第10話 声の塊
警察の規制線が張られた私立高校の周辺は、
複数のテレビ局の中継車が集まり、騒然とした空気に包まれていた。
しかし、三上は研究室のデスクから動こうとはしなかった。
「現場に行かないんですか……?」
玲奈が困惑した声を上げる。
「三上さん、新しい被害者ですよ? 何か、あの18.3ヘルツの手がかりが現場に残っているかもしれないのに」
「これまでの事件現場もそうでしたが、おそらく今は現場を見ても、あまり意味がないと思っています」
三上は、主電源を切ったままのディスプレイを、鋭い眼光で見つめていた。画面の底には、音を止めた後も焼き付いたように居座り続ける、あの文字列がある。
『1988ー10218』
『──ショリズミ』
「……これは結果だ」
三上は低い声で言った。
「僕たちが知るべきなのは、その『前』だったんです。藤堂さん、新聞社に戻って、学校側の初期対応を調べてください。彼女が飛び降りる直前、窓口で何があったのか。どんな些細なことでもいい」
玲奈は小さく頷き、研究室を飛び出して行った。
◇
二時間後、玲奈から電話が入った。
受話器の向こうの彼女は、息を切らせている。
『三上さん、学校に取材を入れました。事故直後なので、当然のように個人情報は一律で断られたんですが……対応した受付の職員が、去り際に一言だけ漏らしたんです』
「何と言っていましたか」
『「その子……相談カードだけは、確かに書いていました」って』
受話器を握る三上の指先が、わずかに強張る。
「相談カード。公的な窓口でいう『受付票』のようなものでしょうか」
『はい。でも、内容は誰もまだ読んでいませんでした。カウンセラーが不在で、そのままボックスに投函されただけだったそうです』
「……やはり」
三上は受話器を肩と耳で挟みながら、ホワイトボードに向き直り、マーカーを走らせた。
「……怪異は、相談内容を読んでいないんじゃない。読めないんだ……」
『え……? 読めないって、どういうことですか?』
「……まだ仮説です」
三上はホワイトボードの数字を見つめた。
「でも、もしそうなら、これは誰か一人の具体的な苦しみや怨念じゃない。この町で、助けを求めながらどこにも届かなかった何百、何千という人間の声が、処理されないまま、受付番号という形式的な枠組みだけを残して蓄積されていった。怪異はその膨大なエネルギーを、システムという器を借りて、ただ機械的に吐き出しているに過ぎない。そんな可能性を考えています」
電話の向こうで、玲奈が息を呑む音が聞こえた。
『相談の内容じゃなくて……町全体の『助けて』が、溜まり続けている……?』
「そうです。窓口という機関が機能し、番号を発行した時点で、被害者はその膨大な『声の塊』と同調してしまう。そして──」
そのとき、デスクの固定電話からキャッチホンの割り込み音が響いた。
大学の代表番号から、三上の内線への転送だった。受話器を切り替えると、理学部の学部長の声が緊迫した様子で流れ込んできた。
『あ、三上君か! 今、学内相談室の受付で学生が暴れていてね、手が足りないんだ。君のいる研究棟のすぐ隣だろう、少し様子を見てきてくれないか』
「学生が暴れている? 何があったんですか」
『どうも、相談の予約がいつまでも取れないとかで激昂しているらしい。受付の職員が詰め寄られていてね』
三上は胸の奥が冷たく凍りつくのを感じた。
「……その学生は、受付を済ませたんですか?」
『え?』
「その学生は、相談室の窓口で『受付』を済ませたのか、と聞いているんです」
『ああ、そうだ。興奮した様子で、受付票を書いて番号札を掴まされて……今も長椅子で待たされている』
「……分かりました、今すぐ向かいます!」
三上は受話器を置くと、まだ繋がっていた玲奈への通話を掴み直した。
「藤堂さん、すぐに大学の相談室へ来てください。急いだ方が良さそうです」
◇
大学の相談室では、静まり返ったロビーの長椅子に、一人の男子学生が深くうつむいて座っていた。その手は、窓口から渡された青いプラスチック製の番号札を、指が白くなるほどの力で握り締めている。
プレートに刻まれた数字は『118』。
窓口の奥では、怯えた表情の女性職員が電話をかけていた。
三上が静かに近づくと、職員はすがるような目を向けた。
「順番にお呼びしますので、あちらでお待ちください……」
「呼ぶな!」
三上の鋭い声が、狭いロビーに響き渡った。
職員が肩をびくりと揺らし、長椅子の学生がゆっくりと顔を上げる。
その目は完全に虚ろだった。
遅れてロビーに駆け込んできた玲奈が、息を荒くしながら三上の隣に並ぶ。
「三上さん、これは……」
「……これだ」
三上は学生の手元を指差した。
そのとき、窓口の頭上に設置された、順番を案内するデジタル液晶表示板が、チカチカと不自然に明滅した。表示されているはずの『118』のデジタル数字が、一瞬だけ激しく歪み、別の数字を羅列する。
『1988ー10219』
「……ッ!」
玲奈が両手で口を覆い、一歩後退した。
「藤堂さん、見えましたか」
「はい……今、1988、って……」
次の瞬間、液晶の表示は再び平然と『118』に戻った。
だが、長椅子に座っていた学生が、突然「あ、つ……」と小さく呻き、両手で耳を塞いだ。
「耳鳴りが……凄くて……。低い、変な音が、ずっと……」
三上は即座に上着のポケットから、バラバラに分解したパーツを仮組みしたポータブル音響計測器を取り出した。電源ボタンは押していない。だが、液晶のバックライトは淡い青色に発光し、画面の中央に、ただ一つの数値を静かに表示していた。
『18.300Hz』
三上は画面を見て、深く眉をひそめた。
「……おかしい」
「何がですか?」
「発生源がない。音は必ずどこか特定の地点から生まれる。でも、これは違う」
三上は計測器の数値を凝視した。
「発生しているんじゃない。空間そのものが、共鳴しているんだ」
「何が、共鳴しているんですか……?」
「感情そのものじゃない。何千、何万という人間の感情が残した強烈な痕跡……この土地の空間すべてに染み付いた、記録媒体のようなもの。それが何らかの引き金によって、一斉に残響を立てて振動している」
三上の顔から血の気が引いていく。
「……いや、この部屋じゃない。この建物でもない。もっと、途方もなく広い範囲だ」
三上は学生に一歩近づき、その手から半分破れかけた相談受付票を、強引に奪い取った。
「これは、預かります」
「あ……」
学生は力なく声を漏らしたが、三上を追いかける気力すらないようだった。耳を塞いだまま、ただじっと床を見つめている。
◇
三上は奪い取ってきた受付票を研究室のデスクに置き、ノートに万年筆を走らせていた。
「システムは、ただ形式的に『受付』という入力を検知し、それを『処理』しているに過ぎない。人間を、ただのデータとして」
玲奈は床に散らばった資料を片付けながら、消え入りそうな声で呟いた。
「システムが、自動で動いている……。じゃあ、あの昭和六十三年のバインダーから、ずっと同じことが続いているんですか? 誰が、何のためにそんな仕組みを……」
「それをこれから突き止めるんです」
三上はノートを閉じ、鋭い眼差しを玲奈に向けた。
「1988年、この町が初めて、自分たちの内なる苦しみを『記録』してしまった瞬間があるはずだ。その最初の受付番号を探しましょう」
「その人が、この怪異を作ったんですか?」
「……違う、と思います」
三上は1988という数字を見つめ、首を振った。
「その人は、怪異を作ったんじゃない。この町が初めて、自分たちの声を記録に残してしまった瞬間なのだと思います」
◇
チッ。
静まり返った室内に、場違いな電子音が響いた。
音の主は、デスクの端に置かれた、大学の固定電話だった。呼び出しのベルが、一回だけ、短く鳴って止まる。
三上は玲奈を片手で制し、受話器を取り上げた。
「……三上です」
返答はない。
受話器の向こうからは、風が吹き抜けるような、あるいは古いテープが回転するような、ザーというかすかな環境ノイズだけが聞こえてくる。
不意に、耳元で短い電子音が弾けた。
ピッ。
続いて、人間の感情を一切排除したような、極めて不自然な合成音声が、女性のトーンで滑らかに告げた。
『ウケツケバンゴウ イチキュウハチハチ イチゼロニニゼロ』
「……10220」
三上は、冷たくなっていく受話器を握りしめた。
受話器を切ろうとした、その瞬間。
ざ、ざ、と、ノイズの隙間から、何かが這い出るような雑音が混ざり始めた。
『……まだ、』
受話器の奥から響いたのは、合成音声ではない。
ひどく掠れた少年の声だった。
だが、三上は即座に奇妙な違和感に気づき、全身の毛穴が逆立つ感覚を覚えた。
声の奥に、別の声が何重にも重なっている。
男の声。女の声。老人の声。幼い子供の声。
何十人、何百人もの異なる人間の声が、寸分の狂いもなく、一つの言葉をユニゾンで繰り返していた。
『……まだ、呼ばれてないんです……』
「誰だ」
三上の問いかけに、受話器の向こうの声は応じない。
ただ、冷たい暗闇の底から、小さく乾いた合唱が続く。
『順番が来るまで、待ってくださいって……言われて……』
ザー、と激しい砂嵐が割り込む。
『もう38年……誰も、聞いてくれないんです……』
プツッ。
通話は完全に切断され、受話器からはツーツーという発信音だけが虚しく響いた。三上はゆっくりと受話器を置き、呆然と立ち尽くした。
「三上さん……? 今の、一体……」
「……38年」
三上の声は、驚愕で震えていた。
「あの声の塊は……一人のものじゃない。何十人、何百人もの声が混ざっていた。もし僕の推測が正しいなら……あれは、この町が38年間押し殺してきた、何かだ」
玲奈が、息をすることすら忘れたように硬直した。
不意に、二人の視線がデスクの上に落ちた。
先ほど学生から奪い取ってきた、あの半分破れかけた相談受付票。
誰の手も触れていない。ペンも置かれていない。
それなのに、まっさらだった紙面の『受付番号欄』に、じわり、と黒いインクが下から滲み出してきた。
『1988ー10219』
湿った土が水を吸うように、無機質な数字が完璧な文字となって定着していく。
玲奈が、声にならない悲鳴を上げて一歩下がった。
三上は震える手でそれを凝視した。
窓口の職員が書いたのではない。この怪異が、今この場で直接、受付票へ番号を刻み込んでいるのだ。
「……僕たちは、相談というシステムを呼び出したんじゃない」
三上は、黒いインクが吸着していく受付票を見つめた。
「この町が38年間、聞こえなかったことにしてきた何かを……呼び起こしてしまったんだ」
三上は、机の脇に積み上げられていた1988年当時の市の広報資料や名簿へと、取り憑かれたように手を伸ばし、ページを激しくめくった。
浮かび上がった『10219』という番号に対応する、当時の市民の記録、あるいは相談窓口のバックアップデータを、血眼になって探す。
「……三上さん、これ」
玲奈が、古い紙束の端を指差した。
1988年の「第一相談室」の試験運用時に作成されたと思われる、ごく初期の「相談予定者控」のマイクロフィルムのプリントアウトだった。
そこには、連続する受付番号と、対応する氏名が並んでいる。
だが、その『1988ー10219』の欄だけは、なぜか文字が印刷されておらず、真っ白な空白のままになっていた。
「名前がありません……消されたんでしょうか」
「いや、これは……」
三上は、その空白の直下に残された、小さな手書きの付記へ目を凝らした。
印刷された公式の記録ではない。
当時の窓口の担当者が、誰に見せるつもりもなく、ただ個人的に書き残したと思われるメモだった。
経年劣化でかすれ、震えた鉛筆の筆跡が、かすかに浮かび上がってくる。
『※受付対象外』
『本人による相談ではない』
『周囲からの申告』
三上の指がピタリと止まった。
「……本人じゃない?」
玲奈が怪訝そうに呟く。
「じゃあ、この番号は一体、誰の相談なんですか」
三上は答えなかった。
色褪せたその紙には、掠れた文字でもう一行だけ、引きずられたような追記が残されていた。




