第十一話「崩れを読む者と押し切る者」
遠かった火種が、ついに目の前に来た。
信行が挙兵した。尾張が二つに割れた。以前、俺が感じた「距離という壁」は、今日この場所にはない。火種は移動した。遠くで燃えていたものが、今は俺の鼻先にある。
今回は、見るだけでは終わらない。
信長が出陣を決めた朝、俺は蔵の前でそう思っていた。
稲生の原に出る前、俺は先行した。
いつもの役割だ。疾走は使わない。気配を殺して、敵陣の外縁をゆっくりと回る。
信行軍は多かった。
数だけ見れば、信長軍の倍近い。家臣の多くが信行側についている。柴田勝家もいる。林秀貞もいる。この城で何度も見た顔が、向こう側に並んでいる。
数は多い。しかし…
俺は目を細めた。
部隊と部隊の間の距離が、微妙にズレていた。隣の部隊が何をしているかを、それぞれが把握していない。指示が来るたびに、動くまでの間がある。その間が、部隊によってバラバラだ。
一部の部隊に至っては、足が重かった。前に出る気配が薄い。命令を待っている、というより、何かを待っている。様子を見ている。
(まとまりきっていない)
数は多い。しかし一枚の板ではない。継ぎ目だらけの板だ。力を込めれば割れる可能性がある。どこで力を込めるかは、まだわからないが。
信長の元に戻った。本陣の周囲は静かだった。家臣たちが俺の出入りを当然のように受け流す。数年前とは隔世の感がある。
信長に念話を飛ばした。
『数は多い。だが一枚ではない。部隊の間に隙間がある。動きの鈍い部隊がいる』
信長が静かに頷いた。
「十分だ」
それだけ言って、前を向いた。
戦が始まった。
信長軍が動いた。数で劣る側が、それでも前に出る。
犬千代が最前線にいた。当然のように。疑いなく。一番先頭で、まっすぐ敵陣に向かっていく。
見ていると、犬千代の突入が一点を破った。敵の前列が乱れる。その乱れに続く者が出て、局所的に敵が後退した。
しかし数の差は覆らない。
しばらくして、戦線が押し返され始めた。信長軍の側が乱れ始める。一部の兵が後退する。その後退が隣に伝わる。連鎖が始まった。
俺は全体を見渡せる場所に移動した。
(崩れているのはこちらだ)
信長の本陣に迫る圧力があった。柴田勝家の部隊が押している。家臣の何人かが動揺している顔をしていた。一部が後退を始めようとしていた。
包囲されかける空気があった。
その時、信長の声が飛んだ。
声の大きさではなかった。方向だった。前を向いた声だった。退く方向ではなく、踏み止まる方向の声だ。
後退しかけた兵たちが止まった。
振り返った兵たちの顔が変わった。信長はそこにいた。馬上で、前を向いて、動いていなかった。
それだけで、崩れかけた空気が固まった。
犬千代が最前線で踏み止まっていた。押し返されながら、後退しなかった。一歩も引かなかった。その一点が、敵の前進を止めていた。
(あいつは本当に、前しか見ていないな)
俺はそれを確認してから、全体に意識を戻した。
混戦の中、俺は動き続けた。
本陣と外縁を往復しながら、全体の形を頭の中で作り続けた。どこが押している、どこが押されている、どこが止まっている。その地図を、絶えず更新し続けた。
そして気づいた。
敵の左翼だ。
さっきまで動いていた部隊が、動きを止めている。隣の部隊からの指示を待っているようだが、その指示が来ていない。連携が崩れ始めている。
左翼の端の部隊が、わずかに後ろを向いた。前ではなく、後ろを。
(迷っている)
しかし俺は即座に確信を持てなかった。
これが本当の崩れなのか、一時的な乱れなのか。誤れば信長が全軍を左翼に向けて、正面が手薄になる。正面が崩れれば本陣が終わる。
しかし…
もう一度見た。
左翼の端の部隊が、また後ろを向いた。今度はその隣の部隊も、わずかに足を止めた。連鎖している。命令が届いていないのではなく、命令に従う気が薄れている。
あれは「迷っている部隊」だ。
戦が始まる前に俺が見た、「様子を見ている」動きと同じだ。あの部隊は最初から、本気で戦う気がなかった。そしてそれが今、表に出てきた。
俺は信長の元に戻った。
念話を飛ばした。
『左が乱れている。命令が通っていない。端から崩れ始めている』
信長が即座に振り向いた。
『今なら割れる』
信長が左翼の方向を見た。一瞬だった。
「押せ」
短かった。それだけだった。
信長軍が左翼に向かった。
崩れかけていた部隊に圧力が加わった瞬間、その部隊が後退した。後退が隣に伝わった。連鎖した。
一点が崩れると、繋ぎ止めていたものが一気に切れた。
左翼が瓦解した。その崩れが中央に波及した。中央が乱れると、右翼が孤立した。
最初から脆かった構造が、一つの亀裂から一気に割れた。
信行軍が敗走し始めた。
戦が終わった。
稲生の原に、静けさが戻ってきた。遠くで散発的な音がしていたが、それも次第に消えた。
信長が俺の方を向いた。
「見えていたな」と言った。
念話ではなく、声で。
「崩れはお前が見つけた」
それだけだった。大げさな賞賛はなかった。しかしその言葉に、過不足がなかった。
俺は頷いた。
返す言葉はなかった。戦が終わった後の静けさの中で、言葉を足す必要を感じなかった。
犬千代が来たのは、それからしばらく後だった。
体のあちこちに傷があった。しかし顔は、むしろ晴れやかだった。前の戦とは違う顔だ。何かを出し切った者の顔だ。
犬千代が俺を見て、言った。
「次は先に斬る」
まだそれを言っているのか、と俺は思った。しかし今回は、少し聞こえ方が違った。
悔しいのではない。確認だ。次の戦での自分の動き方を、すでに考えている。前だけを向いている。
俺は犬千代の顔を見ながら、頭の中で言葉を整理した。
こいつは前を見る。
俺は全体を見る。
どちらが上でも下でもない。前を見る者がいるから、全体を見る意味がある。全体を見る者がいるから、前を見る者が力を発揮できる。
今日の戦で、それが形になった。
蔵に戻った夜、俺は今日のことを振り返った。
この世界に来た最初の頃、俺は走ることしかできなかった。
やがて見ることができるようになった。敵の気配を察知して、信長に伝えた。
それでも足りない場面があった。
今日、俺は初めて「判断を提示した」。左翼が崩れている、今なら割れる。それは情報の報告ではなく、戦局への読みだった。信長がそれを使って勝った。
走るだけでは足りなかった。
見るだけでも足りなかった。
繋げて、決める必要があった。
全部をやって初めて、俺はこの戦に関わることができた。
元の世界で、俺は「凡庸」と言われ続けた。突出した才能がない。飛び抜けた力がない。親父の英雄譚にも、兄貴たちの武勇にも、俺の名は出てこなかった。
しかしここでは…
俺が見た崩れが、今日の戦を動かした。
それで十分だ、と俺は思った。
見知らぬ世界の、静かな夜だった。




