第13話 第一相談室
朝、玲奈はスマートフォンの画面に視線を落としたまま、微動だにできなかった。
そこに表示されていたのは、着信でもメールでもない。OSのシステム領域すら無視して、液晶画面の中央に直接黒々とした文字がポップアップしていた。
『受付状況:呼出中』
『窓口へお越しください』
いくらホームボタンを連打しても、通知は消えない。
強制的に電源を落としても、バックライトの消えた漆黒の画面に、まるでガラスの裏側から文字が浮き出るようにして同じ文言が明滅し続けている。スマートフォンという端末ではなく、現実のシステムそのものが玲奈の網膜に直接通知を発していた。
研究室で三上が古いデスクの上に置いた青い受付票は、さらにその冷酷さを増していた。
『呼出状況:未着席』
「『窓口へ来ていない扱い』になっていますね」
三上の声が低く歪む。
「三回の呼出は終わった。だが、まだ席に着いていない。だから、システムは東堂さんが『着席』するまで、現実のすべてを書き換えてでも呼び出し続けるつもりかもしれません」
◇
二人はその足で、市役所の建築課へと向かった。
三上が大学の身分証と新聞社の調査名目で強引に引き出した、庁舎の構造図面の閲覧。
現在使用されている最新のデジタル図面。
──当然、地下一階に「第一相談室」などという部屋はない。
次に、平成の増築時の古い紙の図面。
──やはり、存在しない。
三上はさらに奥から、埃を被った昭和三十年代改築時の「旧庁舎図面」を引きずり出してきた。セピア色に褪せたその大判の図面の片隅、インクの滲む文字で、それは初めて姿を現した。
『地下第一相談室』
しかし、記載されている位置が明らかに異常だった。
図面上でそれは、現在の地下書庫がある区画の、さらに厚いコンクリート壁の「向こう側」を指定していた。構造上、庁舎の基礎となる岩盤の中であり、物理的に空間が存在できる場所ではない。
説明に立ち会った年配の建築士も、怪訝そうに首を傾げた。
「おかしいですね……図面には部屋の輪郭がありますが、ここには当時からコンクリートが詰まっているはずです。構造上、絶対に空間は作れませんよ」
建築士は眼鏡の位置を直しながら、図面の隅の管理スタンプを凝視し、突然指先を震わせた。
「あれ……おかしいな。この図面、昨日までありませんでしたよ。うちの課の古い記録はすべて頭に入っているはずなんですが……」
存在しないはずの空間が、図面の中にだけ、静かに過去を書き換えるようにして刻まれていた。
◇
夜。閉庁後の市役所は、死んだように静まり返っていた。
警備員の目を盗み、三上と玲奈は再び地下書庫の最奥へと足を踏み入れた。
ジジジジジジジジジ──ッ!
三上が手にしたポータブル音響測定器が、かつてない悲鳴のような異音を立てた。液晶に表示された数値は『18.300Hz』のまま完全に固定され、内部の基盤から細い煙が立ち上る。
その瞬間、バチンと大きな音がして、地下書庫の蛍光灯がすべて一斉に消灯した。
完全な暗闇。
だが、二人の視線は床に落ちた。
スチール棚に隠されていたはずの「赤い帳簿」が、暗闇の中で青白い燐光を放ちながら、バサバサと激しい音を立てて勝手にページをめくり始めたのだ。
何十ページもの紙片が高速で狂ったようにめくれ、ある1ページでピタリと動きを止めた。
『現在呼出中:1988-00001』
その静止したページの最下段から、カリ……カリ……と紙を引っ掻く音が響き、新たな項目が追加されていく。
『担当窓口:第一相談室』
ゴゴゴ、と地響きのような重苦しい音が暗闇に響いた。
二人の目の前で、何百冊もの資料が詰まった巨大なスチール製の本棚が、見えない力に引かれるようにしてゆっくりと横にスライドしていく。
本棚が退いた後のコンクリート壁には、昼間は確かに存在しなかった、奥へと続く細く薄暗い通路の口が、ぽっかりと開いていた。
◇
通路の先を進むにつれ、湿ったコンクリートの匂いは、古い紙とインクの匂いへと変わっていった。突き当たりの扉を押し開けた瞬間、玲奈は息を呑んだ。
そこにあったのは、昭和の役所そのものだった。
微かにチカチカと不快な音を立てる旧式の直管蛍光灯。くすんだ灰色のリノリウムの床。奥へと続く暗い焦茶色の木製カウンター。
何より異様なのは、そのカウンターの前に並べられたパイプ椅子に、何十人もの人間が整然と腰掛けていることだった。
全員が、手に古い感熱紙の番号札を握りしめている。
そして恐ろしいことに、彼らは全員、全く同じ姿勢、同じ角度で微動だにせず、呼吸のタイミングすら完全に同調していた。瞬き一つしない。
三上は一人の男の顔を見て、息を止めた。
見覚えがある。だが、どこで見たのか思い出せない。
これまでの資料の写真だったのか。新聞記事だったのか。それとも──。
記憶の奥に触れようとした瞬間、頭の中で砂嵐のような激しいノイズが走り、思考が強制的に遮断された。
名前も、顔の細部も、何一つ認識できない。
ただ、剥ぎ取られた記号のような人間たちが、そこに並べられている。
ピンポンパンポン──。
天井のひび割れたスピーカーから、ひどく歪んだ館内放送が流れた。
『──1988-00001番の、相談者様。窓口へお越しください──』
椅子の列から、一人の人間が静かに立ち上がった。
その身体は前へ進むごとに少しずつ、水に溶けるようにして希薄に、透明になっていく。
カウンターに到達する直前、その輪郭は完全に消滅した。
床へとハラリと落ちたのは、一枚の古い受付票だけだった。
三上が抱えていた赤い帳簿のページで、該当する番号の横に『処理済』という文字がじわりと刻まれる。それでも、待機列の人間たちは誰一人として反応しない。ただ異様な静寂だけがそこにあった。
◇
「藤堂さん、駄目だ! ここは人間のいる場所じゃない! 戻りましょう!」
三上が玲奈の腕を掴み、来た道を振り返ろうとした。
しかし、掴んだ腕に手応えがない。玲奈の身体は、三上の力をすり抜けるようにして、吸い寄せられるように歩き出していた。
玲奈は迷いのない足取りで、待機列の最後尾にある空席へと向かい、静かに腰掛けた。
「藤堂さん! 立ってください! 何を──!」
三上が駆け寄り、彼女の肩を激しく揺さぶる。
しかし、玲奈は虚ろな目で前方を凝視したまま、抑揚のない声で呟いた。
「……だって、順番だから。私の番号が、呼ばれたから」
その瞳からは完全に生気が失われていた。
三上は血の気が引くのを感じながら、玲奈の手の中にいつの間にか握られていた受付票に目を落とした。
『受付番号:1988-00001』
『状態:受付済』
『本人確認:完了』
「違う……」
三上は激しく首を振った。
これは藤堂さんを呼んでいるんじゃない。
最初から、藤堂さんがここに来ることを前提に、38年前の過去に記録が完了している──。
三上は絶望に駆られながら、玲奈の視線の先にあるカウンターの奥へと目を向けた。
そこに、男が座っていた。
姿勢のいい、仕立ての良い古いスーツを着た若い男の輪郭。男は机の上に湯飲みを置き、万年筆を握って、淡々と書類に何かを書き走らせている。
三上はその顔を見た。いや。見たはずだった。
目、鼻、口。人間の顔として、確かにそこに存在している。
親指の先ほどの大きさもない写真の木目まで見えているのに、脳がそれを「顔」として保存することを完璧に拒絶する。名前も、年齢も、表情も、何一つ記憶に残らない。
ただ分かったことがある。
この男の机の上には、昭和六十三年の日付が入った書類と、今日の日付が入った書類が、寸分の狂いもなく同じ順番で積まれていた。38年間。彼は一度も、この席を離れていない。
男がゆっくりと万年筆を動かし、手元の帳簿へ何かを書き込もうとしたその時。
バタンッ。
重い音を立てて、赤い帳簿が目に見えない力で激しく閉じられた。
静寂が空間を支配する。男は静かに万年筆を机の上に置いた。
そして、初めて顔をゆっくりと上げ、正面を見た。
脳の認識の隙間をすり抜けるような、感情の一切を排した事務的な声が、静かに響いた。
『お待たせしました』




