第12話 呼出中
研究室の窓の外が白み始めても、玲奈は一睡もできずにいた。
ソファの端で膝を抱え、何度もスマートフォンの画面をタップする。午前五時十四分。画面の通知欄には、液晶を凝視していなければ見落としてしまうほど静かに、一つの履歴が残っていた。
『着信あり 昨日 23:41 市役所(代表)』
玲奈は息を詰まらせた。
昨夜、三上とともに研究室にいたあの時間、スマートフォンの電子音が鳴った記憶は一切ない。画面のバックライトすら点灯しなかったはずだ。
しかし、履歴の横には確かに「留守番電話あり」のアイコンが小さく明滅している。
玲奈は震える指先でスピーカーを耳に当てた。
再生された音声には、デジタル特有のホワイトノイズすら混ざっていなかった。ただ、無機質で平坦な大人の声が、極めてクリアに鼓膜へ滑り込んできた。
『番号、〇〇〇〇一番の方。大変お待たせいたしました』
それだけだった。
背後に微かに聞こえる、膨大な数の紙が擦れ合うような奇妙な音。メッセージは五秒で途切れ、自動音声が録音時間の終了を告げた。
玲奈はスマートフォンをベッドに放り出した。
怪異が凄惨な呪いとしてではなく、日常の極みである「行政連絡」の形をとって自分を包囲し始めている。その事実が、皮膚の裏側を冷たい針で撫でられるような戦慄をもたらしていた。
◇
数時間後、玲奈は重い足取りでアルバイト先である新聞社の通用口に立っていた。
徹夜の疲労で焦点の合わない目を擦りながら、自動改札風のセキュリティゲートに社員証をかざす。
ブー。
鈍い電子音が響き、赤いランプが点灯した。
「あれ……」
玲奈はもう一度、磁気面を読み取り機に押し当てる。
ブー。
やはり通らない。
受付の女性が怪訝そうな顔でこちらを見た。
「藤堂さん、どうしました? カードの磁気が弱くなってるのかも」
「すみません、もう一回だけ試します」
玲奈は三度目、カードをかざした。
その瞬間、読み取り機の小さな液晶ディスプレイに表示された文字を見て、玲奈は全身の血が凍りつくのを感じた。
『ステータス:受付済』
一瞬だった。
次の瞬間には通常の『エラー:認証できません』という冷たい文字列に戻っていたが、玲奈の見間違いではなかった。
「藤堂さん?」
受付の女性には、ただのエラー画面にしか見えていないようだった。
彼女は事務所の内線電話に手を伸ばしながら、事務的に微笑んだ。
「おかしいですね。今、総務の方に確認してみますから、ちょっと待っていてくださいね」
玲奈は一歩、後ろへ下がった。
システムはすでに、自分をこの世界の住人としてではなく、別の場所で「処理待ちの案件」として認識している。
現実のあらゆるインフラが、
自分を排斥しようと狂い始めていた。
◇
「〇〇〇〇一という数字は、『最初の相談者』を指す言葉じゃない」
大学の研究室で、三上は髪を掻きむしりながら、ホワイトボードの図を黒いマーカーで激しく書き換えていた。
『相談 → 受付 → 番号付与 → 呼出待機 → 呼出中 → 〇〇〇〇〇 → 処理済』
「前話までの被害者たちのスマホに残された番号は、単なる『呼出待機』の列に過ぎなかった。だが藤堂さん、貴方の元に届いた『〇〇〇〇一』は、現在リアルタイムで呼び出されている当事者の番号です。そして昨夜現れた『〇〇〇〇〇』は、処理の直前に割り振られる絶対的な識別番号……」
三上はマーカーを握る手に力を込め、玲奈を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、かつてない焦燥が滲んでいた。
「つまり、『あと一人で順番が来る』のではなく……もうすでに、窓口の前に立たされている状態と考えるべきです」
「じゃあ、私はどこに行けばいいの……?」
玲奈の声が震える。
三上はホワイトボードの「処理済」の文字を強く囲んだ。
「怪異の側から来るんじゃない。こちらから『窓口の残響』を掴みに行く。昭和六十三年に何があったのか、その物理的な起点へ行きましょう」
◇
二人が向かったのは、市役所の本庁舎三階、かつて「市民相談窓口」が置かれていたとされるエリアだった。現在は長年使われていない、壊れたパイプ椅子や古い備品が乱雑に押し込まれた薄暗い物置倉庫になっている。
三上がポケットからポータブル音響測定器を取り出す。
ジジ……と短いノイズのあと、液晶が静かに数値を固定した。
『18.300Hz』
間違いなくここにいる。
だが、周囲には動くものも、音を発する機械も何もない。ただ、昼なお暗い倉庫の空気が、ゼリーのように重く澱んでいるだけだ。
「藤堂さん、壁です。この奥から聞こえる」
三上は倉庫の最奥、コンクリートの古い仕切り壁を指差した。
玲奈は吸い寄せられるように歩み寄り、冷たい壁面にそっと耳を寄せた。
最初に向こう側から聞こえてきたのは、無数の紙がカサカサとめくられる音だった。
続いて、ガチャン、と重い鉄製のレバーが引かれ、番号札が機械から引き抜かれる金属音が響く。
そして、はるか遠くの広大な空間で響いているような、ひどく歪んだ館内アナウンスの残響。
『──〇〇〇〇一番の、藤堂玲奈様。第相談室へ──』
「私を呼んでる」
玲奈が壁から飛び退く。
三上にはその声は聞こえていないようだった。しかし、三上の視線はすでに、その壁の前に置かれた一つの古いスチール棚へと注がれていた。昨日、地下書庫から無断で持ち出し、この倉庫に隠しておいた、あの「赤い帳簿」だ。
三上は棚から帳簿を引っ張り出し、昨日読めなかったページを乱暴に開いた。
「やはり、名前は読めないままだ……いや、違う」
三上の指が、そのページの最下段で止まった。
昨日までは存在しなかったはずの、新しい行が、生乾きのインクで追加されていた。
受付番号の欄だけが、驚くほど鮮明に読める。
しかし、その横の氏名欄に視線を合わせようとすると、活字が水面のようにぐにゃりと歪み、脳が意味を認識することを拒絶する。
そこに印字されていた数字は、こうだった。
『1988-00001』
三上の顔から一気に血の気が引いていく。
よく見ると、その上にはかすれた無数の数字が、年を跨ぎながらも途切れることのない単一の連番として、長い年月の層を成して整然と並んでいた。
『1988-00001』
『1988-00002』
……
『1988-10219』
『1989-10220』
……
『1998-58431』
……
『2018-251889』
……
『2026-314557』
「増えてる……今も」
三上が掠れた声で呟いた。
その視線の先、ページの一番下の余白で、カリ……カリ……と、目に見えない硬いペン先が紙面を引っ掻くような音が響いた。生乾きの黒いインクが湧き出し、文字が勝手に更新されていく。
『2026-314558』
「このシステムは、一九八八年のあの時から、二〇二六年の現在に至るまで、三十八年間一日も止まることなく、誰かを受付し続けているんだ」
凍りついたまま開いたままの窓口。
その永劫の待機列の先頭に、まさに今、玲奈の存在が完全に同期してしまっていた。
◇
手がかりを求めて一度倉庫を出ようとした二人は、現在の市役所の一階総合受付の脇を通りかかった。そこでは、幼い子供を連れた若い母親が、現在の職員と困り果てた様子で話していた。
「あの一階の相談窓口へ行くように言われたんですけど、子供の育児のことで……」
「では、こちらの発券機で番号札をお取りになってお待ちください」
母親が発券機のボタンを押し、ピッ、と軽い電子音が響く。
発券機から感熱紙の番号札が滑り出てきた。
通常であれば、『A127』といった当日限りの整理番号が印字されているはずだった。
母親は何の疑問も持たず、その紙片を受け取って待合スペースへと歩いていく。
しかし、すれ違いざまにその光景を目撃した玲奈は、喉の奥で息を呑んだ。
母親の持つ番号札の表面には、確かに『A127』と印刷されている。
だが、その紙の裏側から、まるでドス黒いインクが繊維を伝ってじわりと染み出すようにして、全く別の数字が二重に浮かび上がっているのが見えたのだ。
『2026-314558』
それだけではなかった。
玲奈の目には、その母親の背後に、輪郭の曖昧な、陽炎のように透き通った人間の影が、何十人も、何百人も、終わりなく連なっていくのが見えた。
影たちは皆、無表情に、前を向いて静かに立っている。
『314559』
『314560』
『314561』
誰もいないはずのロビーに、巨大な透明の人の列がうねるようにして伸びていく。
だが、現在の市役所職員にも、母親にも、その「受付を済ませた者たちの列」は見えていない。
ジジ……。
三上のポケットの中で、ポータブル音響測定器が一瞬だけ激しく振動し、『18.300Hz』の数値を叩き出してすぐに沈黙した。
三上と玲奈は、声もなく顔を見合わせた。
呪われているのは、玲奈だけではない。
この市役所に足を踏み入れ、日常の何気ない「相談」を持ちかけたすべての一般市民が、今この瞬間も、本人すら気づかないうちにあの一九八八年から続く巨大な暗黒の連番へと組み込まれ、処理待ちの列へと並ばされているのだ。
◇
市役所からの帰り道、夕暮れの街を歩いていた玲奈が、不意に足を止めた。
アスファルトの道路、行き交う現代のハイブリッドカー、頭上のLEDの街頭。そこは確実に見慣れた二〇二六年の風景のはずだった。
「ここ……来たことある」
三上が怪訝そうに玲奈の肩を掴む。
しかし、玲奈の視界は、激しいテレビの砂嵐のようなノイズに侵食されていた。
現代の風景の真上に、別の空間が二重露光のように重なり合っていく。
湿ったコンクリートの匂い。
暗い焦茶色の木製カウンター。
机の上には、今お茶を注いだばかりのように白く湯気を立てる湯飲み。
背もたれには、まるで今誰かが寄りかかっているように革がわずかに歪み、座面には深い皺が刻まれた椅子。その横で、ペン先を下にして奇妙な角度で空中に静止している万年筆。
カウンターの向こう側には、“誰か”が座っている。
姿勢のいい、若い男の輪郭。しかし、その顔があるべき場所だけが、激しいデジタルノイズで真っ黒に潰れ、激しく明滅している。
男の手がゆっくりと持ち上がり、こちらに一枚の青い紙を差し出そうとした、その瞬間──。
「藤堂さん! しっかりしてください!」
三上の強い衝撃とともに、風景が弾け飛んだ。
玲奈は自分が現代のアスファルトの上にへたり込んでいることに気づいた。全身が冷や汗で激しく濡れていた。
◇
深夜二時。
玲奈は自分のアパートの部屋で、ベッドの中に潜り込んでいた。
部屋にはテレビもなければ、固定電話の回線も引いていない。音を発するものはすべて電源を切ってあった。
ジリリリリリンッ。
鼓膜を直接揺さぶるような、金属質のけたたましいベルの音が部屋のどこかで鳴り響いた。スマートフォンの音ではない。もっと古臭い、本物の電磁ベルの音だ。
音の発生源は、部屋の隅にある備え付けのクローゼット、その中のチェストの引き出しだった。
ジリリリリリンッ。
引き出しの隙間から、青白い光が微かに漏れている。
玲奈は呼吸を止め、狂ったように鳴り続ける引き出しの取っ手に手をかけ、一気に引いた。
ベルの音が、ピタリと止んだ。
引き出しの中には、衣服の隙間に挟まるようにして、あの市役所の古い青い受付票が横たわっていた。紙面自体が微かに熱を持ち、暗闇の中で青白く発光している。
『順番待ち番号:00001』
『ステータス:呼出中』
『呼出回数:3/3』
『応答が確認できないため、次の処理へ移行します』
「こんなの……っ!」
玲奈は恐怖をねじ伏せるように、机の上のライターをひったくると、受付票の端に火を押し付けた。
激しい炎が上がる。
しかし、燃えているのは玲奈の指先が触れている部分と、周囲の衣服だけだった。青い受付票そのものは、激しい火に炙られながらも、焦げ跡ひとつ付かず、新品のような硬質な質感を保ち続けている。
玲奈は狂ったようにその紙を両手で引き裂いた。
破片が床に飛び散る。
だが、引き裂かれた断面から、まるで生き物の肉が再生するように、音もなく新しい青い紙が生えてきた。一瞬にして、床に落ちた破片もろとも融解し、元の完璧な一枚の受付票へと戻る。
その最下段の余白に、太いゴシック体の活字が、ゆっくりと一文字ずつ印字されていく。
『受付票の再発行が完了しました』
『受付窓口:第一相談室』
『所在地:市役所地下 一階』
「地下……一階?」
玲奈の喉から引きつった声が漏れた。
現在の庁舎の地下に、そんな階層は存在しない。
その瞬間。
部屋のすぐ外の廊下から、音が響いた。
コン、コン、コン。
正確に三回。
感情の破片すら含まれていない、無機質なノックの音が、薄いドアの木面を震わせた。
玲奈は床の受付票を見つめたまま、呼吸を止めた。
静寂が部屋を支配する。
四回目を促すノックの音は、もう響かなかった。
終わったのか、と玲奈がほんのわずかに肩の力を抜こうとした、その時だった。
ドアの向こう側の暗闇から、遮るもののない、あの留守番電話と同じ冷徹な声がはっきりと響いた。
『藤堂玲奈様』
『お待たせいたしました』




