第十二話「斬られたものと残った違和感」
信行は一度、許された。
稲生の戦いの後、信長は弟を生かした。俺にはその判断の意味が完全にはわからなかったが、信長なりの理由があったのだろうと思っていた。
しかしその後、信行は再び動こうとした。
今度は許されなかった。密かに処断された。
俺の認識は単純だった。
『当然だ。二度目はない』
感情は乗せなかった。これは「処理」だ。信長がそう判断した。それだけのことだ。
信行の処断の後、城の空気がまた変わった。
以前からあった「二つの流れ」が、ほぼ消えた。測る目をしていた者たちが、いなくなった。去ったか、あるいは測ることをやめたか。
残ったのは、張り詰めた一体感だった。
迷いのない空気だ。全員が同じ方向を向いている。それは確かに、以前より強い城だった。
切ることで、揃うものもある。
俺はそう思いながら、城内を歩いた。
その日、犬千代の姿が見えなかった。
稽古場に行った。いない。蔵の周辺を歩いた。気配がない。城内をひと回りした。どこにもいない。
前触れがなかった。
犬千代が稽古を休む時は、必ず何かある。信長の命令で出ている時か、負傷している時か。どちらでもない場合は、あいつは必ずそこにいる。
しかし今日はいない。
(あいつが、無断で消えるか?)
俺は周囲の家臣たちを見た。誰も口にしていない。しかし知っている空気があった。何かを知っていて、言葉にしないでいる、そういう沈黙だ。
いつものように断片を拾い始めた。
廊下で、二人の家臣が声を潜めて話していた。
「やりすぎた」
「殿の御前で……」
声が落ちた。聞き取れなくなった。
別の場所で、使用人が話しているのが聞こえた。
「さすがに庇えぬ」
それだけだった。
さらに歩いていると、別の断片が飛び込んできた。
「笄」という言葉と、「斬った」という言葉が、同じ会話の中にあった。
断片だけでは形が見えない。しかし何かが起きたことは確かだった。犬千代の不在と、この断片が繋がっている気がした。
清蔵に聞いた。
念話を飛ばすと、清蔵は少しの間黙ってから答えた。
「犬千代殿が、ある御方を斬殺しました」清蔵の声は淡々としていた。「その結果、追放処分となりました」
それ以上は言わなかった。
俺も、それ以上は聞かなかった。清蔵が言わないということは、言えない部分があるのだろう。
俺は清蔵の言葉を頭の中で繰り返した。
斬殺した。追放された。
最初の結論は早かった。
『理由がどうであれ、主の御前で刃を振るうのは論外だ』
それは俺の世界でも同じだ。どんな理由があっても、どんな正義があっても、場と相手を選ばない刃は制御不能の証拠だ。
『制御不能と判断されても仕方ない』
『あいつは線を越えた』
追放は妥当だ。信長の判断は正しい。
そこまでは、すんなりと出た結論だった。
しかし…
俺はそこで止まった。
何かが引っかかっていた。
犬千代のことを、俺はこの数年で見てきた。稽古場で初めて斬りかかってきた日から、稲生の原で前だけを見て突っ込んでいった日まで。あの男は確かに衝動的だ。前しか見ていない。止まることが苦手だ。
しかし…
戦場での犬千代は、無駄なリスクを取らない。
信長の命令を、最終的には必ず守る。突っ込みすぎると言われれば、次の戦では少しだけ修正してくる。完全ではないが、学ぶ。
「無意味な行動」はしない男だ。
(それが、主の御前で刃を振るったのか)
釣り合いが悪い。
何かのために、あいつは線を越えた。衝動だけで越えたとは、どうしても思えない。
しかしその「何か」が、俺には見えていない。
信長はこの件について何も語らなかった。
俺が本陣に出入りしても、普段通りだった。怒っていなかった。迷ってもいなかった。ただ「切った」判断が、すでにそこにあった。
俺は信長の顔を観察した。
感情ではない、と俺は思った。
これは秩序の問題だ。城の中の秩序、主従の秩序、それを犬千代が破った。信長はそれに対して処理をした。それだけだ。感情で動いた判断ではない。
それは理解できた。
理解できるが…
頭の中で犬千代を整理した。
速い。疾走する俺についてこようとするくらい、人間の中では飛び抜けて速い。有用だ。
強い。稲生の原で、数で勝る敵の前線を一人で止めた。戦力だ。
しかし、制御不能だ。
使えるが、扱えない。だから切られた。
それが今の評価だ。正確な評価だ。
俺は頭の中で、あの男に一言つけた。
『馬鹿犬だな』
軽口ではなかった。これは分類だ。速くて強くて、しかし扱えない。そういう存在への、俺なりのラベルだ。
夜、蔵の中で横になりながら、俺は考え続けた。
処分は正しい。
判断も理解できる。
しかし…
『あいつが、理由もなくやるか?』
それだけが、頭の中に残っていた。
結論は出ている。追放は妥当だ。信長の判断は正しい。犬千代は線を越えた。
しかし何かが足りない。
見えていない部分がある。
あの男が線を越えた理由が、俺にはまだ見えていない。それが何かは、わからない。
わからないまま、夜が更けていった。




