第11話 1988
市役所の窓口で、三上は苛立ちを隠せずにいた。
午後四時を過ぎた庁舎内は、西日が長い影を落とし、事務的な空間特有の冷徹な不穏さに満ちていた。
「昭和六十三年度の市民相談窓口の記録を見たい。当時の業務日報と、相談受付台帳もお願いします」
対応した若い窓口の職員は、退屈そうにキーボードを叩いていたが、次第にその手つきが頼りなくなっていった。眉を寄せ、何度も同じ検索コマンドを入力し直している。
「……おかしいですね。該当する記録がありません。というか、システム上、昭和六十三年の市役所の組織図に『市民相談窓口』という部署自体が設置されていないことになっています」
「部署がない? そんなはずは……市民相談はどこの自治体でも必須の窓口ですよね。当時の広報紙にも窓口の告知が出ているはずですが」
三上が身を乗り出して食い下がると、職員は困惑したように液晶画面をこちらに向けた。
「それが、検索結果自体が存在しないのです。廃棄済みのフラグすら立っていない。データが最初からシステムに組み込まれない仕様になっている、と言った方が正しいかもしれません。……何かのバグでしょうか」
三上は小さく舌を巻いた。
物理的に存在していたはずの部署が、行政の歴史から跡形もなく「抹消」されている。
「システムがダメなら、当時の旧式の紙台帳が残っているのでは? 地下書庫の配置図と、立ち入り許可も欲しいのですが」
◇
その頃、玲奈は市役所から数キロ離れた県立中央図書館の地下、新聞社のマイクロフィルムアーカイブ室にいた。
薄暗い部屋の片隅で、プロジェクターの緑がかった光が玲奈の顔を照らしている。手動のレバーを回し、1988年10月の地方紙の紙面を追っていた。
「……ない。どうして?」
玲奈は指先を震わせながらレバーを止めた。
市役所の新庁舎移転や、当時の秋祭りのニュースは細かく記録されている。しかし、市民の投稿欄や「街の相談室」といった、小さな窓口に関する記述があるはずのページだけが、まるで強い熱で炙られたかのように、マイクロフィルム上で真っ黒に焦げ付き、潰れていた。
目を凝らすと、その黒塗りのノイズの隙間に、細かな数字の列が浮かび上がっているように見えた。
『10219、10220、10221……』
それは、前日に自分たちのスマートフォンに送りつけられた、あの不気味な受付番号の羅列だった。玲奈は息を呑み、アーカイブ室の冷房が急に骨まで染みるような錯覚に襲われた。
◇
同じ時刻、三上は市役所の地下書庫へと足を踏み入れていた。
重い鉄扉を開けた瞬間、カビと湿気、転がったままの空気、そして何十年もの間、誰の呼吸にも触れなかった静寂が肺を突き刺す。懐中電灯の細い光条だけが、どこまでも続く錆びついたスチール棚の迷路を切り裂いていた。
「……昭和六十三年、組織改編資料……ここか」
三上は棚のプレートを確認しながら歩く。
足音がコンクリートの床に不自然に反響し、まるで自分の後ろを、もう一人の誰かが等間隔で付いてきているかのような錯覚を覚えた。
立ち止まる。後ろの足音も止まる。
振り返っても、そこには埃を被った段ボールの山があるだけだ。
「……気のせいか」
三上が再び歩き出した、その時だった。
胸ポケットに入れたポータブル音響測定器が、ジジ……と短いノイズを吐き出し、液晶画面に鮮烈な数値を叩き出した。
『18.300Hz』
心臓が跳ね上がった。
しかし、三上はすぐに違和感を覚えた。
これは何かが音を「発生」させているのではない。
まるで、この場所そのものが、38年前の記録を強制的に再生しているかのような、空間全体の残響だった。
同時に、手にした懐中電灯の光が、前触れもなく消えた。
完全に光を失った暗黒の中で、三上はハッとして足を止めた。
正面の棚のプレートには『棚番号:42』と書かれている。
三上は確かに、その棚を数分前に通り過ぎたはずだった。
焦燥感に駆られ、右の通路へ曲がる。突き当たりを左へ。
しかし、十数歩歩いて手探りで触れたプレートには、やはり『棚番号:42』の文字が刻まれていた。
出口がない。
どれだけ歩いても同じ場所に戻ってくる。
その時、頭上の古びた蛍光灯が、バチバチと激しい音を立てて明滅し始めた。その不規則な光の中で、三上は自分の足元を見て息を呑んだ。
通路の床を、数え切れないほどの古い紙切れが埋め尽くしている。
さっきまでは何も落ちていなかったはずの床だ。いや、それだけではない。スチール棚の隙間から、まるで生き物のように、古い受付票が次から次へと溢れ出し、音もなく床へと積もっていく。
驚くべきことに、その受付票は三上が一歩踏み出すたび、彼の足元から新しく湧き出るようにして生まれていた。踏みつけ、蹴散らした紙の下から、全く同じ受付票が即座に現れる。どれだけ足を動かしても、紙の層は減るどころか、確実に三上の足首を埋めようと高さを増していく。
三上は恐怖をねじ伏せ、足元の紙を一枚拾い上げた。
そこには、赤茶けたインクで、すべて同じ数字の羅列が始まっていた。
『1988-……』
『1988-……』
すべての受付票が、あの1988年で時を止めたまま、処理を求めて狂ったように湧き出している。その白い波の中に、一冊だけ、ひときわ目を引く鮮やかな赤色の背表紙の帳簿が混ざっていた。
三上は吸い寄せられるように膝をつき、その赤い帳簿を拾い上げると、表紙には『昭和六十三年度 相談受付係座席配置・勤務記録』と書かれていた。
ページをめくると、指先にまるで生乾きの皮膚に触れたような、奇妙な湿り気が伝わってきた。最後にあった「市民相談窓口」の項目。そこには、確かに一人の職員の名前が活字で印刷されていた。
三上は唇を動かした。
一文字目を読んだはずだった。しかし、次の瞬間には、自分が何を読んだのか思い出せない。もう一度読む。また忘れる。
五度繰り返しても、そこに確かに「名前が書かれている」という事実だけが残り、肝心の名前だけが記憶に残らなかった。脳がその存在の知覚を拒絶しているようだった。
三上はその帳簿を抱え、狂ったように壁を叩き、ようやく見つけた非常口の扉から這い出した。
◇
三上は息を切らせたまま、二階の人事課のカウンターへ飛び込んだ。
「すみません、昭和六十三年の職員名簿の原本を出してください! この勤務記録の、この行の人間です!」
三上は、先ほど地下書庫から持ち出した赤い帳簿をデスクに叩きつけ、読めない名前の欄を指差した。
対応した年配の職員は、怪訝そうな顔で三上と帳簿を交互に見つめる。
「……はあ。確認しますが、どの行ですか?」
「ですから、この『市民相談窓口』の行です! ここに当時、誰が座っていたのかを知りたい!」
職員は眼鏡をかけ直し、三上が指し示すページをじっと凝視した。
「……お客様、落ち着いてください。そのページ、何も書かれていませんよ。白紙です」
「何をおかしなことを……ここに、こんなにはっきりと文字が──」
三上は言いかけて、言葉を失った。
職員の視線が注がれている帳簿のページ。三上の目には、今もなお細かく揺らめく活字が見える。しかし、職員の瞳には、それがただの「真っ白な余白」として映っているのだ。
「……見えて……いないのか」
三上は総毛立つ腕を抑え、帳簿をひったくるようにして人事課を後にした。
◇
一時間後。
三上は玲奈と合流し、当時の新聞社に在籍していた八十代の元記者、岩田の自宅を訪れていた。岩田は「相談窓口」という言葉を聞いた瞬間、灰皿の上で火のついたタバコを持つ指先を、ピタリと硬直させた。
「……ああ。思い出したくない。思い出したくないが……いたな、そこに」
部屋の空気が、急速に熱を失っていくのが分かった。
「何者だったんですか。その窓口にいた人間は」
三上が問い詰める。
岩田は虚ろな目で、壁の何もない一点を見つめながら呟いた。
「名前は……どうしても思い出せん。頭にモヤがかかったようになる。ただ、毎日、窓口の椅子に、妙に姿勢のいい若者が座っていた。あいつが受け取った書類はな、誰も触っていないのに、カウンターの上から滑るように消えていくんだ」
「あいつの顔を正面から見ようとすると、なぜか視界が激しく歪む。まるで、テレビの砂嵐を見ているような、頭が割れるようなノイズが走るんだよ」
玲奈は震える手で、バッグから一枚の古いスナップ写真を取り出した。
当時の役所内を取材した際に、岩田自身が撮影したという記録写真の複写だ。
「その名前は、ここに書かれてませんか?」
岩田は写真に視線を落とした瞬間、喉からヒッという短い悲鳴を漏らし、写真をテーブルに放り出した。
「これだ……この写真、おかしいだろ! 俺がシャッターを切ったとき、あいつは確かにそこにいた! なのに……!」
写真の中の窓口カウンター。
そこには、綺麗に整頓された湯飲みとインク瓶、そして不自然に積み上げられた「受付票」の山だけが写っていた。
湯飲みからは確かに白い湯気がうっすらと立ち上り、インク瓶の横では、万年筆が机の上に置かれていた。ただ、写真を拡大すると、そのペン先だけが、誰かが今まさに紙へ文字を書いているような不自然な位置でピタリと止まっていた。
そして、職員が座っているべき椅子は、背もたれにはまるで今誰かが寄りかかっているように革がわずかに歪み、座面には深い皺が刻まれていた。確かにクッションが中央に向かって深く沈み込み、誰かの強固な「体重」を支えている形跡を示している。
しかし、そこには誰もいない。
まるで、その人間だけが物理的に光を透過させているかのように、背後の壁が透けて写っていた。
「あいつは、最初から──」
「……受付だ」
三上は写真を凝視した。
「この町で最初に、あの声を受け取った人間だ」
「受け取った?」
「いや……違う」
三上は首を振った。
「受け取ったんじゃない。押し付けられたんだ」
◇
深夜、大学の研究室に戻った二人は、重苦しい沈黙の中で写真を解析ソフトにかけた。コントラストを極限まで上げ、デジタルノイズを除去し、赤外線波長による画像再構成を行う。
しかし、結果は同じだった。
背景の壁の木目、椅子の背もたれの質感、クッションの凹みは鮮明に浮き上がるが、座っているはずの「影」は、どれだけ追い込んでも、一ドットのノイズすら残さず透過していた。
「実在した人間が消されたんじゃない」
三上は徹夜の疲労が滲む顔で、ホワイトボードにマーカーを叩きつけた。
『相談 → 受付 → 番号付与 → ? 』
「このシステムそのものが、最初から存在しない人間を『記号』として歴史に配置したんだ。この『?』の段階で、相談者はその実在しない人間に、何かを奪われている」
その時だった。
研究室のデスクの上に綺麗に並べられていた、これまでの事件の「受付票」の束が、一斉にガタガタと音を立てて震え始めた。
部屋の明かりが激しく点滅する。
冷たい風がどこからともなく吹き抜け、受付票の表面に、じわりと黒いインクが滲み出してきた。熱を持ったインクが紙を焦がすような異臭が漂う。
ジリリリリリンッ!
突然、デスクの黒電話がけたたましく鳴り響いた。
三上が受話器に手を伸ばそうとした瞬間、受話器は自らカチリと持ち上がり、空中で静止した。
スピーカーからは何の音もしない。
しかし、研究室の空気そのものを震わせるように、直接鼓膜に響く冷徹な大人の声が響いた。
『受付は終了しました。これより、順番にお呼びいたします』
プツ、と通信が切れる音。
同時に、受話器が机に落下した。
次の瞬間、研究室の厚い木製のドアが、激しく叩かれた。
コン、コン、コン。
正確に三回。
無機質で、感情の一切こもっていないノックの音。
三上と玲奈は息を止め、お互いを見つめ合った。
玲奈は金縛りにあったように動けない足を必死に動かし、ドアへと近づいた。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと引く。
廊下には、誰もいなかった。
ただ、暗い廊下の蛍光灯が一本だけ、狂ったようにチカチカと明滅している。
そして、玲奈の足元の床に、一枚の青い紙が落ちていた。
市役所の、あの古い受付票だ。
玲奈が震える指先でそれを拾い上げ、裏返した。
そこには、印字されていた。
『順番待ち番号:00001』
『現在呼び出し中:00001』
『ステータス:呼出中』
「……藤堂さん、それを見せてください」
三上は受付票を奪い取った。
受付票の右下。
何もなかった余白に、黒い数字がゆっくりと浮かび上がっていく。
『1988ー00000』
三上の指から、受付票が滑り落ちた。
「……違う」
玲奈が息を呑む。
「何が違うんですか」
三上は答えなかった。
10219は、最初の番号ではなかった。
ならば。
その前にある00000は──
誰が、何を待つための番号なのか。
その答えだけは、三上の頭の中に入ろうとした瞬間、激しいノイズに掻き消された。




