第14話 保留案件
受付係が万年筆を机に置いた瞬間、ぴたりと閉じられたはずの「赤い帳簿」が、意思を持つように再び音を立てて開いた。
三上は激しい頭痛を堪えながら、開かれた最新のページへ視線を叩きつける。そこに刻まれていたのは、もはや歪むことも、認識を拒まれることもない、恐ろしいほど鮮明な活字だった。
『受付番号:1988-00001』
『更新日:2026年7月20日』
『氏名:藤堂 玲奈』
『状態:受付済』
(「処理済」……じゃない……?)
三上は直感した。
歴代の被害者たちの横に刻まれていた『処理済』という最悪のステータス。しかし、玲奈の欄は『受付済』のまま止まっている。肉体はまだここにある。まだ、引き戻せる──。
「触るな!」
背後のノイズから放たれる無言の圧迫感を跳ね除け、三上はカウンターの上から赤い帳簿を強引に奪い取った。頁を狂ったように手繰る。その最上段に並ぶ管理項目が、眼に飛び込んでくる。
【 受付 】 ─ 【 呼出 】 ─ 【 着席 】 ─ 【 面談 】 ─ 【 処理 】
これが、この怪異が38年間執行し続けてきた「業務フロー」の全貌だった。
システム上で『相談者』と分類された者たちの記録を、貪るように追う。
『1988-00000 / 氏名: / 状態:保留』
『1989-10220 / 氏名:黒川 正人 / 処理済』
一九八八年の最初の受付番号『00000』。
それだけが、氏名欄が空白のまま『状態:保留』という素っ気ない記載で固定されている。この空白の文字が意味するものが、この永劫に続く手続きの歪みの正体なのか。
「……先生」
冷え切ったコンクリートの空間に、聞き覚えのある声が落ちた。
三上が弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、新名だった。
だが、今までの怪異が見せた、生者を呪い殺そうとするおぞましい幽霊の姿ではない。酷くやつれ、自分の存在そのものに困惑しているかのように、頼りなく佇んでいた。
「君は……なぜ、ここにいる」
三上の問いに、新名は答えず、しばらく自分の透き通るような手を見つめていた。
「……分からないんです」
新名の声には、怯えよりも深い困惑が滲んでいた。
「気付いた時には、ここにいました。……でも、周りの人間が俺を見る目が、おかしいんです。まるで、俺が何かをしたみたいに。俺の中には、何も、記憶がないのに」
三上は黙った。
そこで初めて、胸の奥で燻っていた違和感が、明確な形を結び始める。
黒川事件の現場で目撃された新名。
玲奈の周囲に現れ、精神を追い詰めていった存在。もし新名本人が何もしておらず、記憶すら欠落しているのだとしたら──。
では、あの時、黒川たちが怯え、玲奈が見た「新名修平」とは、一体何だったのか。
三上は血走った目で、奪い取った赤い帳簿の頁へと視線を叩きつけた。
すでに『処理済』と刻まれた黒川の記録。その詳細な管理項目の数行下に、細い活字が並んでいるのを三上の眼が捉えた。
『呼出対象:黒川 正人』
『使用情報:新名 修平』
『適用理由:親族・知人記録との一致率 94.7%』
(……担当者、じゃない。使用情報……?)
その冷徹な行政表記を目にした瞬間、三上の脳内で、これまで怪異だと思われていた事象のすべてが、最悪の論理性を伴って噛み合わさった。
「……君が行ったんじゃない」
三上は帳簿を睨んだ。
「黒川さんの前に現れたのは、君の姿をした何かだ」
新名が顔を上げる。
「このシステムは、人間を派遣しているんじゃない」
三上の指先が、『使用情報』の文字をなぞる。
「相手が最も確認しやすい情報を選んでいるんだ。名前、顔、声……その人間の記憶に残っているものを利用して、窓口まで誘導するためだけの形を作っている」
新名は自分の透ける手を見た。
その手が、誰かを死へ連れて行った記憶などない。それでも、帳簿には自分の名前が冷酷に残されている。自分という人間が、単なるデータとして消費された事実だけが、そこに衣服のように剥ぎ取られて残っていた。
三上は、ポケットの壊れた測定器を見た。
煙を噴きながらも、液晶は『18.3Hz』を指したまま狂っている。鼓膜の裏でずっと鳴り響くこの共鳴音。
あの時、藤堂玲奈が言った。
『そんな人、知らない』
その直後だった。
耳の奥で、あの音が鳴り響いたのは。
(……拒絶されたと判断したんじゃない)
三上の背筋に、冷たいものが走る。
(もっと質が悪い。本人確認が取れないと処理しただけだ)
【呼出対象者、関連通知を否認】 ─ 【本人照合失敗】 ─ 【代替確認処理へ移行(未応答扱い)】
役所は人間の感情を理解しない。
「嫌だ」「知らない」という拒絶の意思表示をすべて、システムはただの「申請情報との不一致」として処理する。
本人確認が不成立となったため、手続きを次のフェーズ(強制的な迎え)へと自動移行させ、対象者を捕捉し続けるための機械的な処理音。すべては、間違った処理を修正することなく走り続ける、壊れた行政手続きに過ぎなかった。
「……そもそも『相談』って何なんだ! 藤堂さんも、俺も、過去の被害者たちも、誰も市役所に相談なんて持ちかけていない!」
三上は帳簿を睨みつける。
「なのに、このシステムは最初から俺たちを『相談者』として扱っている。俺たちが何を望むかじゃない。存在そのものが、勝手に行政データとして処理されようとしているんだ……!」
三上が激昂のままに叫ぶ。
新名は何も答えず、ただ静かにカウンターの奥を指差した。
すべては、あの窓口の男だけで処理が進んでいく。
絶望的な規則が並ぶ中、三上の学究的な脳細胞だけは死んでいなかった。帳簿に刻まれたフローチャートの文字列を、血走った眼で凝視する。
【 呼出3回 】 ─ 【 未応答 】 ─ 【 迎え 】 ─ 【 面談 】 ─ 【 処理 】
(……待て。まだ、フローは終わっていない)
『迎え』によってここに連れてこられた後、必ず【 面談 】というステップを経由している。だが、問題はその先だ。【 処理 】その二文字が何を意味するのかだけが、どうしても読み取れなかった。
ただ、過去の記録に並ぶその文字の横で、人間だけがこの現実から確実に消えている。
最終的な決定権が窓口の受付係にあるのだとしても、その先に待つ『処理』の正体が分からない以上、玲奈を救い出すための交渉の余地があるのかさえ、三上には判断がつかなかった。
三上は激しい目まいに襲われ、こめかみを押さえた。さらに、もう一つの冷たい違和感が脳を侵食していく。
なぜ自分は、黒川事件の重要人物として新名の存在を記録し、何度も資料に目を通していたはずなのに、この地下に足を踏み入れるまで、彼の存在を完全に意識の外へ追いやっていたのか。
(なぜ、俺は新名の情報を正常に記憶できなかった……?)
強烈な疑問が首をもたげたが、その思考を突き詰める猶予は、システムによって強制的に打ち切られた。
◇
カウンターの向こう側で、猛烈なノイズを纏った受付係が、38年間で初めてゆっくりと椅子から立ち上がった。手には万年筆。机の上には、三上の手元からいつの間にか消え失せ、元の場所へと戻っている赤い帳簿。
三上は手がかりを求めて、受付係の机の上を凝視した。
そこには、経年劣化で黒ずんだ、古い真鍮製の卓上名札が置かれていた。しかし、その表面さえも、歪んだノイズが激しく覆い尽くし、文字を認識することを拒絶する。
『相談受付係』
その先の文字が見えそうになった瞬間、激しいテレビの砂嵐のようなノイズが文字列を完全に込み、文字は再び潰れた。何も読み取らせない。ただの役割として、機能として、そこに存在している。
男が万年筆を静かにポケットへ差し込んだ。
パイプ椅子に座る何十人もの失踪者たちは、物音ひとつ立てず、同じ角度のまま静かに前を見つめ続けている。異様なまでの静寂が、第一相談室を支配していた。
顔の潰れた男から、一切の感情を排した。
しかし絶対的な重みを持つ事務音声が空間に響き渡った。
「──次の相談者様」
その声に応じるように、三上の横で、玲奈がゆっくりと椅子から立ち上がり、一歩前へ歩き出した。
「待て! 藤堂さん!」
三上が反射的に彼女の腕を掴む。
しかし、玲奈の身体は信じられないほどの力で、三上の制止を無視して引きずられるように窓口へと進んでいく。その視線は微動だにしない。
三上がなおも必死に玲奈を引っ張り、抵抗しようとした、その時だった。
カウンターの奥の、ノイズに塗れた受付係の顔が、初めて玲奈から逸れ、明確に三上を捉えた。
肌を刺すような静寂の中、男の口から、冷徹な事務連絡が放たれた。
「同伴者様は、そちらでお待ちください」
三上の手が凍りつく。
その隙にも玲奈は前へ進もうとする。
ガチ、と後ろの待機列から微かな音がした。
振り返ると、何十人もの失踪者たちの誰かが、感情の抜け落ちた声で、ぽつりと呟いた。
「……番号を、お呼びしました」
誰の声かは分からない。
だが、その一言が、並ぶ全員の総意であるかのように空間に溶けていき、再び深い静寂が戻ってきた。




