦場では的確だ。
しかし自分からは言わないだろう。
こういう男は、聞かれて答えるのではなく、言わざるを得なくなった時に答える。焦って聞いても意味がない。待つことだ。
俺は黙って歩き続けた。
山の中に入って、沢の音が聞こえる場所で少し足を止めた。
水を飲んだ。犬千代も同じようにした。
俺は何気なく念話を飛ばした。
『で、何で斬った』
犬千代が動きを止めた。
水を飲む手が止まって、こちらを向いた。
「関係ない」
『関係ある。お前を使うかどうか、俺が判断する。理由が分からなければ判断できない』
犬千代が立ち上がった。
「言う必要はない」
俺は少し間を置いた。
『帰参、やめるか?』
犬千代が黙った。
水の音だけが聞こえた。
しばらくして、犬千代が口を開いた。声が低かった。
「……相手に問題があった」
俺は何も言わなかった。続きを待った。
「まつのものが、盗まれた。大事なものだ」犬千代の声に、感情が混じり始めた。しかしすぐに抑えた。「その場に、盗んだ者がいた。見過ごせなかった。殿の御前だとわかっていた。だが、その場でやるしかなかった」
そこで止まった。
それ以上は言わなかった。
俺はその断片を頭の中で並べた。まつのもの。盗まれた。その場でやるしかなかった。
感情で動いたのではない。筋で動いた。守るべきものがあって、その場にいた者がそれを侵した。だから斬った。
(やはりそういうことか)
俺は少しの間、黙った。
それから念話を飛ばした。
『理由はわかる』
犬千代が俺を見た。
『だがやり方が終わっている』
「俺は……」
『聞け』
犬千代が黙った。
俺は続けた。
『我慢しろ』
「まつのものを盗まれて……」
『我慢しろ、と言った』
犬千代が唇を噛んだ。
『主の前でやるな。それだけだ』
「だが相手は……」
『場所を選べ。殺すなら、場所を選べ』
犬千代が止まった。
俺は続けた。声音を変えなかった。怒りでも同情でもなく、ただ言葉を並べた。
『お前が正しいかどうかは関係ない。使えなくなれば終わりだ。どれだけ筋が通っていても、使えない者は切られる。それがこの世界の話だ』
犬千代が何か言おうとした。しかし言葉が出なかった。
『斬るなら、使われ続けたまま斬れ。
そうすれば、お前は切られない。斬った相手だけが消える』
長い沈黙があった。
水の音が続いていた。
犬千代が、ゆっくりと息を吐いた。
怒らなかった。言い返さなかった。
ただ、黙った。
初めて見る顔だった。稽古場でも、稲生の原でも、俺は犬千代が黙ったところを見たことがなかった。この男はいつも前に向かって何かを言う。
それが、今、止まっていた。
その後は、二人とも黙って歩いた。
敵対ではなかった。しかし話す気にもなれなかった。そういう沈黙だ。
俺は内側で整理していた。
犬千代には理由があった。完全には理解できない部分もある。まつのものが何だったのか、相手が何者だったのか、俺はまだ全部は知らない。
しかし筋で動いたということは、わかった。
感情だけで動く者とは違う。使い方次第では、制御できるかもしれない。
まだ判断は出していない。
犬千代は俺の言葉に言い返せなかった。納得したのかどうかはわからない。しかし否定もできなかった。
それで十分だ。今は。
日が傾いて、山の傾斜が緩くなってきた頃、木々の間から遠くに山影が見えた。
長良川の上流にまで来ていた。川の音が遠くに聞こえる。
俺は立ち止まって、その山影を見た。
遠い。まだかなり距離がある。しかし形は見えた。山の上に何かがある。
(あれが稲葉山か)
信長が「堅い」と言った城だ。しかし俺は「堅くない」と言った。信長もそれを否定しなかった。
しかし実際に見てみると……
(妙な形だな)
何が妙なのか、この距離ではまだわからない。輪郭しか見えない。しかし何かが引っかかった。その「何か」が何なのかは、近づいてみなければわからない。
犬千代が隣に来て、同じ方向を見た。
何も言わなかった。
夜営の場所を決めた。
沢の近く、岩陰に風が当たらない場所だ。火は使わない。
俺は地面に横になった。犬千代が少し離れた場所に腰を下ろした。
念話を飛ばした。
『明日、近づく』
犬千代が何も言わなかった。
しかし頷いた。
それだけだった。
夜の山が静かだった。遠くで川が流れる音がした。




