第9話 受付番号
昨夜、沈黙したはずのポータブル音響計測器は、
バラバラに解体されてデスクに並んでいた。
三上は精密ドライバーを置き、ルーペ越しに緑色の電子基板を睨みつける。コンデンサの破裂も、半田の浮きもない。電気的な過負荷の痕跡はどこにも見当たらなかった。基板も回路も、完全に「正常」だった。
ただ、液晶パネルだけがおかしかった。
電源を完全に遮断し、バッテリーを抜いているにもかかわらず、灰色の画面の底に『1988』と『ソウダンウケツ』の黒い文字が、まるでガラスそのものに変質したかのように焼き付いている。
三上はデスクの固定電話を掴み、計測器メーカーのサポート窓口へダイヤルした。技術担当者に現状を伝えると、しばらくの保留音の後、怪訝そうな声が返ってきた。
「……いえ、先生。当社のそのモデルのファームウェアには、日本語のカタカナフォントを表示するアセット自体が実装されていません。エラーコードとしても、西暦を表示するような仕様は存在しないはずですが」
受話器を置いた三上の額に、
じっとりとした汗がにじんだ。
バグという科学的な逃げ道が、また一つ消えた。
そこへ、研究室のドアが控えめにノックされ、藤堂玲奈が入ってきた。その目元には明らかな寝不足の隈が浮いている。
「三上さん……計測器、やっぱり駄目ですか」
「ハードウェアとしては正常です。だが、画面だけが論理的な説明を拒絶している」
三上はノートを閉じ、玲奈を見た。
「昨夜の文字──『1988』を調べてみましょう。日付までは特定できませんでした。まずは1988年、昭和六十三年にこの町で何が起きたのか、網羅的に洗う必要があります」
二人は役割を分担し、情報の海へ飛び込んだ。
玲奈は新聞社の社内データベースを、三上は大学図書館のリファレンスと市史の編纂資料をあたる。
一時間、二時間。時間が砂のように流れていくが、何も引っかからない。
1988年の地方紙をいくら捲っても、目立つ事件といえば、駅前の再開発計画や、当時の小規模な工場誘致のニュースばかりだ。不審死も、たらい回しにされたような奇妙な自殺の記録も、そこには存在しなかった。
「おかしいですね……」
研究室に戻った玲奈が、大量の資料の束を抱えたまま、力なく首を振った。
「1988年の記録は、どこをどう探しても完璧に残っています。切り取られたり、隠されたりしているような形跡は、どこにも見当たりません。ただ……」
玲奈はバッグから、一枚の古ぼけたモノクロ写真のプリントを取り出した。
「これ、新聞社の地下資料庫で見つけた、破棄寸前の古いネガから現像したものなんです。日付は昭和六十三年の秋。行政資料の棚を記録として撮影したカットらしいんですが……一冊だけ、妙なファイルが写り込んでいるんです」
机に広げられた写真には、埃を被った書棚の片隅に置かれた、一冊の分厚いバインダーが写っていた。表紙には掠れた文字で『相談受付簿』と厳格に印字されている。
しかし、そのページが開かれた状態を写したカットを見て、三上は目を細めた。
「ページが……真っ白ですね。撮影時のミスで光でも入り込んだのか」
「私もそう思ったんです。でも、よく見るとバインダーの影や、紙の質感ははっきりと写っている。これ、感光じゃないんです。文字だけが無いんです」
「……相談受付簿、か」
三上は写真の表紙の文字を凝視した。
昨日、玲奈が持ってきた過去の事例。学校、病院、市役所。すべてに共通していたのは「相談」という行為。
環境は違えど、新名修平へと至るプロセスの根底にあるものだ。
環境が変わっても、あの液晶に表示された『ソウダンウケツ』の文字と、このファイルは地続きになっている。
「そうか……1988年という『年』の事件を探すのが間違っていたんだ。僕たちが探すべきだったのは、新聞記事のような公にされた情報じゃない。昭和六十三年に、組織の内部にだけ存在した、この『相談受付簿』のほうだ」
三上はすぐに写真を複合機にセットし、高解像度でスキャンした。
ディスプレイに表示された白黒の画像を画像解析ソフトを立ち上げ、コントラストを限界まで上げ、赤外線補正、ガンマ値の調整、エッジの強調を試みる。
何も出ない。
画面の中の中身は、ただ不自然に白いままだった。
「……視覚的な補正では駄目か」
三上は自分の顎に手を当て、思考を巡らせる。
バインダーの黒い質感は写っているのに、インクの跡だけがデジタルデータとして検出されない。そんな光学的な矛盾があり得るか。
いや、光学的なアプローチが通用しないなら──。
三上は、別のPCから昨夜の解析データを呼び出し、研究室の大型スピーカーの電源を入れた。
「三上さん? 何を……」
「馬鹿げていますが、仮説の一つです」
三上はボリュームノブに手をかけた。
「もしこの『白紙』の正体が、肉眼やカメラのレンズを欺く何らかの物理的遮蔽だとしたら……特定の音波による空気の微振動が、紙面の残留インクの光学的特性を変化させる可能性がある。周波数を同調させる」
昨夜と同じ18.3Hzが、静かに研究室を満たした。
しかし、ディスプレイの中の白紙は、依然として真っ白なまま変化しない。
「……駄目、ですね」
玲奈が落胆の声を漏らす。
三上は無言でマウスを握り直した。
「……いや、僅かな誤差があるはずです。アナログの記録媒体ですから、完全な18.3Hzに同調しているとは限らない」
周波数のスライダーを細かく動かす。
『18.312Hz』……変化なし。
『18.295Hz』……何も起きない。
『18.303Hz』……。
モニターを睨みつけ、小数点以下の数値をコンマ数ミリずつずらしていく。
『18.299Hz』
『18.301Hz』
『18.300Hz』
その瞬間、パッ、と画面の中のページが激しく明滅した。
ただの白紙だったページの底から、じわり、と黒い影が染み出してきたのだ。
「浮いてきた……!」
玲奈が息を呑む。
ノイズの混ざった古いドットのような文字が、鮮明に像を結んでいく。
そこには、公的な行政フォーマットの枠線とともに、こう記されていた。
『相談受付番号:1988ー10217』
「……番号?」
玲奈が画面に顔を近づける。
「日付、でしょうか。十月二十一日?」
「いや、ハイフンの位置がおかしい。これは日付ではなく、ただの連番……シリアルナンバーだと思います」
さらにその下、相談内容や相談者の氏名が書かれているはずの欄に目を向けるが、そこは強烈なデジタルノイズのようなモザイクがかかっており、どれほど補正をかけても一切読み取ることができなかった。
ただ、ページの最下部。
『受付担当』と書かれた枠の中にだけは、たった一行、奇妙な文字が残されていた。
──受付済
それだけだった。
その後の「対応」「回付」「処置」といった、行政文書に必ず存在するはずの続報の欄は、すべて空白のまま放置されている。
「……受付だけされている」
三上は呟いた。
「対応欄が……全部空白、ですね」
玲奈が怪訝そうに眉をひそめる。
「担当者の印鑑も、その後の処理の記録も、何一つ書かれていない」
「……こんな台帳は見たことがない。これでは、ただ受け付けたという事実を残しただけで、組織の誰も動いていないことになる」
二人はそれ以上、言葉を続けることができなかった。
『相談受付』。
その文字が持つ、じわじわとした不気味さが、冷気のように研究室に広がっていく。
「一度、音を止めよう」
三上はスピーカーのボリュームノブを回し、発振を停止させた。
部屋を満たしていた不穏な空気の震えが、ピタリと収まる。
同時に、ディスプレイの中に浮かび上がっていた『相談受付簿』の文字は、まるで潮が引くように、再び純白の白紙へと戻っていった。
視覚的な情報は、すべて消え去ったが、写真の右下、あの受付番号が表示されていた場所だけが、何故か白く戻らない。
『1988ー10217』
その数字だけが、音を止めたはずの画面に、いまだに黒々と居座っている。
「三上さん、消えません……あの数字だけ」
玲奈が声を震わせた、
その瞬間。
チッ、と、スピーカーから小さなポップノイズが弾けた。
画面の底で、末尾の『7』という数字が、滑らかに、蠢くように書き換わった。
『1988ー10218』
さらに、その数字の真下では、ドット状の小さなフォントが、じわり、と浮かび上がった。
──ウケツケチュウ
「……増えた」
玲奈の顔から血の気が引いていく。
「三上さん、これって……昨日までは、確かに10217だったんですよね」
「そうですね。僕のノートにもそう記録してあります」
「じゃあ、この10218は……」
不意に、画面の『──ウケツケチュウ』の文字が明滅した。
無機質な機械音を伴って、その文字が別の単語へと切り替わる。
──ショリマチ
「処理待ち……?」
直後だった。
ジリリリリリリリリリッ!!!
静まり返った研究室に、固定電話のベルが狂ったように鳴り響いた。
あまりの音量に、玲奈が短く悲鳴を上げて飛び退く。
三上は、心臓の鼓動が跳ね上がるのを自覚しながら、震える手で受話器を掴み、耳に当てた。
「……もしもし、三上です」
『あ、三上さん!? 藤堂さんそっちにいますか!?』
受話器の向こうから聞こえたのは、玲奈の同僚である新聞記者の、理性を失った絶叫だった。
『今、警察から連絡が入って……! さっき、市内の私立高校で女子生徒が飛び降りました!』
三上の表情が完全に固まった。受話器を握る指に、異常なまでの力がこもる。
「……飛び降りた?」
『その子……!』
受話器の向こうで、別の誰かが叫ぶ怒号のような声が遠く混ざる。
『今朝、学校の相談窓口に来ていたそうなんです!』
隣で聞いていた玲奈が、息を呑んだ。
『受付だけ済ませて、そのあと──』
ザーッ。
突然、耳を刺すような激しい砂嵐のノイズが走った。
「もしもし!? 聞こえない、どうした!」
『受付番号が──』
ブツッ。
不自然に、通話が切れた。
ツーツーという無機質な発信音だけが、受話器から漏れ聞こえる。
ドサリ、と音がした。
玲奈の腕から、抱えていた過去の資料が床一面に散らばっていた。
研究室を、重苦しい静寂が支配する,、
その静けさの中。
チッ。
スピーカーが、再び乾いたポップノイズを拾うと、三上と玲奈の視線が、ディスプレイへと吸い寄せられる。
『1988ー10218』
その画面の下に『──ショリマチ』の文字が、ゆっくりと、一文字ずつ書き換わっていく。
──ショリズミ




