第十四話「切られた者と使う者」
桶狭間の勝利から、しばらく経った。
城の空気は落ち着いていた。今川という脅威が消えて、尾張の地盤が一気に固まった。測る目をしていた者たちも、今は前を向いている。
そういう中で、犬千代の帰参願いの話が出た。
犬千代が信長に謁見を求め、許されなかったと聞いた。
俺の最初の反応は単純だった。
(当然だ)
線を越えた者は、簡単には戻れない。それはどの世界でも同じことだ。信長の判断は正しい。
しかし同時に、別のことも思った。
犬千代が追放された時から引きずっている違和感が、まだそこにあった。犬千代が主の御前で刃を振るった理由。俺にはまだ見えていない。
美濃の話題が出始めたのは、その頃だった。
家臣たちの会話に「美濃」という言葉が増えた。次はどこへ向かうのか、信長が止まらないことは、城の誰もが知っていた。
ある日の夕方、信長が俺を呼んだ。
軍議ではなかった。広間でも稽古場でもない、廊下に面した静かな一室だ。信長が庭を見ながら座っていた。
俺はその前に陣取った。
信長が口を開いた。
「美濃には、稲葉山という城がある」
念話ではなく、声で言った。
「あれは堅い。攻め落とすのは容易ではない」
俺は黙って続きを待った。
「本丸が山の上にある」
俺はその言葉を聞いて、少し考えた。
(不便だな)
思ったことをそのまま念話にした。
『本丸が離れている城は、堅いのか』
信長が少し間を置いた。
「意味がない」
俺は少し驚いた。堅いと言った直後に意味がないと言った。
信長が続けた。
「城は主を守るためのものだ。本丸が落ちれば終わりだ。本丸が山の上にあり、主がそこにいるなら麓が崩れた時に、守りに行けるか?」
俺はその言葉を頭の中で組み立てた。
山の上の本丸。麓に広がる城下。麓が崩れれば、山の上の主は孤立する。援軍を出すにも距離がある。守りに動くには時間がかかる。
『ならば、稲葉山は堅くない』
言い切った。
信長が少し黙った。否定しなかった。
それからこちらを向いた。
「ならば、見てこい」
俺はすぐには答えなかった。
一拍、考えた。
一人でもできる。稲葉山城の周辺を偵察して、信長に報告する。それは俺一人で十分だ。
しかし、それでは意味がない。
偵察だけなら一人でいい。しかし城の構造を本当に理解するには、内側に入る必要がある場面が出てくるかもしれない。複数の方向から同時に見る必要が出るかもしれない。あるいは……
もう一つの理由が、頭の中にあった。
念話を飛ばした。
『一人では足りぬ。もう一人使う』
信長が俺を見た。「誰だ」
『犬千代だ』
場の空気が少し変わった。信長の目が細くなった。
「あれは切った」
『使える』
俺は続けた。
『速く、強い。ただし、馬鹿だ』
信長の口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。
『速さが要る。潜るだけなら俺一人でいい。だが中に踏み込むなら、あれくらい前に出る駒が要る』
信長がしばらく俺を見ていた。
「成功したら、考えてやる」
「許す」とは言わなかった。しかし「考える」とは言った。
それで十分だった。
『それでいい』
清蔵に犬千代の居場所を聞いた。
清蔵はすでに把握していた。この男が把握していないことは、城に関係することでは滅多にない。
「城下の藤吉郎殿の近くに間借りしておられます」
藤吉郎。信長の家臣の一人だ。面倒見のいい男で、行き場を失った者の面倒をよく見ると聞いていた。犬千代がそこに身を寄せているというのは、なるほどと思った。
「ご案内しましょう」と清蔵が言った。
俺が城下を一頭で歩けば騒ぎになる。清蔵がいれば「殿の使いだ」と一言で収められる。清蔵はそれをわかった上で申し出ていた。
(気が利く男だ)
俺は頷いた。
翌日、清蔵と共に城下に出た。
清蔵が先を歩き、俺がその後に続く。道を行く人間が俺を見て固まる。清蔵が「殿のお使いだ」と一言言うと、道が開く。それを繰り返しながら、城下の一角に着いた。
小さな家だった。質素だが、荒れていない。誰かが手を入れている。
清蔵が戸を叩いた。
しばらくして、扉が開いた。
犬千代だった。
清蔵を見て、次に俺を見た。目が細くなった。驚きではなく、警戒だ。何者かを確認して、それが俺だとわかった時の顔だった。
清蔵が用件を告げた。中に入れてもらえるよう頼んだ。
犬千代が少し間を置いてから、扉を大きく開けた。
中に入ると、奥から声がした。
「どなたですか」
若い女が顔を出した。まだ幼さが残る顔だちだが、目に芯がある。俺を見て驚いた顔をした。しかし逃げなかった。
犬千代が何か言った。女が頷いて、清蔵に向かって丁寧に頭を下げた。
「まつと申します。犬千代の妻でございます」
それから俺にも頭を下げた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
俺は軽く頷いた。
まつが「お茶をお持ちします」と言って奥に引っ込んだ。
清蔵が用向きを話し始めた。
犬千代が黙って聞いていた。表情が変わらない。しかし目の奥で何かが動いているのはわかった。
清蔵が話し終えて、俺に視線を向けた。
俺は犬千代に念話を飛ばした。
『馬鹿犬』
犬千代の目が変わった。念話が届いた証拠だ。
「……何だと?」
声に出した。
『馬鹿犬だろ。殿の前で人を斬るなど、犬でもやらん』
犬千代の手が刀の柄に伸びた。
俺は続けた。
『抜くのか』
犬千代の手が止まった。
『帰れるかもしれん話を持ってきた。それを聞く前に抜くのか』
ぎりぎりのところで、手が柄から離れた。
そこへ奥からまつが戻ってきた。茶を持って来て、場の空気を一瞬で読んだ。
「ここで刃を抜けば、本当に終わります」
静かだが、はっきりした声だった。
「熊五郎様にお任せください」
犬千代がまつを見た。それから俺を見た。
完全には納得していない顔だったが、手は離れたままだった。
清蔵が席を外した。気を利かせたのだろう。
俺と犬千代が向き合った。まつは少し離れた場所に座ったまま、静かにしていた。
俺は念話を続けた。
『条件は一つだ。俺の指示に従え。勝手に動くな』
犬千代が黙っている。
『今回の任務で成果を出せば、信長様に報告する。帰参を考えてもらえるかもしれない。ただし……』
俺は少し間を置いた。
『報告は俺がする。なら評価も俺が決める』
「俺の評価をお前が決めるのか」と犬千代が言った。不満が声に出ていた。
『そうだ』
「……」
犬千代が黙った。
俺は続けた。
『それが嫌なら断れ。ただし、断るなら俺はまつ殿に話す。お前ではなく、まつ殿に判断してもらう』
犬千代の顔が変わった。
まつが小さく「犬千代」と呼んだ。
犬千代がまつを見た。まつは何も言わなかった。ただ、まっすぐ犬千代を見ていた。
しばらくして、犬千代が息を吐いた。
「……やる」
声に出した。不満は残っていたが、拒否ではなかった。
支度は翌日だった。
清蔵が用意した支度金を受け取って、二人分の準備を整えた。清蔵の手際はいつも通りだった。余分な言葉がなく、必要なものだけが揃った。
出発の前、俺は蔵の中で少し考えた。
犬千代は速い。強い。稲生の原でも、あの突破力は本物だ。
しかし制御できなければ意味がない。
(速くて強い)
(だが制御できなければ意味がない)
(あいつが何故斬ったのか)
(それを見極める)
犬千代が追放された時からずっと引きずっている問いが、まだそこにあった。今回の任務でそれが見えるかもしれない。見えないかもしれない。
しかし一緒に動けば、何かがわかるはずだ。
二人での戦は、これが初めてだった。




